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しま・しましま

Author:しま・しましま
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しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(風・負け)


うたの日

9月17日歌題「風」

風の中振り千切れそうにはためいて帰ってくるよ父となる人(しま・しましま)

この日のお題は「元」「忍者」「風」
この日は、ひるの日の方の選をしてから、
きれいさっぱり12時を回るまでうたの日のことを忘れていて、
よるの方の選をすることができませんでした。
ひるの日の「忍者」は、ものすごく面白い歌がいっぱいあって、
選が楽しかったです。

ということで、この日いいなと思った歌。
みどりさんの
黒き爪を亀の子束子にこすりつつ伊賀の男は辛抱強い
「○○職人の朝は早い。」的な、
「伊賀の男は辛抱強い」という下の句の問答無用の説得力にやられました。
そうか、そうだよなって、思わせられてしまいます。
「黒き爪を」という初句の力強い詠み出し方もすごく魅力的で、
まず、ぐっと目を引きますね。
忍者の道具関係を準備したり手入れしたりした後、
鉄粉とか火薬とかで黒く汚れた爪を洗ってるんでしょうか。
繊細で無骨な、使い込まれた指先が想像されます。
んでもって、無口なんだろうなぁ、「伊賀の男」。
すてきでした。

加賀田優子さんの
空色の毛布で壁にくっついた忍者をぎゅっと抱きしめてみる
かわいくて、すてきでした。
どうなんでしょうか、壁の忍者はそうされても、
やっぱり壁に成りきって知らん顔をするしかないんでしょうか。
「空色の毛布」がやさしくていいですよね。
抱きしめるためのモノとしては絶妙なモノだと思いました。
やっぱり、ライナスの毛布みたいな、
安心毛布的なものなんでしょうか。
衣未さんの
美女たちに手裏剣投げて鮮やかに噴煙出してきみを連れ去る
くのいちでしょうか。
派手ですね。武闘派ですね。
全然忍んでないところが逆にすてきですね。
いきなり「美女たちに」と詠み出して、
場の華やかさをアピールしてるところもすてきでした。
全然「きみ」が見えてこないけど、
美女たちvsくのいち、という女の戦いに、
当事者とはいえ男は添え物かもしれないですね。



9月18日歌題「負け」

あの子って言うときあたし嫌な顔 まけてくやしいはないちもんめ(しま・しましま)

この日のお題は「賭け」「嫌」「負け」
現在開催されているうたの人の方の選評をしていた所為でしょうか。
「失恋」的要素がぐぐっと入り込んでしまいました。
それにしても、「あたし」っていう一人称、
普段から使わないんですが、短歌でもこれが二度目の使用になるのかな。
なんだか「オレオレ」的な自分アピールの強い感じがあって、
我ながらぞわぞわします。

この日いいなと思った歌。
井田了平さん
僕らの負け。どんなにうまく隠れても五時のチャイムが見つけてしまった
「五時のチャイム」に縛られるってことは、
小学生の「僕ら」なのかな。
もう、いつもいつも、すごく盛り上がってる最中に、
五時のチャイムが鳴って、遊びの時間が終ってしまう。
それを「負け」って表現するのは少し大袈裟かなぁとも思うんですが、
そう言っちゃうほど、くやしい気持があるんでしょうね。
二句目からの
「どんなにうまく隠れても」
から、
「僕ら」の黄色いあんよが連想されて、
「僕ら」視点ではなくて、お母さん視点で、
かわいいなぁって思います。

きいさんの
この次は頑張ろうねと言い合って負けてばかりのチームにいます
なんとなく、弱小女子バレー部を想像してしまいました。
「この次は頑張ろうね」って
多分、その試合だって、ちゃんとそれなりに頑張ったんだろうけど、
自分たちでも、それがそれなりの頑張りだって分かってる。
次こそ本気で頑張ろうねって言い合うし、そう思うんだけど、
やっぱり負けちゃうんでしょうね。
下の句の
「負けてばかりのチームにいます」の「います」が
味があるなぁって思います。
ほんわかした感じで、そういうチームも楽しいんだろうなって思います。
そういうスポーツの楽しみ方、あっていいと思うんですよね。
葵の助さんの
少しくらい泣けよと思った無表情で別れ話を受け入れられて
もうね、
読んだ時に、うひゅひゅって変な感じに笑ってしまいました。
なんて主体はヒドイ奴なんだ(棒)
別れ話を切り出すほうが泣いちゃうのも、ズルイ話ですが、
別れ話を切り出しておいて、
「少しくらい泣けよ」
って思っちゃう主体、
ヒドイ話だけど、
でも、わかります。
めっちゃわかります。
ちょっと私的に惜しいなぁって思ったのは、
「無表情」というフレーズが、かなり印象の強いものなので、
せっかくの
「少しくらい泣けよ」が弱まっちゃうかなぁと。
「無表情で別れ話を受け入れられて」
という下の句は、上の句の状況説明的な感じなので、
そこはさらっとさせても良かったんじゃないかなぁ。

うたの日(ハンカチ)


うたの日

9月16日歌題「ハンカチ」

ポケットからみんなハンカチ出して振れ 南へ帰る夏鳥、その他へ(しま・しましま)

この日のお題は「レモン」「雷」「ハンカチ」
あんまり関係ないけども、
現在、THE POP GROUPの今年でたアルバムを聞きながら書いています。

この日いいなと思った歌。
松木秀さんの
「レモン汁」書かれた中身かけて食うほっともっとのからあげ弁当
おおっ今日一で好きな歌!
って思った歌でした。
わたしが利用するのは「ほっかほっか亭」で、
ここのからあげ弁当には「レモン汁」じゃなくて
「ゆずしょうゆ」が付いてるんですが、
「レモン汁」ももちろん分かります。
この鍵カッコの「レモン汁」が
四角い小袋のレモン汁の姿そのものみたいで、まずおおぅって思いました。
「レモン汁」を次の二句目と助詞で結んでないところも
いかにもからあげに添えられた小袋感がありました。
で、レモン汁だか何だか分からないけど、
そう書かれた小袋の中身をかけて食べる、
という、
それだけでいて、
微妙なハードボイルド感とか皮肉っぽい感じとかが出てて、
ああー、いい…って感じでした。
宇野なずきさんの
サンリオのキャラが描かれたハンカチをいつまでも使い続けてる祖母

子供っぽい柄で、大人が使うには、多分少し小さめのハンカチなんでしょうね。
主体が昔プレゼントしたものとか、そういうことなのかも知れませんが、
物持ちの良さとか、実用に叶えばキチンと使用するという姿勢がいかにも「祖母」という感じでいいなって思います。

というコメントをうたの日に入れましたが、
この歌で、面白いなって思ったのは、
その「祖母」を見る主体の視線の温度が、
「あたたか」とは少し違う感じがしたところでした。
こんなステキなおばあちゃん、という紹介ではなくて、
どことなく「やれやれ」的な気持がひそんでそう。
って言ったら穿ちすぎでしょうか。

えんどうけいこさんの
唐揚げにレモン絞っていいですか 恋人になっていただけますか
この歌を一目見て、
大西泰世さんの川柳のオマージュかなって思いました。
こいびとになってくださいますか吽(うん)
ほんとうのところは、
オマージュなのか、たまたまちょっとだけ似てたというだけなのか
分かりませんが、
この歌の面白さは、
相手から「うん」の一言を引っ張り出したいのか、
そうでもないのかが分からないところ。
矢継ぎ早に二つの質問して、
最初の質問で「うん」って答えた勢いで、
次の質問にもうっかり「うん」って言っちゃう
みたいな流れが、この二つの質問だと出来るかどうか怪しいんですよね。
「唐揚げにレモン」
これ、「ちょっと待って」「自分でかけるわ」って言われそうですし。
中牧正太さんの
我はいつ見つめることに飽きるのかあのハンカチはステッキになる
「あのハンカチはステッキになる」
と、決め付けて、じっと視線をそらさないように見ている
って面白いなって思いました。
「我は」から「ステッキになる」まで読んで、
マジックをひたっと見詰めているという子供(あるいは子供っぽい人)かなと
思うんだけど、
またもう一度上の句へ戻ると、
なんとなく、このハンカチをステッキに変えてしまいそうだと見ている対象が
マジシャンではないのかな、
どうしても見つめてしまう人がいて、
でも、その人って主体が好きな人なんだけど、
どうしても信用できない人なんじゃないかな
とか思えてきちゃって、
不思議な上の句と下の句だなぁって思います。
ほしくんさんの
ディズニーのハンカチ落ちてる踏まれてる拾いあげるも躊躇うほどに
拾い上げるのも躊躇うほど
っていう感じ、すごく「落ちてる」ハンカチに相応しいなぁって思います。
惜しいなぁって思うのは、
ちょっと言葉ががちゃがちゃしすぎてるところ。
「落ちてる踏まれてる」という話し言葉でハンカチの状態を二つ重ねたとことか
「拾いあげるも」っていう、
多分「拾いあげるのも」を7音に入れるためにけずった1音とか、
無残なハンカチ、それも一目でディズニーキャラクターとわかるハンカチって
いうモチーフはすごくいいなって思いました。

うたの日(車)


うたの日

9月15日歌題「車」

駐車場の防犯カメラにも長い夜が来ているらしいにぎわい(しま・しましま)

この日のお題は「窪み」「くじら」「車」
「防犯カメラに長い夜」というフレーズは、二日前の「長」のお題で
ちょっと考えていたものを、流用してみました。

この日、いいなと思った歌は、
みどりさんの
酔鯨のひびき美し沖縄のガラスの酒器をしずかに満たす
「ひびき美し」うん、とてもひびきの美しい歌だなぁって思います。
「酔鯨」って、高知県の日本酒の名前らしいんですが、
「すいげい」って確かに良い名前です。
鯨飲馬食の鯨飲と関係性のある名前なのかなって思ったけど、
土佐藩主の山内容堂の雅号「鯨海酔候」から来てるんだとか。
まあ、それはどうでもいいんですが、
「酔鯨のひびき美し」硬い言葉からやわらかい言葉へ
「ガラスの酒器をしずかに満たす」硬い言葉からやわらかい言葉へ
っていうリズムがいいなぁって思います。
その間を埋める「沖縄の」という言葉が、
その後に続く「ガラスの酒器」に掛かるものだとは分かってるけど、
読むときに、
スイゲイノ/コトバウツクシ///オキナワノ//ガラスノシュキヲ/シズカニミタス
って「沖縄の」で軽く切れるイメージで読んじゃうので、
琉球ガラスの器のイメージだけじゃなくて、
その前のフレーズとも結びついて、「美ら海」まで想像されて、
ホントきれいな歌だと思いました。すてきすぎる。
井田了平さんの
「乗り心地いかがですってディーラーが悲しい顔で何度も聞くの」
「車」のお題の歌で、ハートをいれたのがこれ。
不思議な魅力のある歌でした。
「乗り心地いかがですか」って
じゃなくて、
全部が鍵カッコでくくってあるということは、
それ自体が誰かのセリフで、主体はそれを聞いている側なんですね。
なんでそのディーラーは悲しい顔をしてたんだろう
っていう疑問はもちろんだけど、
主体にその話をした相手は、それをどういう気持で受け取って、
主体にそれを伝えてるんだろう
って、色々と不思議で、
ちょっと居心地が悪くて、
めっちゃ魅力的でした。

鹿沢和元さんの
海に溶けくじらに傷を付けそうでばかやろうとか叫べずにいる
この、あさっての方向に繊細な感じ、好きだなぁ。
海に向かって「ばかやろう」って叫ぶという、
昭和なステレオタイプの青春性を、
実行して晴らしてみたいもやもやがある主体と、
「ばかやろう」のとげとげした成分がそのまま海に溶けて、
海に住むくじらを傷つけてしまうかもしれない
というやさしさ。
わたしはこの「傷を付けそう」というのを、
実際にくじらに傷がつきそうって読みましたが、
海の中で「えっ、ばかやろうっておれのこと?」って
心が傷ついちゃうくじらでもいいのかも。
えんどうけいこさんの
どうしてもくじらバーグが食べられず掃除の時間まで残される
「くじらバーグ」、多分くじら肉をハンバーグ状にしたものと思われますが、
実際そういうものがあるのかないのか分かりません。
分かりませんが、空想上の食べ物として鑑賞しました。
給食が食べられなくて、掃除の時間まで残される、
って、今はどうだか分かりませんが、昔の給食あるあるですよね。
その食べられないものが、「くじらバーグ」っていう架空の食べ物ってところが
面白いなって思いました。
鯨を食すことについて(ひいては鯨漁について)いろんな意見があると
思うんですが、
この歌にはそのどっちの意味合いもなさそうな気がして、
そこもゆったりと楽しめたところかも知れません。
静ジャックさんの
ビデオには肩車する父がおり母は静かに席を離れる
この歌は、古いビデオを家族で鑑賞してるという情景なのかな。
父が子供を肩車しているシーンがあって、
そのシーンに来たとき、母が静かに席を離れた。
それだけしか言葉にされていないけど、
ビデオの中のまだ若い父と(多分)幼い頃の主体、
その父がもう居ないんだってことがわかります。
わたしがいいなって思うのは、
主体が、母を黙って気遣ってるところ。
多分あからさまに母を見たりはしていないけど、
「静かに」席をたつ母の気配をきちんと感じているところが、
やさしくていいなって思いました。
天野うずめさんの
救急車のサイレンの音響きたり 父は喪服に少し目をやる
この歌も、ホントいいなぁって思いました。
救急車のサイレンが、家の近くを通ると、
なんとなく近くで止まるんじゃないか、って
身構えてしまいます。
私事になっちゃいますが、
数年前、近所で立て続けに不幸があって、
それが全て救急車が来て数日後に
って感じだったので、
それからしばらくの間、救急車が近くを通ると、
その行方を耳を澄ませて聞いてしまうようになっちゃいました。
もしかしたら、この歌の父も、
そういう気持で、
ふっと喪服に目をやったのかも知れません。
喪服がすでに表に出してあるってことは、
そういうことかなって思いました。

うたの日(長・異)


うたの日

9月13日歌題「長」

この夜の長さをそっと分かち合う抱(いだ)けば肋ばかりの猫と(しま・しましま)

この日のお題は「長」「秋」「中学3年」
うちの中でわたしと今ツイッターのアイコンに使ってる猫だけが宵っ張り。
この猫はわたしのベッドで一緒に寝る仲なんで丁度よかったりします。
この間までアイコンに使ってた猫(もうひとつのブログの
プロフィールの写真の猫)は、もう結構なおじいさんなので、
昼も夜も気が付くとどこかで寝ています。
そしてふとっちょで「肋」感は薄いです。

この日すきだった歌
せんさんの
そんな事ありましたかと母が言い 長いもんなと父がつぶやく
何気ない家族の会話の中の、
さりげない夫婦の言葉を切り取った歌で、
家族が重ねてきた時間の長さがすてきに表現されてて
すごく好きだなぁって思いました。
「母が言い」「長いもんなと」の間、上の句と下の句の間に、
さりげなく半角の一字空けがあります。
(あえて全角半角を使い分けたのかどうかは、
何を使って入力したかによるのかもしれないんですが)
この一字空けが、母の言葉を受けて、父がつぶやくまでの時間を感じさせて、
しかも、ハッキリものをいうんじゃなくて「つぶやく」
ってところが、いいなぁって思いました。
この家庭での父と母との力関係ではなくて、
この「父」のロマン尊重派っぽい感じと、「母」の現実重視派な感じがいいなぁ。

こりけケリ子さんの
ドングリが全ポケットに入ってて長い夢ではなかったみたい
この歌を見たとたん
「夢だけど!夢じゃなかったー!」
って口走りたくなりました。
「ドングリ」「夢ではなかった」って
それだけでもうとなりのトトロの世界だなぁ。
○○があるから、あれは長い夢なんかじゃないんだってところは
千と千尋の神隠しのラストシーンっぽくもありますね。
で、
このドングリが「全ポケット」に入ってるところが、
とてもすてきだなって思います。
あ、ここにも!こっちにも!
みたいに、一個ずつどんぐりが隠れてるのも楽しいし、
全てのポケットにパンパンのぎゅうぎゅうにドングリがたくさん詰ってる人を想像するのも、
もう、その想像だけで楽しい感じ。
薄荷。さんの
雨の日は夜がちょっぴり長いから縫い針滑るように進んで
「雨の日は夜がちょっぴり長いから」
っていう上の句が好きでした。
うたの日にも同じようなコメントを入れたんですが、
「雨の日は夜がちょっぴり長い」というのを、
そう感じるとか、そんな気がするとか言わずに、
「長いから」ってそういうものだからって言い切ってるところが好き。
主体はきっと夜の時間が好きなんでしょうね。
雨の日、昼間は洗濯物が乾きにくいとか、
外出するにしてもそれなりの準備が必要ですこしうっとおしいんだけど、
家の中で落ち着く夜は、雨がしっとり落ち着いてて好き
とか、そんな感じなのかな。


9月14日歌題「異」

握る手をするりと抜けたふうせんはもう青空の異物のひとつ(しま・しましま)

この日のお題は「異」「縁」「味」
この日は、めずらしく、全ての題で選に参加してみました。
11日の句会、12日の歌会、14日の句会と、リアル句(歌)会続きの、
それが終ったところでハイだった可能性あります。

この日、ハートを入れた歌。
鹿沢和元さんの
異常異常異常なまでに良くなった明日に飛び込む姿勢で眠る
この歌も、「異常異常異常」と畳み掛けた詠み出し方から、
異常なまでのハイな感じを受けました。
心身共に疲れきりながらの句会ハイの私の波長に
このハイな歌がぴたっとハマったという感じでしょうか。
この歌の主体も、今現在(この歌のね)心身共にギリギリの疲労の淵に
いるんではないかと想像します。
そして、何か特に根拠もなさそうだけど、
「異常なまでに良くなった明日」があると信じて、
そこへ「飛び込む姿勢で眠る」
という。
ああ、この人のこの「明日」がそこまで良くなかったらどうしようと、
読んでいるこちらがハラハラしそうな、
勢いがある歌でした。
一晩たって、私自身は落ち着いたわけですが、
やっぱり好きですね、この歌。
なんなら、「異常」はもう一つ入れてしまって、
もう少し異常にかたむいた勢いがあってもいいぐらい。
みどりさんの
祖母の家は広くて静か縁側で蜻蛉とわたしは雨をみていた
もう、すごくすてきで、一目でコレ!ってなりました。
「祖母の家は広くて静か縁側で」
もう、これが過不足のない田舎のおばあちゃんちの表現だなぁって
感心しました。
雨だし、友達もいないし、多分テレビもゲームもない。
大人はきっと、大人の話をしてて、
「わたし」はすることもなくって、庭を見てるんでしょうね。
気が付くと、少し離れたところで、蜻蛉も雨宿りしてて、
まるで一緒に庭の雨がふっているところを見てるみたいだった。
この歌を読んでいると、自分まで幼い子供にぐわーってもどっていくみたいで
ホントすてきな歌だと思いました。
ニキタ・フユさんの
目玉焼きに味の素かけるひとにしか見えないさとうきび畑の風
「さとうきび畑の風」いいですね。
海が遠くに見切れる感じのロケーションで、
両側に背の高いサトウキビがわしわし風に揺れていて、
その中を、一本のほこりっぽい舗装されてない道が通ってる
みたいな情景が、
「ざわわざわわざわわー♪」な感じで浮かんできます。
凄い!面白い!って思ったのは、
それを、
「目玉焼きに味の素」から引き出しているところ。
そういえば、「サトウキビから味の素」ですね。

その他、いいなと思った歌。
萩野聡さんの
窓辺からベッドに光が差し込んであなたと僕は異なるうつわ
うたの日に書いたコメントそのままの、
美しい情景がいいなって思います。
形としての違いから、中に入っているものの違いを感じさせるところも
すてきだなって思います。
ちなみに、
「あなた」に対して「僕」(「わたし」ではなくて)
という事について、違和感は感じませんでした。
「僕」という言葉は、「わたし」という言葉よりも、
「私」性が薄くてイノセントな感じがするんで、
この歌に合ってるんじゃないかなぁって思いました。
「君」でなくて「あなた」というのも、すこし距離感があって、
やっぱりこの歌に合ってる気がします。
「人」でなくて「うつわ」と見た心理的な距離感が、
「僕」「あなた」にあるかなぁって思います。
塾カレーさんの
身体の異常は「風邪」と見立てられ「よくあること」に変わってしまう
自分の、普段に対しての「異常」が、
「風邪」のくくりに入れられちゃって、
「風邪」の中ではその症状は「異常」じゃなくて「よくあること」
これって、言われたことで、なんだ、そうかーって
納得して、気持が軽くなったりしますが、
その反面、自分としては重大な「異常」なんだけどなぁって
なんとなく微妙な気持がしたりするのかもしれないなぁって思いました。
鍵カッコの部分が、それは自分の意見ではないんだってとこが
強く出てて、やっぱりもやもやしたんだろうなぁって気がします。
雀來豆さんの
縁などと言わないでくれ結ばれず終わる恋にも解析は要る
「縁がなかった」なんて一言で片付けられたくない、
そうだよねぇと思いつつ、
これは男性的な視点の歌っぽいなぁと思ったりしました。
何でと言われると困るけども。
雨さんの
あとどれだけ君と縁があるだろうずっとパスタを巻き続けている
「パスタ巻いてる?」って誰のギャグだったっけ……
と、まずそれが出てきて困りましたが、
少なくともこの主体は巻いてます。巻き続けてるようです。
上の句の感じから、
これはデートではなくて、何かの折に偶々同席した食事風景なのかなと思います。
あとどれだけ会う機会があって、それまでの間に、
二人の距離を縮めることが出来るんだろうか
とか考えてるんでしょうか。
そろそろ口に運ばないと、不自然さがばれるような気もします。
永昌さんの
お金にも腕っぷしにも縁のないおとこの七難かくす白肌
面白かったです。
こういうずれた感じ大好き。
七難隠せるんでしょうか、男の白肌は。
小宮子々さんの
ふと濡れた布の風味がよみがえり二度目の生かもしれぬと思う
うたの日につけたコメントが、
だいたいこの歌でわたしが受け取った感じなんですが、
実はこの歌で、わたしも、わたしの記憶の中の
「濡れた布の風味」がよみがえりました。
お風呂の中で、タオルでつくったくらげの味ですが。
幼児体験的な、肉体的な感覚とか、
水と生死との密接な関係とかも
じわっと想起させるところも怖すてきですね。
羽島かよ子さんの
ママの味かどうかはもうわからない骨の色したミルキーを噛む
この歌、もしかしたら作者は羽島さんかなぁと思ってました。
ミルキーお好きだったような……って思ったので。
そうすると、
上の句の「ママの味かどうかはもうわからない」が
より深い思いが聞かれる歌だなぁって思ってました。
「もう」に、
もう、確かめるすべがない、
という気持が籠められてるみたい。
「ママの味」はこんなに甘かったかな。

うたの日(自由・どこ)


うたの日

9月11日歌題「自由」

ここからここまでの自由が君にある なお上限は3メートルまで(しま・しましま)

この日のお題は「正義」「林檎」「自由」
この歌、実は最初は
秋の花の歌だったんですよ!
ここからここまでの自由が君にはあるといわれて揺れる背高泡立草
見たいな感じの。
川べりにぐわっと咲いてる背高泡立草が大好きで、
チャレンジしてみたんですが、さすがに字数が多すぎる……
かな?
と思って、オミナエシにしたらどうかな
背高泡立草をオミナエシたちにしてみようとしたんです。
オミナエシだったら川べりというよりも、山野の雰囲気だなぁって思ったけど、
幸い川べりって詠ってないし、いいかな
って思ったんだけど、
オミナエシって漢字で書くと女郎花だなぁ
意図しない意味が生まれそうだなぁ
って思って、
じゃあ、具体的なものを全部削って、
自由に出来る場所だけ定義してみよう
って変化した歌でした。
「君」が「背高泡立草」でも「オミナエシ」でもなくて
人間ぽくなっちゃったけど、
まあ、大騒ぎしても上限3メートルもあれば、
そこそこ大丈夫だろうから、人間でもいいか、
っていう非常にふんわりしたつくりでした。

この日いいなと思ったのは
萩野聡さんの
引き波に持ち去られていくブイがありあなたがいない自由をおもう
ふつうの場合のブイって引き波にひかれても、
ほんの少ししか動けないものだと思うんだけど、
この歌のブイは持ち去られてしまう。
どこにも繋がらない、ロープが切れてしまったとか
捨てられているブイなんでしょうね。
「自由」の象徴というよりは、寄る辺ないものの象徴のような気がしました。
下の句も「自由」といっているけど、
たしかに自分に結びつく誰かがいなくなるのは、
その分行動の自由が生まれるけれども、
それは幸せなんだろうか……
という「自由」に惹かれる気持はあるけれど、
その心もとなさに怖気づく気持もある、
みたいな歌かなって思いました。

ナタカさんの
好きなのを選びなさいと言いながら母の定めし正解がある
そうそう、好きなのっていっても、
ここからここまでの間で!
みたいなのありますね。
共感する歌でした。
門脇篤史さんの
どこにでも行ける切符を手に入れて職場と家を行き来してゐる
これは切ない。
でも、大人になるとそういう選択肢しかなかったりしますね。
気球さんの
最後までなにも描かぬ自由画の枠を見てきた授業参観
自由画を描くところを参観するような授業参観も
あるところにはあるんでしょうね。
お母さん(あるいはお父さん?)は、
自分の子が、結局それをかけないまま終ったのを
最初から最後までうしろで見てるだけだった。
でも、その描けなかった姿を一部始終見る事ができた、
うーん、うーんって悩んでる姿だったのかも知れないし、
ふらふら遊んでばっかりで紙にじっくり迎えなかったのかも知れないけど、
とにかく「最後までなにも描かぬ」の過程を見て帰った
というのも、親としては一つの収穫でもあるような気がします。
淋しい収穫なのかも知れないけど。


9月12日歌題「どこ」

コンビニの傘立てに傘ひしめいてどこまでもどこまでも雨の匂い(しま・しましま)

この日のお題は「どこ」「商店街」「まで」
実はこの歌、
人生初めての歌会参加中にこっそり投稿したもの。
急いで打ったんで、入力間違いがなかったかなって思ったけど、
大丈夫でした。よかったよかった。

この日いいなと思ったのは
こりけケリ子さんの
ダルマとかムササビとかに愛される変な魅力をどこで拾った
変なものに愛される「変な魅力」
そんな感じの人っているにはいますが、
「ダルマとかムササビとかに愛される」
というのは、尋常じゃなくて面白すぎるって思いました。
まだ「ムササビ」は生き物だから、いいとしても、
「ダルマ」って何だよ「ダルマ」って!
って感じなのに、それがいきなり初句から登場するので、
正直一目見たときからノックダウンでした。
問答無用の面白さで、しかも力強いんで、
抗えなかったですね。

水色水玉さんの
息継ぎのたび見えるゴールは遠くてもどこまでも止めぬつもりのばた足
この歌もすごく好きで、
ハートを二つ入れられたら、二つ目はこれ、
って感じでした。
上の句の
「息継ぎのたび見えるゴールは遠くても」
の、水面から見えるずっと遠くに見えるプールの端が
リアルに想像されていいなぁ。
泳ぎが苦手で嫌いな人って、多分泳ぐときに前は見ない気がするんですが、
この主体はちゃんと前を見て泳いでる。
そこがもう、
がんばって欲しい!って思わせられました。
で、「ばた足」っていうのがまた良かったですね。
あの、単調だけど細かく動かさないといけない動きが、
必死感とかがんばり感を増してる気がしました。
文佳さんの
どこにいても変わらないよと諭されて雨の降る日の桜の並木
卒業前の下校の道とか想像して、
うーん、やさしくてすてきな歌だなぁって思いました。
「どこにいても変わらないよ」って諭してくれたのは
卒業していく先輩、大好きな先輩なのかな。
だんだんと桜の蕾が目立ち始めた並木道を
ゆっくりと歩きながら、そうやって諭されてる
一枚の絵のような情景だなぁって思いました。
衣未さんの
いつだってきみの言葉は青いから住所はきっと空のどこかだ
言う事が青い、じゃなくて「言葉は青い」なので、
透明感のある言葉なのかなぁって思いました。
「青い」を未熟というような意味には取れなかったけど、
そうだとしても、マイナスイメージはない、美しい印象として
主体は受け取っているんだろうなって気がします。
そして、そんな言葉を使うことが出来る君の住所は「空」だろうと
思うという飛躍の仕方が可愛らしくていいなと思いました。
今回のお題が「どこ」なので仕方ないけど、
「空のどこか」ではなくて、もうちょっと具体的なところまで
主体の想像が広がっていった、って感じだと、
もっと良かったかなぁって思いましたが、
この辺は私の好みの問題かも知れません。

うたの日(Wikipedia)


うたの日

9月10日歌題「Wikipedia」

昨日からの雨つよい雨よわい雨 ジミー・ウェールズそろそろ寄付は集まったかい(しま・しましま)

この日のお題は「YouTube」「枕」「Wikipedia」
昨日、字余りがなんとか言っていたのは誰でしょう。
大幅に字余りしております。
どのぐらい字余りかというと、(一目瞭然だとは思いますが)
「ジミー・ウェールズ」まるまる字余りです。
Wikiってイメージしたときに、利用者参加型エンサイクロペディアという面よりも
700円だか800円だかの寄付を募る
ジミー・ウェールズからのメッセージが思い出されちゃって。

この日いいなと思ったのは
太田宣子さんの
悪いのは全部あなただわたしぢやないやはらかすぎる枕を殴る
上の句の「悪いのは全部あなただわたしぢやない」
「あなた」以降ずっとひらがなで、しかも旧かな遣いなので
全部一本調子に繋がってるみたいに感じられて、
心情を一気に吐露しているような勢いがあるなって思いました。
でも下の句で、それが誰かに面と向かって吐かれてないみたいなのが、
なんかツライ感じをさせるうたでした。
「やはらかすぎる枕」は、怒りの矛先としては頼りなくて、
余計にツライですね。
この「枕」を悪い「あなた」の代りにしてるのか、
それを口に出来ない「わたし」を殴っているつもりなのか、
そのあたりもなんかツライ感じ。
松木秀さんの
ウィキペディアにわれの項目ありにけり誰が作りしかわれ知らざりき
なかなか詠もうと思って詠める歌じゃないですよね。
まず、Wikiに自分の項目があるって、凄いなとただ感心します。
上の句で、まず事実を事実としてを、「ありにけり」と、
軽い驚きと共に表出しておいて、
下の句でさらに
「誰が作りしかわれ知らざりき」
と、まるで言い捨てているような感じ。
この温度感がいいなぁって思いました。

新井蜜さんの
連翹と放蕩、メイド呼んでみた用はないけど枕を換へる
この歌、
つい昨日のうたの日に
白梅と暴飲、アッ、屹度恐ろしいのだ干されることが多分(新井蜜)
という歌があって、ほぼ同じ形式なので、作者も同じかなぁと思いました。
こういう「○○と××」というジェーン・オースティン方式の
詠み出しの特殊な形式が続くと、
シリーズものっぽくて、ある種の付加価値が付きますよね。
よくも悪くも。
作者が誰かもすぐにわかってしまうし、
なかなか冒険者だなぁって思われます。
で、歌自体の話ですが、
「連翹」と「放蕩」
連翹って、春の初めごろにぱきっと鮮やかな黄色の花が咲くんで、
あんまり「放蕩」って感じがわたしはしなくて、
うーん、という感じだったんですが、
「連翹」と「メイド」は、なんとなく合うような気がして、
アリなのかなぁ……と思いました。
ただ、「放蕩」と「メイド」を呼びつけてどうでもいいことをさせるという行為は
あんまり面白さを感じなくて、
「連翹」「メイド」のうすーい「なんとなく合う」感と、
ジェーン・オースティン方式シリーズの期待感で音符をつけさせて頂きました。
くろじたうさんの
憧れの人と一緒に書き込んで豊かになったツチノコのページ
「ツチノコのページ」がいいですね。
「ツチノコ」、反則的な面白さがあります。
この歌の「憧れの人」というのは、
恋愛的な意味合いではなくて、師匠とか先輩みたいな人なんでしょうか。
いいなぁ。
ツチノコ師匠と二人でああだこうだといいながらWikiの編纂。
楽しそうです。
改めてWikiの「ツチノコ」のページを見たんですが、
根拠とか出典とかもかなりキッチリしてて、
しかも情報が豊富で、なかなかやるなぁって感じでした。
じっさいにこの歌の作者がこのページに関わったのか、
そうじゃないのかは分かりませんが、
ホントに、きっちりと作りこまれたページで、
この歌のように編纂されたって感じ。
「ツチノコ」の面白感がいいなと思って票を入れたんですが、
あらためて「ツチノコ」だからこそ成立した歌かもと思いました。

うたの日(違)


うたの日

9月9日歌題「違」

たまに会えばただうなづいてくれる友のそれぞれ違うパスタを選ぶ(しま・しましま)

この日のお題は「違」「あっ」「痛」
わたしは割と(俳句でも)「字余り」に関してゆるいんですが、
この日投稿したこの歌については、
この字余り感をなんとかしたいと思いながら、それを解消できないまま投稿しちゃった感じ。
初句の「たまに会えば」は、わたし的には完全にセーフだろう、
気持早口で読んでもらえばOK(なのか?)って感じですが、
「ただうなづいてくれる友の」の一字余りはどうにかならなかったのか
って思います。

「友の」の「の」は一度外してみたけど、
必要だなぁって思って、
そこで思考停止しちゃったんですよね。
うーん、むずかしい。
この日は
「あっ」の方は選とコメントを入れて、
「違」は選だけをして
「痛」はノータッチだったという
だんだんパワーがなくなっていったのが如実に分かる日でした。


この日いいなと思ったのは
西村湯呑さんの
まちがえて碧いうなぎを買ってきたひととうなぎと暮らしています
「碧いうさぎ」ならぬ「碧いうなぎ」
というのがまず面白いんだけど、
この歌で一番すきなのは、
「~ひととうなぎと暮らしています」
の部分。
そのまま暮らしてるんだ!
って、軽い感動を覚えました。
「うさぎはさびしいと死んでしまう」
という間違った、でもめっちゃ切実感にあふれた名台詞を残したドラマ
「星の金貨」の主題歌「碧いうさぎ」。
歌の中にも
「淋しすぎて死んでしまうわ」
ってありますね。
淋しがりのふたりと一匹のくらしが想像されたりしました。
楽水童子さんの
「あッ、はい。」つて言ふときの「あッ、」をしきつめて資材倉庫で眠る10月
結句の「10月」がいいなぁって思いました。
今9月だから、近い未来でもあるけど幻としての「10月」と捉えて、
もう、この作業場所である「資材倉庫」で、不貞寝したい気持なんだけど、
もちろんそんなことは出来ないので、そんな10月を思うだけ。
って感じかなと思いました。
レイ・ブラッドベリの短編集に「10月はたそがれの国」ってありますけど、
10月って肌感覚的にも、心象的にも、
「たそがれ」が似合う幻想的なイメージのある月で、
余計に、そんな感じに受け取っちゃったのかも知れません。
(まあ、キリスト教圏の人々にとっては
ハロウィーンの月としての幻想イメージもあるかと思いますが)
「あッ、はい。」って、
繰り返せば繰り返すほど、自分がぺしゃんこになっていきそうな
そんな返事じゃないかなぁって思って、
それを資材倉庫にしきつめられるほど口にしている職場って
つらいなあってしみじみ思いました。

その他いいなと思った歌。
小宮子々さん
とりあえず間違ったまま踏み出した道だ しろつめくさを探そう
まだ、一歩目を地面に降ろすより前に、
「あっ、これは間違った方向だ」
って分かるけど、そのまま足を下ろすしかない
そういう事ってありますよね。
間違ってるんだろうなっていうよりも
明らかに間違っちゃったなぁと思いながら、
最初の一歩を踏み出したんだから、次の一歩もあるいてみよう、
みたいな。
しばらくはこのまま歩いてって、なんかイイことを
積極的にさがしてみたら、
この間違っちゃった道も間違いじゃなくなるかも
という歌かなぁって思いました。
雪間さとこさんの
かぎ針に慣れるころには自販機に「あったか~い」が揃うのだろう
この歌、うたの日にコメントを書いたんですが、
他の方やご本人のコメントを読んでいて、
あー、完全に読み間違ってたなぁって思いました。
かぎ針編みに着手したのは、主体なんですね。
わたしは、かぎ針編みのイメージが、
小学生の女の子とかが一番最初に作る
もっこもこで編み目ぎゅうぎゅうのマフラーとか
そういう感じだったので、
この歌も、そういうマフラーを編み出した小学生女児を思ってました。
完成する頃ではなくて、
「慣れるころ」というのも、初めての編み物っぽくて、
道具に慣れるだけでも少し時間がかかる、
そういう女の子を近くで微笑ましく見ている大人というのが
主体なのかなって思って、
そのあたたかい眼差しがいいなぁって思ってました。
かぎ針編みを始めたのが主体ということは、
毎年このぐらいの時期になると、ニット小物が作りたくなる
みたいな感じなのかな。
雨さんの
テクマクマヤコンの鏡は壊れどれかにしかなれないアッコちゃん
この歌も、
他の方のコメントを読んで、
ああ、そうか、読み間違ったなぁ
って思った歌でした。
こちらは、うーん、確かに、
言われてみればそうだわ
っていう感じで、
かなり読みが浅かったといえるかなぁ。
魔法のコンパクトが壊れて、
誰にも変身できなくなって、
自分自身の成長をするしかなくなった
ってことか。
そういわれればそうだよなぁ、うん。

うたの日(そう)


うたの日

9月8日歌題「そう」

ああという口から遅れてああと声そういうことってわかってたのに(しま・しましま)

この日のお題は「そこ」「もっと」「そう」
なんかいろいろハズした感がありましたね。
上の句の感じをもうちょっと別のところで使えばよかったーって思ったりして。

この日いいなと思ったのは
沼尻つた子さんの
「そうだねえ」丸いひとみでうなずいて会津土産の小さき赤べこ
そうだねぇ、時々、もうまるっと自分の言葉を全肯定してほしい時って
あるよねぇって思った歌でした。
昨夜この歌を選んで、評を書いたときは、
そういう気分の日があって、
赤べこの頭を自分でゆらしながら、赤べこに話しかけて、
赤べこのかわりに「そうだねえ」って言ってる姿を想像しただけですが、
この赤べこ、特定の誰かのおみやげなのかもなぁって
今ほんわりと思ってます。
そう思うと、またもう少し味わいが深まるなぁ。
「そうだねえ」という言葉のやわらかさ、まるみもいいなって思います。
「丸いひとみ」「小さき赤べこ」
って表記が違うのがなんとなく気になるなぁって思ってたんだけど、
何か理由があるんでしょうね。
借みねさんの
すれちがう小学生の声を聞く あそこはいまもコアラ公園
この歌について、

本当の公園の名前はもっと固いか面白みのない地名をつけたものなのかな。
コアラの遊具か、看板にコアラの絵が描いてあるかで、
子ども達が勝手につけた名前が「コアラ公園」なのかなって思いました。
もしかしたら主体が子供の頃に出来た愛称なのかも。
それが、今の小学生たちにもずっと同じ愛称で呼ばれていることを知って、
なんだか安心するような、そんな感じかなと思います。
一字空けの「あそこは」で、「コアラ公園」というフレーズを聞いて主体がそこを、
子供の頃遊んだ思い出込みで頭の中に思い浮かべているような気がしました。

と、かなり長いコメントを
うたの日の方に入れちゃったんで、
それに補足するものもあまりないぐらい。
しかし、
「コアラ公園」ってネーミングがまたいいね。
全国各地に「パンダ公園」って呼ばれる公園は無数にありそうなんだけど、
「コアラ」って、ありそうでなさそうでいいなぁ。
70年代前半の初来日からのパンダブーム以降、
なんどもなんどもブームが寄せては返すパンダに対して、
80年代後半ぐらいにやっぱり初来日がきっかけで
コアラブームが起こって、
コアラのマーチの安定した人気もある割に、
それ以降ブームと呼べるほどの突出した人気がないコアラ。
どっちも同じぐらい子供受けしそうな可愛らしさがあるんだけども。
ということで、
この歌の「コアラ公園」って、
少なくとも80年代後半にコアラ要素が導入されたんだろうか
とか、なんかそんなことをだらだらと考えたりしてます。

桔梗さんの
玄関のたぬきを三度撫でてやるいつもあなたがさうしたやうに
「玄関のたぬき」を撫でる、それだけの行為の中に、
やさしげな女性の手、やさしげな男性の手、
それから、そのどちらかの手の不在のさびしさがあって、
なんかいいなぁって思いました。
小宮子々さんの
そうやって君は泣くのだ百円の傘とわたしを置き去りにして
「置き去り」っていうのは心理的なものなんだろうなぁって思いました。
目の前で、
思わず「そうやって君は泣くのだ」
と、主体に思わせてしまうぐらいの残念な感じで泣いている人。
傘を相手に押し付けて、泣きながら走って行ってしまうというのも
面白いかなぁってちらっと思ったけど、
それじゃあんまりだし。
「百円の傘」が面白いなって思いました。
「君」と「わたし」の間にある、安っぽいビニール傘。
出来ればそれは泣いている「君」の持ち物であってほしいですね。
千花さんの
ガス室の跡を静かにガイドされそこから生きて出てゆく私
「ガス室」って、他にももちろんあるけど、
多分「ガイドされ」て訪れるということは
ポーランドにあるナチスによる強制収容所にあった
「ガス室」のことなんだろうなって思います。
「ガス室」「出てゆく私」
というフレーズに強い印象を受けました。
実際にそこへ行かれたことがあるとしたら、
そこを出るときに「生きて出てゆく私」っていう
感慨を受けるんだろうか、
行ったことがないので、わからないけれど、
そういうこともあるんだろうなって思います。
でも、なんとなく特選には出来なかったんですよね。
今ひとつ、アウシュヴィッツに実際に足を運んで受けた衝撃
的なものが感じられなかったからかな。
行った事がないから、ここを「こうだ」って
ハッキリいえないんだけども。
なんだろうなぁ。
この「ガス室」が、保健所の犬猫用のものだったら、
「そこから生きて出てゆく私」がリアルに響くかも。(わたしにとって、ね)

うたの日(腹)


うたの日

9月7日歌題「腹」

ひっそりとこの世の端で生きているつもりのお腹を鳴らしてしまう(しま・しましま)

この日のお題は「首」「わき」「腹」
子供時代ならまだしも、大人になってからお腹が鳴ると
非常に間抜けな感じです。

この日いいなと思ったのは
文屋亮さんの
腹蔵なく話してくれと福祉課の銀縁眼鏡が膝をつめたり
「福祉課」の人が「腹蔵なく話してくれ」と言うという事は、
何かなかなかヘビーな情況が背後にあるように思われます。
老人介護の問題なのかも知れないし、子供関係かも知れないし、
もっと別の問題なのかも。
とにかく、まずはあなたのホントの思いを聞かせてくださいと言ってるわけですね。
「膝をつめたり」という結句の「たり」に、
今、まさに今膝をぐぐっと詰められて迫られているような臨場感があって、
おおぅ……と読んでるこちらもたじろぐような迫力のある歌でした。
福祉課の人がそうやって熱心に聞いてくれるのに、
ついたじろいでしまうのは、
この歌で、その福祉課の人を
「銀縁眼鏡」と呼んでいる、
この聞かれている人と聞いている人との心理的距離感からかも知れません。
橘さやかさんの
笑えない皮肉はやだわわきの下くすぐったいわわたしは火の輪
久し振りにひるの日の方も覗いてみました。
すごく面白い形式で目をひかれた歌でした。
「笑えない皮肉はやだわ」
「わきの下くすぐったいわ」
「わたしは火の輪」
と、三つの「わ」で始まって「わ」で終るフレーズが繋がってて、
この歌自体が輪っかみたいになってます。
「笑えない皮肉はやだわ」と「わたしは火の輪」という
切実感のあるフレーズを
「わきの下くすぐったいわ」という、
ちょっと軽めのユーモアでつないであるところがいいなぁ。
最後の「わたしは火の輪」の「火の輪」というのが、
どういう意味なのか、
はっきりこういうことだなっては分かりませんでしたが、
「輪」っていうと、人の輪とか和とか、丸く収まる円満感がありそうなのに、
それが火で出来ているところとか、
怒りとか攻撃性が、何らかの理由で秘められているようにも感じられました。
実際のところはどうなんでしょうね。

きいさんの
空腹で通るデパ地下くるくると木の葉のように軽く廻りぬ
おいしいものがいっぱいのデパ地下に空腹でやってきて、
「くるくると木の葉のように軽く廻」っているって、
可愛くて楽しい歌だなって思いました。
あっちにふらふら、こっちへふらふらしているのかな。
それを形容するのに「木の葉」っていう意外性が面白かったです。
ナタカさんの
腹筋をするたびに知る右足の親指の爪が少し小さい
面白い、ささやかな発見の歌だなって思いました。
本格的に腹筋を鍛えるためのハードな筋トレじゃなくて、
寝る前に毎日少しずつ、みたいなやつなのかな。
腹筋っていうと、膝を曲げてやるイメージが強くて、
膝とか腿とかに目が行くのかなって思うんだけど、
この歌では「右足の親指」だから、
わたしが想像する腹筋とは少し違うのかなと思いつつ、
左足に比べて右足の親指の爪が小さいなって
毎回思ってしまうって面白い発見の仕方だなぁと思いました。
沼尻つた子さんの
吾(あ)にふたつ静かの海のあるような永久脱毛ほどこせし腋
永久脱毛をした脇を、
「静かの海」がふたつあるようという表現が意外で面白いなって思いました。
「静かの海」って、多分月にある平原の「静かの海」のことだと思いますが、
そうか、そうくるのかーって感じでした。
太田宣子さんの
水銀の体温計の仄白い冷たさを熱の腋に待ちにき
子供の頃、あのガラスの体温計のひやっとした感じが大嫌いで、
この歌を見た瞬間、あの感じを思い出しちゃいました。
最近は見かけないですね。もうほぼ電子体温計になったんでしょうか。
そういえば、
「~にき」
という表現って、あんまり俳句では使われないので、
短歌で目にするたびに、なんとなくおおっと思ってしまいます。
多香子さんの
高速道脇の小部屋に二人いて車の音と揺れてくらした
こちらの歌は口語ではありますが、
太田さんの歌と同じ過去の回想の歌かなって思いました。
寝に帰るだけの部屋、
若い頃だから、そんな部屋でもそれなりに楽しく暮らせた
みたいな、
ほのかに苦甘い青春を振り返った感じかなぁって思います。

うたの日(階)


うたの日

9月6日歌題「階」

あのドアの向うが非常階段とまず知らされる合宿初日(しま・しましま)

この日のお題は「階」「改札」「沿」
非常階段に続くドアって、そう聞かされたら不思議と意識しちゃいます。

この日好きだった歌。
きつねさんの
ばあちゃんが機嫌を悪くしてからはウーパールーパー二階で暮らす
ウーパールーパー、正式な和名はメキシコサラマンダーってやつですね。
全体的にぷるっとした可愛い生き物なんだけど、
何かの理由でばあちゃんの機嫌を悪くしちゃったんでしょうね。
それ以来二階から降りることができない。
もしかしたら、ウーパールーパーの所為で
ばあちゃんの機嫌が悪くなったわけではないけれど、
直接のウーパールーパーの飼い主がばあちゃんを怒らせて、
リビングにこんなもん置くなーっ!
ってとばっちりだったのかも。
どちらにしても、
ウーパールーパーに自己弁護の能力ないですからねぇ。
これからも二階なのかなと思うと切ないような気もします。
「ばあちゃん」と「ウーパールーパー」だけを登場させて、
ここんちの力関係とかいろんなことうっすら見せながら、
ペットの立場の所在無さとか切なく漂わせてて、
且つユーモアが漂ってるって
すごいなって思います。
「ウーパールーパー」
っていう生き物の持つイメージ力と
「ばあちゃん」という存在感なんでしょうね。

萩野聡さんの
三階の窓に明かりがついていてここにいる僕はなにかと思う
いろんな読みが出来て、
それでいて、
「ここにいる僕はなにか」
という軸は揺らがないところが凄いなと思う歌でした。
「ここにいる僕はなにか」
って、多分古今東西の哲学の命題ですよね。
このふかーい疑問の呼び水になる現象が
「三階の窓に明かりがついて」いることの発見。
わたしは、最初
「三階の窓」があるのが、自分の部屋だと思って、
自室に明かり→人がいる→自室にいるんだから自分かも
→とすると、それを外から見ている自分は誰だろう
って感じかなって思いました。
でも、この「三階の窓」が自分の部屋じゃなくても、
なんとなく
「ここにいる僕はなにか」
という疑問が湧いて不思議じゃないかもって気がしたり。
うたの日の他の方の評の
幽体離脱説も、
なるほど、そういう見方も出来るなぁって思って、
面白いなあって感心しきりでした。

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