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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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自由律俳句と定型俳句(まとまらないまんま)


昨日の深夜、ネットで
自由律俳句と定型俳句の人の話を読んで、
ふうーんとその後色々考えさせられました。
定型俳句の人、
あるいは俳句をしない人もそうかも知れないけど、
いわゆる自由律俳句、
575の定型と季語という、
少なくとも現在の俳句を定義する上で必要不可欠とされる
この二つの大原則を手放した自由律俳句、
これを「俳句」と言っていいのか、
ツイッター上の呟きとはどう違う?
詩として認めるとしても、
「俳句」というカテゴリーにこだわる意味は?
一行詩、でいいじゃない
みたいな、ね
そういう疑問を持つことと、
いや、自由律俳句も俳句の一つなんだ
っていう意見ね。
(と、思って元の話を読んだんですが、
微妙に違ってたらごめんなさい)

わたしは
俳句を俳句たらしめている要素って
もちろん定型と季語というお約束もありますが、
それ以上に「切れ」と「我」だと思ってます。
前者二つだけなら、
それって川柳とどう違うの?
って話に突入しちゃうと思うんですよ。
あとは、
何を自分が今詠んでるのかっていう意識ね。
自分が詠んでるのは「俳句」
自分が詠んでるのは「川柳」
自分が今ツイートしたのは「俳句」
自分が今ツイートしたのは「つぶやき」
そういう意識。
そんなかにも上手いとか下手はもちろんあるけど、
俳句とは認められないとか
そういう批判はおこがましいんじゃないかなって思ってます。

ところで、そもそも話になるんですが、
いわゆる「近代俳句」と
自由律俳句の芽だった「新傾向俳句」、
考えてみれば大した時間的な差はないんじゃないかなぁ
って思うんですがどうでしょう。
勿論連歌からの発句の独立、江戸俳諧とか
そういうものを含めちゃうと、
けっこう歴史の差はありますが、
正岡子規の始めた俳句革新からを近代俳句とすると、
うーん、日清戦争直前ぐらい?
明治26、27年ぐらいですかね。
で、
河東碧梧桐が「新傾向俳句」という
新しい俳句の方向性に走り始めたのが、
明治40年前後ってとこでしょうか。
ちなみに、
「伝統俳句協会」
って団体がありまして、
これは高浜虚子から連なる俳句結社「ホトトギス」と、
その子、孫結社などから作られてる、
とわたしは認識してるとこなんですが、
伝統ですよ。伝統。
でも
高浜虚子が本腰入れて「ホトトギス」で俳句を指導し始めたのって、
碧梧桐が新傾向俳句に入れ込んで、
(一時ではありますが)俳壇がすっかり新傾向俳句に傾いた後なんですよね。
まあ、まだその頃は
自由律とか無季を掲げてやってたわけではないんですけれども。
碧梧桐の門下だった荻原井泉水が、
無季をゲットしたのが大正の初めぐらい。
自由律の親とも言える新傾向俳句のあととも言えるんじゃね?
みたいな気持になったりします。
まーこれは
突っ込まれればボロが出て来る
適当な言いがかりみたいな話ではありますが、
自由律俳句は
はぐれものが歴史の途中で横道に逸れて、
それでも「俳句」っていう看板を使ってる
みたいな話ではないんじゃないか
ってことがいいたかったわけです。
新しい俳句を模索してた、
まだ俳諧が俳句となって日の浅い頃、
すでに、のちに自由律俳句へと続く道が分かれてた
だから、今更、それ俳句って言っていいのか
って言うのも何様だよって気がしないでもないです。

なんかまとまりのない文でしたが、
まとまりないついでに
もうちょびっと。
河東碧梧桐が始めた新傾向俳句についてですが、
これは(わたしの思うところではありますけども)
同じ頃文学界で興った自然主義の影響が多分にあって、
これって超客観の姿勢で物事を把握しよう
みたいな感じだったのが、
次第に矮小化してって、
最後には私小説になって終っちゃった、
みたいなやつですよね。
碧梧桐も、超客観で考えると、
定型に当てはめるとか、
一句の中にひとつの強いイメージを盛り込むっていうのは、
それは作為になっちゃう、
みたいな、
たしかそんなことを言っていたと思います。
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あと100首ぐらいで2000首突破するらしいということ

ツイッターでもちらっとつぶやきましたが、
既発表作(ツイッター含)だけで、
あと100首ぐらいで2000首に到達するんだなって
なんとなくそれは感慨深いものがあるなぁって思いました。

わたしは俳句を結構長くやってて、
正直、俳句はたぶんこのまま頭打ち状態のまま終るんだろうな
って予感を持ってて、
なんか新しいことしたいなって思って、
そこから短歌の世界に飛び込んだわけです。
あ、もちろん俳句を捨てて、ではないですが。
最初は自分の軸は俳句にあって、
短歌は本気の遊び、って思ってたんですが、
うたの日っていう毎日開催のネット歌会に出会って、
それこそ毎日短歌を最低一首は詠むわけで、
そうなると、一ヶ月に十五句ぐらいしか詠まない俳句と比べても、
ほぼ倍なわけです。
うたの日は題詠なので、
題詠じゃないのも詠みたくなると、
それでまた俳句の三倍ぐらいにまでなっちゃう、と。
そうすると、主従逆転といいますか、
どっちがメインなんだろうなって思ったりするんですよね。
去年から短歌結社にも入って、
俳句結社と二足の草鞋状態ですし、
余計にね。

短歌の面白さって、
人それぞれ、短歌の捉え方の違いなんかもあるし、
ほんとに人それぞれなんだと思うけど、
わたしは自由に遊べるところが気に入ってます。
57577の定型って枠組みはありますが、
まあそのぐらいですよね。
文語で詠んでもいい、口語で詠んでもいい、
作中主体が自分自身でなくてもいい、
(これについては、わたし自身はわたしを詠むことが多いですが)
表記も、新かなでも旧かなでも、
アルファベットやその他の言語、記号を使ってもいい、
一首で成立させてもいいし、
複数首で完成させてもいいって
これはもうなんでもありやなぁって思うと、
嬉しくなっちゃいますね。
うたの日で今わたしは、
とりあえず4月いっぱいは文語旧仮名遣いでやってみよう
ってチャレンジをしてます。
口語短歌を見て、短歌を始めたので、
わたしがふつうに詠むときは完全に口語なんですが、
文語が出来ないから口語、
っていうのが嫌なんですよ。
文語と口語、どちらも詠んでみて、
今はやっぱりこっちがいいなって選んだ、
と自分で思える程度には文語もやっておきたい、
そんな感じです。
旧仮名なのは、これは文語は旧仮名でという
わたしのこだわりみたいなものですね。
今、わたしたちが普段使うのは新仮名なんだから、
新仮名の方がナチュラルじゃない?
っていう考え方もあるんだろうと思うんですが、
数はほんとに少ないはずではありますが、
「出る」の文語「いず」を「出ず」と表記していいのか?
みたいな気持もあって、
文語には旧仮名、というのはわたしのこだわり。
っていうか、
今更、言文一致とか?
みたいな気持もあります。
前述したみたいに、今短歌では何でも使えるのに、
あえて普段使いの新仮名しか使わないとか
別にそこまで自分で狭める必要あるのかなぁ
とか考えたりします。
ただね、一首、あるいは一連の短歌の中で、
旧仮名遣いと新仮名遣いが混じるのは、
これは基本なしって思います。
これはね、校正する人が困るからです。

と、だらだらと書いてきましたが、
わたしが書きたかったことは、
もうすぐ2000首!やっぱり短歌面白いなってことでした。

うたの日……のことじゃない話


2月17日のうたの日は……
「抜」で投稿したんですが、
この夜は句会で外出してたので、
選が出来ませんでした。
ちなみに
伝説の勇者でなければ抜けないと言われて火照る指先のとげ(しま・しましま)
でした。

後からいいなと思ったものをいくつか選んで
感想書こうかなとも思ったんですけども、
別の話題でもいいかなー
とか。
えーと、数日前にも、
連作の話をしましたが、
またその話。
ゾンビ短歌20首連作を作った、
という話なんですが、
これを三人の方に読んでもらいました。
「ゾンビ」っていうそのまんまな言葉を使いすぎ
とか
ゾンビイメージがよくある感じかな
とか
美醜のコントラストとか
うたの並べ方とか
あと、このうたについてはわからない
とか、
ご意見を頂いて、
ああー、なるほどそこは気がつかなかったけど、
たしかにそうだ
ってことばかりで、
ホントに色々アドバイスありがたかったです。
書いてもらったことを参考にして、
いくつかは部分的に手を入れて、
いくつかはさっくり別のうたに入れ替えたりして、
決定稿も送らせてもらいました。
多分こんかいのアドバイスは、
今後別の連作をつくるときも、
かなり有効なんではないかなーって思ってます。
一首一首のクオリティの問題は
とりあえずその時々で違うわけですが、
配置の仕方とか、
複数のうたを並べた時に、
このうたのこの部分がこっちのうたに干渉しちゃうとか
このあたりは何の連作でも同じですよね。
ちなみに今回の連作は、
前にも書きましたが、
ゾンビドラマ「ウォーキングデッド」が好き過ぎて作ったやつ
ってことですが、
20首連作で、
まったく新しい世界観のゾンビワールドを作り上げる自信がなかったのと
まったく新しいゾンビワールドだとしたら、
いくつか説明的なうたを用意しなくちゃいけないな
となると20首じゃ足りないなぁ
ってことで、
一応世界観としては、
みんながぼんやりと思い浮かべることが出来るゾンビワールド
を借りることにしました。
そこに一人の主人公を置いて……
という感じで詠み進めました。
ありものの世界観の上に、ではありますが、
フィクションの物語を構築していくのは
思った以上に楽しくて、
これはまた手を出してしまいそうな楽しさがあるなって
思ってます。
今回は三人の方に読んでもらいましたが、
次回(があるとしたら)、
もう少し人数が増えるといいなって思ってます。
よろしくお願いしますー。

備忘録というかチラシの裏的、人生においてトップ100に入る小説の半分

自分の人生においてトップ100に入る小説をあげてけ(チラシの裏でな)

ここをチラシの裏代わりにとりあえず、確定した50を上げておきます。
順位はつけてません。
あと悩んでるのは、クレイグ・ライスとかレックス・スタウトとかシャーロット・マクラウドとか、
シリーズものが特に好き!っていう作家の一作を、
どう選べばいいんだろうってところですね。
一冊にはならない作家とか、
この50にもちらほらありますが、短編ひとつだけをあげる、という
そういう作家ももっと出てきそうな残り50だったりします。
あとあと、
日本の作家の100も考えたんですが、
どう数えても100人に満たないんですよね。うーん。
片寄ってるんだなぁ。

莫言 「豊乳肥臀」
ジョン・アーヴィング 「ホテル・ニューハンプシャー」
スティーヴン・ミルハウザー 「エドウィン・マルハウス」
チャールズ・ディケンズ 「オリヴァー・トゥイスト」
ベルナール・ウェルベル 「蟻」
シオドア・スタージョン 「タンディの物語」(「不思議のひと触れ」収録)
スティーヴン・キング 「死のロングウォーク」
トーベ・ヤンソン 「誠実な詐欺師」
J・M・クッツェー 「ペテルブルグの文豪」
カレル・チャペック  「クラカチット」
メアリー・W・ウォーカー 「神の名のもとに」
レイ・ブラッドベリ 「スは宇宙(スペース)のス」
ジョー・R・ランズデール 「ボトムズ」
イサベル・アジェンデ 「エバ・ルーナ」
ミュリエル・スパーク 「不思議な電話」
ポール・オースター 「ミスター・ヴァーティゴ」
P・G・ウッドハウス 「スミスにおまかせ」
G・ガルシア=マルケス 「エレンディラ」
ダニエル・ウォレス 「ビッグフィッシュ」
カズオ・イシグロ 「わたしたちが孤児だったころ」
バリー・ロペス 「修復」(「冬かぞえ」収録)
スタニスワフ・レム 「虚数」
ウィリアム・ギブスン 「パターン・レコグニション」
ギュンター・グラス 「蟹の横歩き」
ジョゼ・サラマーゴ 「白の闇」
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア 「老いたる霊長類の星への賛歌」
グレアム・スウィフト 「ラストオーダー」
フリオ・コルサタル 「海に投げこまれた瓶」
ピーター・ケアリー 「イリワッカー」
イスマイル・カダレ 「砕かれた四月」
ロディ・ドイル 「ヴァン」
アドルフォ・ビオイ=カサレス 「モレルの発明」
ヴァレリー・ラルボー 「幼なごころ」
アーダベルト・シュティフター 「シュティフター作品集 石さまざま」
ディーノ・ブッツァーティ 「石の幻影」
V・S・ナイポール  「神秘な指圧師」
ルドルフォ・アナーヤ 「トルトゥーガ」
ジョナサン・フランゼン 「コレクションズ」
イサク・ディーネセン 「バベットの晩餐会」
アンソニー・ドーア 「シェル・コレクター」
マリオ・バルガス=リョサ 「フリアとシナリオライター」
テリー・ビッスン 「熊が火を発見する」(「ふたりジャネット」収録)
ジャン・ヴォートラン 「パパはビリー・ズ・キックを捕まえられない」
ジョナサン・レセム 「銃ときどき音楽」
イアン・マキューアン 「愛の続き」
ジム・クレイス 「四十日」
アリステア・マクラウド 「彼方なる歌に耳を澄ませよ」
デイヴィッド・プリル 「連続殺人記念日」
トバイアス・スモレット 「ロデリック・ランダムの冒険」
クリス・ファーマン 「放課後のギャング団」

過去の短歌


今年もうたの日イベントとして
「短歌一武道会」が開催されるようですが、
前回の「短歌一武道会」に
わたしも参加しました。

その時の作品です。

第一回戦
「結」
ラッピングリボンのように一度だけ結ばれあって終ればいいよ

第二回戦
「新品」
カラオケのソファに誰も凭れない新品の友情持て余しながら

第三回戦
「黒」
幸せがきざすところをいつも見ない バナナの最初の黒い点とか

第四回戦
「パンフレット」
日に褪せたパンフレットのめくり癖 ひとりがさみしいと知らなかった

準々決勝
「南」
南から北へまっすぐ吹き抜けて全部もってけ祈りのことば

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