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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(近くの公園でいちばん大きな樹)


うたの日

18日、19日の分をすっとばしての20日のから。
だだっと全部書いちゃおうと思ったんですが、
近々から書き始めたら、
いきなり20日の分が長くなっちゃって、
とりあえずこれからアップしてしまおう
という。
19日にアップした17日のうたの日の記事ですが、ツイッターで、一人ご意見をくださった方がいて、ホントうれしかったです。
とても参考になりました。ありがとうございました。
引き続き、何かあったら是非当ブログなりツイッターなりでコメントいただけるとうれしいです。

12月20日歌題「近くの公園でいちばん大きな樹」

どこからかその大木の根元には小さなプロペラつぎつぎに着く(しま・しましま)

この日のお題は「近くの公園でいちばん大きな樹」「など」
今思うと、あれはカエデの大木だったんですが、
子供の頃は全然そうと気がつかなかったです。
大木すぎて、紅葉しても、
めっちゃ高いところでのことなので、
見上げないと分からなかった
のかも知れません。
低いところに、幹の太さと不似合いな
若い枝がにょりんと伸びてて、
そこの葉っぱが紅葉してたのは
今思い出しましたが、
そういえば、
この木紅葉が生えてる!
みたいな感覚でいましたね。

この日いいなと思った歌。
荻森美帆さんの
公園の主として立つ巨木には誰の子どもものぼらずにいる
「誰の」がめっちゃいいなと思いました。
公園の主のような顔をしてある巨木。
巨木なんだから、主体がこの公園で遊んでいたころも、
やっぱり巨木だったんでしょうね。
大人になって、この公園にまた来るようになったけど、
こどもたちはこの巨木に登ったりしない。
という歌意でしょうか。
単純に
大きすぎて登り難いから誰もチャレンジしない
ということかも知れないし、
何か古いもの大きいものへの敬虔な気持から
かも知れないし、
今の子は自然物に興味なんて持たない
というような理由かも知れません。
とにかく、
この「子ども」が単なる子どもじゃなくて
「誰の子どもも」というのがいいですよね。
かつてこの公園で主体と一緒に遊んだ仲間たち、
その仲間たちの子どもがいて、
その「誰の子どもものぼらずにいる」
主体の世代は、その巨木にのぼったんでしょうか、
今の子どもたちと一緒でのぼらなかったんでしょうか。
現在の巨木のある公園の風景から、
すーっと一つの語で過去へさかのぼる感じがすてきでした。
何の木か明記されないところも
「巨木」って感じがします。

雀來豆さんの
そのむかし西行法師を見たという砂場の横の山桜の木
おおー!って思って、
その後、またじわじわじわじわと面白さの広がってくる、
そんな歌でした。
西行法師といえば
願はくば花の下にて春死なむこの如月の望月のころ
角川書店の創立者でもある角川源義の俳句に
花あれば西行の日とおもふべし
というのもあります。
で、公園に「山桜」です。
これはなかなか樹木チョイスのシブい公園ですね。
しかも「砂場の横」という
ミスマッチ気味な。
「そのむかし」「西行法師を見たという」「山桜の木」
という雅な中に、
ぽこんと置かれたような「砂場」の俗っぽさの
バランス感が面白いなぁ。
いや、一つぽこんと置かれてある異物は、
実景では公園の中の「山桜」なのかも知れませんが。
で、
「西行法師を見たという」
というのは、
どうなんでしょうね。本当なんでしょうか。
もう勝手に妄想しちゃいますが、
多分この山桜は、どこかの山にあったものの接木で出来た
そういう山桜なんじゃないでしょうか。
で、そのどこかの山を、
誰か(出来れば大人の人だといいな)が、
吉野山からだと言ったんじゃないかな。
もちろん山桜の樹齢から言って、
どう考えても西行法師をみた木にはならないだろうけど
接木の山桜

吉野山からの接木

吉野山で桜といえば西行法師

西行法師の歩いたあたりにもともと生えていたかも

見たかも知れないな

見たんじゃないかな

見たという
と、なったんじゃないかなぁって思うと
楽しいなと思います。
「西行法師」「が」見たんじゃなくて
「西行法師「を」見たというのも
いいなと思いました。
中牧正太さんの
栄(さか)えあれどんぐりを生(な)すシラカシのこども銀行造幣局に
初句の「栄えあれ」がいいですよね。
言祝ぎから始まる感。
「こども銀行」と「造幣局」という、
くっついてもおかしくないけど、
今までこれらがくっついたところを
見た事がないところをもってこられて、
おおーってなりました。
「シラカシ」という具体的な樹木名も
大人視点で詠まれている感じがあっていいなって思いました。
天野うずめさんの
ブランコの隣にポプラの木があって毎晩誰かに蹴られたりする
辛い歌です。
でも、どことなくあったかい感じがするのは、
「ポプラ」の包容力のなせるわざでしょうか。
夜、誰もいなくなったブランコに腰掛ける人は
なにかしら
辛い気持を引きずっている人じゃないかなって思います。
しばらくブランコに腰を下ろしてうなだれてて、
なんとか気合を入れて立ち上がって、
ついでに隣のポプラに蹴りを入れて、
それでやっと家に帰れる。
そんな大人を想像しました。
きっとポプラとしては
昼間幼い子どもたちに蹴られるのは
全然平気なんだと思うんですよ。
でも、夜の蹴りの重さは、
やっぱりポプラでもちょっと辛すぎるんじゃないかな
と、主体が感じているような気がします。
でもだまってポプラはそれを受け止めてくれるんですね。

うたの日(夏にやり残したこと)


うたの日

12月17日歌題「夏にやり残したこと」

もう一度花火に誘いたかったなちっちゃなバケツで月がゆがんだ(しま・しましま)

この日のお題は「編」「夏にやり残したこと」
花火用にバケツも買ったから、もっと使っておけばよかったな、と。

この日いいなと思った歌。
小宮子々さんの
また海で泳ぎそこねてだんだんと遠くなりゆく魚の記憶
「魚の記憶」
もともと人間は海の生き物で、
陸に上がって肺呼吸を覚えて、哺乳類になった、
みたいな「魚の記憶」でしょうか。
それとも、
主体固有の記憶かな。
前世がそうだった、みたいな。
どちらにしても薄れていく記憶の悲しみにロマンがありますね。
上の句で「海」の空間的な広がりを想像させて、
そこから下の句の「魚の記憶」で
時間的なものや種族の違い的なもののイメージの広がりがあって
ステキだなぁって思いました。

沼尻つた子さんの
ふれられることのなかった腿うらの虫刺されのあとがまだ赤い
沼尻さんのお歌に限らないんですが、
歌の中の現在をいつとして読むかで、
鑑賞が変わってくるなって歌がありましたね。
このお歌は、多分、
夏が終ってすぐあたりを想定して読むべきかな
と思いました。
「虫刺されのあとがまだ赤い」ですし。
これを現在(12月)として読むと、
一体どんな虫に刺されたんだ!ってなりますね。
まあ、
数年前に実際にキイロスズメバチに刺された経験からいうと、
スズメバチの虫刺され跡は、かなり長い間残ります。
って、まあそれはどうでもいいことですが。
しかしなまめかしい歌です。
「腿うらの虫刺されあと」の赤さを言って、
白い女性の足がどーんとクローズアップされてしまいます。
「虫刺されあと」のうかつさが
なんとも言えずエロいなぁって思います。
「ふれられること」がなかったのが残念です。
三畑幾良さんの
一度だけただひとつだけの空白がラジオ体操皆勤を消す
そういうのって、妙に心に残ったりしますよね。
小学生の頃の回想でしょうか。
夏の終りに、ラジオ体操カードに、
ぽつんと一つだけシール(あるいはスタンプ)がなくて
皆勤賞のシールを貼ってもらえなかった。
その時の残念な気持が、
「夏にやり残したこと」というお題で
あざやかによみがえってきたのかな。
日本橋ミヲ子さんの
8月31日、未開封のブリーチ剤を姉にあげた。
このお歌、すごーく好きでした。
夏休みの開放感を、
存分に発揮することが出来なかった悔しさとか悲しさとか
そういうものがひしひしと感じられました。
単なるヘアカラーじゃなくて
「ブリーチ剤」がいいですね。
この夏は思い切って金髪に近い髪色にしよう
っていう意気込みが感じられます。
でも、使えなかった。
これを「姉にあげた」というところもツボでした。
日記のように書かれた形も、
残念感がリアルに響いてきて、
ホント好き。
でも、
うーん。
ここまで定型を崩してあるのは、
どうなんだろうなって思いました。
短歌って、
あまり規制がない分、
短歌を短歌たらしめてるのは
「定型」(あるいは定型感)
なんじゃないかなぁと
まだ初心者ではありますが、
そんな風に思います。
短歌も俳句も一行詩の一種かも知れないけど、
いわゆる一行詩と短歌との違いってなんだろうな、
というようなことを考えてしまって、
うーん、と唸らせられたお歌でした。

佐藤博之さんの
屋形舟、風に堤燈吹かせしめふつか醉ごとまどろむ眞晝
@aokikenichiさんの
ラムネ瓶 キ ラ キ ラ キ ラ とかち割ってビー玉を獲る縁日の儀
この二つのうた、
どちらもステキだなって思ったんだけど、
音符を入れるか迷って、結局入れなかったものでした。
佐藤さんの歌の、
真昼のゆったりとした屋形船での景。
これはもう天国状態ですよね。
わーステキステキって思いました。
特に「風に提灯吹かせしめ」の万能感がステキ。
@aokikenichiさんのの
「 キ ラ キ ラ キ ラ 」の
ラムネ瓶の破片の輝きの表現もステキでした。
幼い頃、縁日といえば主体にとって定番の「儀」で、
そのキラキラが今も心に残ってるんだなぁって感じで。
ただ、
ただですね、
この二つのお歌は、
お題の「夏にやり残したこと」というのを
前書き代わりに使ってあって、
この題がない場合、
やり残したこと、やりたかったことではなくて、
夏のステキな思い出
になるところが、
うーん、
どうなんだろうな、と悩んだわけです。
どうなんでしょうね。
そういう題の使い方も有りなのかどうなのか。
そういうのも「有り」ですよ
と、言われたとしたら、
どちらも絶対最低でも音符を入れます。

うたの日(白)


うたの日

12月16日歌題「白」

真っ白な最後のページあのひとはそれから彼を待つんだろうか(しま・しましま)

この日のお題は「紅」「白」
まあ、わたしは大体待たないだろうなぁって思っちゃう方なんですけどね。

この日いいなと思った歌。
沼尻つた子さんの
飛び散った漂白剤のひとしずく閃光として胸もとにある
一目見て、いいなって思いました。
漂白剤を使っていて、それが自分の胸元に飛んでしまった。
その瞬間の「あっ!」という気持が、
そのまま雫の形で漂白されてしまったエプロンに残っていて、
それを見る度に、その時の「あっ!」という気持が
よみがえるような、
そんな白いポツなんだろうなって思います。
「閃光として」が鮮やかでいいなと思うのと、
「ある」の一語が
きちんと「ある」として使われているところがいいなと思いました。

借みねさんの
飼い猫を探しておれば夕暮れにまだ白いままの雑巾がある
なんとも言えない気持にさせられる歌でした。
飼い猫が、何かの拍子に家から逃げてしまって、
それを探し歩いてる主体。
夕暮れに掛かってきて、
このまま夜になると、猫探しも難しくなるから
早く見つけてやらないと
って焦っているんでしょうね。
そこでふと目に付く「白いままの雑巾」
夕焼けに照らされて、余計に目立って見えたかも知れません。
もしかしたら、
一瞬、自分の探す猫かと見間違ってしまったのかも知れません。
雑巾が干されているというのは
あまり美しい景にはならないですが、
「夕暮れにまだ白いままの雑巾」
はなんとなく侘しい美しさがあるように思えました。
柊さんの
朝早く道に落ちてる悪意など白い息吐き拾うおじさん
「悪意」の一語にどきっとさせられました。
早朝、ゴミ拾いをしているおじさんっていますよね。
他の方のコメントにもあるように
空き缶や吸い殻、お菓子のゴミ、
そういうものを拾ってるんだと思うんですが、
それらを、主体は
「悪意」と見た。
主体もその瞬間どきっとしたんじゃないかと思います。
それにしても、
そういう状況を目にしつつ、
おじさんの「白い息」に目が留まるところが
いいなって思います。
「悪意」を掘り下げるのではなくて、
「おじさん」に焦点を当ててるところがすきです。
小向大也さんの
きみの吐く息の白さで鼻歌がどこで歌に変わったか分かる
ほのぼのやさしい眼差しの歌だなぁって思います。
奥さんが少しはなれたところで作業してる、
洗濯物を干してるところなんかを想像しました。
いつも鼻歌が出てくるような明るい人なんでしょうね。
あー、多分今も鼻歌歌ってるなって
眺めてたら、
あるところから、
息の白さ、その量が増えてて、
あ、鼻歌から本格的に歌に切り替えてきたなぁって
見てる、
そんな情景を想像して、
微笑ましいなって思いました。
二人の(いろんな意味での)距離感が感じられて
すてきな歌だと思います。
桜望子さんの
諦めがただ降り積もるだけに見え逃げ出した遠い故郷の冬
やるせない感じに惹かれました。
地方、というかぶっちゃけ田舎って独特の閉塞感がありますよね。
背伸びして自分の住む地域以外を見てしまえるぐらいの
年齢になると、その閉塞感が辛い気持、わかります。
周囲を見回して、別段不満がなさそうに思える人を
「諦めてる」と決め付けたり。
単なる田舎でもそうなんだから、
冬、雪が降り積もって、
物理的な行動範囲が狭まってくれば、
余計にそう感じるんだと思います。
「遠い故郷の冬」の体言止めに、
今でも、その気持は変ってないけど、
「逃げ出した」ことへの何かしらの気持が
感じられました。
太田青磁さんの
窓の白に君の名前を指で書きカーテンで消す冬の教室
結露した窓に指で何かをかく、
誰かの名前を書く
みたいな情景は、
短歌のみならず、けっこう登場してくる
冬の定番的なところがありますね。
この歌でいいなと思ったのは
「カーテンで消す」という部分でした。
家の窓だと、レースのカーテンが間にあるからか
あまりそういうことをしない気がしますが、
「教室」のカーテンなら、
あわてて消すのに一番近いカーテンを使いそう。
まあ、実は後でうっすらその跡が残ってたりするんですけども。
葵の助さんの
白旗のように着るシャツ喧嘩した翌朝ピシリ糊付けされて
うたの日に
そういう白旗のあげ方もあるんだなぁ。普段以上にかたく糊付けされてるんでしょうか。すてきな夫婦喧嘩の締め方ですね。カタカナの「ピシリ」がいい味出してると思います。
とコメントしましたが、
実は作者は女性。
もちろん、歌会では匿名なので、
作者が男性か女性かはあまり関係ないんですが、
改めてこういうところで感想を書くとなると、
なんとなく戸惑っちゃいますね。正直。
いえ、女性が歌の中で男性になって、というのは
それはそれでいいんですが、
こういう歌だと、
状況的に主体は男性かなぁって思ってたけど、
作者が女性なら、この主体が女性でも
わりと違和感はない状況なんだなぁって思っちゃって。
母と娘の親子喧嘩、と読めば、
それはそれでいい景だなと思うんですよね。
こりけケリ子さんの
前世の記憶かがやく白熊の私が書いた花のおはなし
現世では白熊である「私」が、
「前世の記憶」で書いた「花のおはなし」
というのが魅力的でした。

うたの日(広告・後)


うたの日

12月14日歌題「広告」

アドバルーンだらりと文字をぶらさげて小春の空を汚しておりぬ(しま・しましま)

この日のお題は「ダンス」「広告」
子供の頃は時々目にしていた気がするんですが、
アドバルーンで広告を打つって、
最近あんまり見ないなぁと思ってたんですが、
今年の春ごろかな、
目にする機会がありました。
昔は楽しげな存在に思ってたのに、
なんだかそうも思えなくて、
うーん、これはどういうことなんだろうな
と思ってます。

この日いいなと思った歌。
桔梗さんの
むかしからみかんの皮は高級車のチラシの箱に捨てるならはし
「むかしから」「ならはし」
と、初句と結句が直接繋がってて、
その内容を間に入れてある形なんですが、
それが、
「みかんの皮は高級車のチラシの箱に捨てる」
という意表をつく身近さなのが面白いなと思いました。
実は我が家は20年以上新聞を定期購読していない家なので
チラシ事情にはちょっと疎いんです。
でも、
みかんの皮ならコレっていう特定のチラシがある
って面白いなって思いました。
あとで他の方のコメントを見て、
高級車のチラシは厚みがあると知り、
なるほどーなるほどーという感じでした。
「ならはし」という、
やや大袈裟な言葉が、体言止めですぱっと言い切ってあって、
気持がいいなと思いました。

宮木水葉さんの
片道の火星探索隊員を募る中吊り探して家路
うたの日のコメントに
主体はもう、なにもかもいやになってしまったんでしょうか。
あるはずのない募集広告を探しながら家路につく重たい雰囲気ですが、それが「片道」とはいえ「火星探索隊員」というロマンのあるものであるのがいいなと思いました。
と書きましたが、
ホントそんな感じ。
あと、
「片道の火星探索隊員を募る中吊り」
までが一続きで、
それを「探して」「家路」
と、「家路」でブツンと切ってあるところに、
仕事帰りの主体の足の重さが覗えるように思いました。
亜梨さんの
焼きついた閉店感謝の文字を背に紙飛行機は師走の空を
「紙飛行機」が「空」を飛ぶというのは、
爽快感があって、青春性のある情景のように思えますが、
この歌の「紙飛行機」は、
「閉店感謝の文字を背に」という、
なんだか重たいものを背負って、「師走」を飛んでるという。
年の瀬に閉店、と考えるだけで、
なんだか気持が重くなってしまいます。
初句の「焼きついた」が印象的ですね。
多分「閉店感謝」の文言の入った広告チラシで
紙飛行機を折ってあるんでしょうね。
広告チラシの印刷は、
実際に焼き付けてあるわけじゃないと思うんですけど、
それを主体は「焼きついた」と見た
ってことでしょうか。
閉めることに決まった店が「焼きついた」ようでもあり、
紙飛行機の背に「閉店感謝」という文字があるのが、
主体の目に焼き付けられたようでもあり
というイメージが残りました。



12月15日歌題「後」

おざなりな出会いになってごめんなさい後ろで雨が降っていたから(しま・しましま)

この日のお題は「後」「THE」
QBKならぬUAH。
「後ろで雨が降っていたから」というフレーズが
先に出来た歌でした。

この日いいなと思った歌。
塾カレーさんの
どうしよう十年前の私から手紙が来ますあと三日後に
小学生とか中学生のときに、
クラス全員がそういうのを書くという企画があったんでしょうね。
あの時自分が何を書いたのか
「どうしよう」「あと三日後」
というあせりの感じから、
多分主体は具体的な内容は覚えてなさそう。
でも、
あの頃の自分がどんなことを考えてたのか
どんなことが好きだったのかは覚えているから、
大人になった自分に
今(子供の頃)の夢をストレートにぶつけてるんじゃないか
と思って焦ってるのかも。
「どうしよう」という
ストレートな焦りの詠み出しが
ユーモラスな中に痛みもあって、
好きだなぁって思います。

文屋亮さんの
見せよとふ後ろ姿に幾許の価値あるや真直ぐに子を抱く
「見せよ」というのは、
一般論がそう言っているってことでしょうか。
自分の後ろ姿にも少しは見せる価値があるんだろうか
と、思いながら
正面から子供を抱く
という歌かなと思います。
「真直ぐに子を抱く」
がいいなと思います。
子育てって悩みながらやっていくしかないけど、
悩んだまんま止まってても仕方ないんですよね。
ところで、
「とふ」っていう表現、
実は短歌を色々読むようになるまで、
ホントなじみの薄い言葉でした。
「と言う」の古語表現ですよね。
俳句では、
稀に「てふ」という古語表現が使われることがありますが、
(ちょう、と読みます)
「とふ」は、ホント見かけなかった。
「てふ」よりも、もうちょっと古い時代の古語なんですね。
短歌が万葉集の時代から
連綿と続くものなんだなって
思わされます。
太田宣子さんの
海ぶだうぷつんと噛めばあの夏の奄美の朝の海の後味
奇を衒わない共感性の高い歌と思いました。
「海ぶだうぷつんと噛めば」
というフレーズが
奄美大島の海のイメージを広げるための
引き金になっているところが上手いなーって思います。
「あの夏の」「朝の」と、
主体の思い出を想像させるような言葉が入ってて
思い出に残るステキな旅だったんだろうなって思われます。
で、最後にまた
「後味」で海ぶどうに意識が戻っていくのも
いいなぁ。
有華さんの
ゆびきりをしたあと小指じんとしていつもより濃い月にかざした
ゆびきりの後の小指が「じんと」したっていうのが
いいなぁって思いました。
約束してもらえてうれしいゆびきりだったのか
ぜったいに守らないとと思える約束をしたのか、
とにかく大切な約束をしたんだなって思います。
「ゆびきり」だから、
些細な約束ではあるんだろうけど
主体にとって大切な大切な約束だった
って気がします。
一人になってからも、
その事を考えてて、
この指で約束したんだなぁって
しみじみ思う感じがすてきですね。

うたの日(北)


うたの日

12月13日歌題「北」

幾羽かはなつかしさうに北をむき白鳥一羽一羽と眠る(しま・しましま)

この日のお題は「的」「北」
「北」…「北帰行」…「渡り鳥」…
という連想から「白鳥」に辿り着いた歌でした。
白鳥ってロマンのかたまりみたいな鳥ですよね。
冬になると、わりと近くに白鳥が来るポイントがあるので、
毎年見に行ってます。

この日いいなと思った歌。
「的」でハートを入れたのは
笠和ささねさんの
腰を落ち着けない君に当てるため門を叩いた流鏑馬の会
「流鏑馬の会」!
流鏑馬って、あれですよね。
走る馬に乗って、的を射る競技、いや神事?
それを、
フラフラしてる「君」を
射落とすために利用しようとしてる主体の、
遠回りで方向違いな感じが面白かったです。
上の句の
「腰を落ち着けない君に」の
句またがりなところも、
「君」のそれが乗り移ったような
腰の落ち着かない詠み出し方で、
それも面白いなと思いました。
こりけケリ子さんの
北国の犬めく人が婿に来て「これはあの日のお礼だ」という
うたの日のコメントにも
「北」「犬めく人」「婿」で一人ぎゃーとなりました。
と入れましたが、ホントこれ。
多和田葉子「犬婿入り」という小説を思い出しちゃったんですよ。
北村みつこさんという塾をやっている肉感的な独身女性のところに、
あるとき犬男の太郎さんがやってきて、
奇妙な二人暮らしが始まるんです。
作者のこりけさんにそれを意識させる意図があったのか
それはわかりませんが、
昨夜わたしは、それを連想して
一人でうわーっとなってしまった訳です。
この小説も異類婚関係の話なんですが、
「北国」「これはあの日のお礼」というフレーズが
どうしても異類婚を連想させますが、
やってくるのが「犬めく人」で、
一応「人」なんですよね。
はっきりそうだとわからないところが
ぞくっとします。

きつねさんの
三本の矢がまとまれば折れにくいしかし的へと飛ぶのでしょうか
毛利元就のアレですよね。
「三本の矢」って。
「いや、そういうことではなくてね」って感じですが、
その反論も織り込み済みで、
あえてずらしたところに疑問を持って来る
というところが面白い歌でした。
「しかし的へと飛ぶのでしょうか」
という丁寧な疑問の呈し方が
子供っぽいというか
ふと湧いた疑問風にも思えて
いやー、ずるいなぁと
思わずにやっとしてしまいました。
mis0noさんの
映画観て珈琲飲んで本読んで 僕ら的にはオールオッケー
「○○的にはオールオッケー」
というと朝倉大介がプロデュースした
T.M.Revolutionの「HOT LIMIT」がすぐに思い出されます。
なんていうか、
めっちゃ軽い。
底抜けに明るい。
それに対して、上の句の
「映画観て珈琲飲んで本読んで」は、
内容も字面もあまり明るさはないですが、
好きな人には好きな行動タイプ。
それをつなぐ「僕ら」という言葉が、
ちょっと面白いなと思いました。
この「僕ら」が、
僕とその友人なのか、僕と彼女なのか、
あるいは僕を含めた同世代なのか、
その辺りがぼやっとしていて、
分からないんですが、
そういうところをひっくるめて
「僕ら」という大雑把なくくり方が、
なんとなく90年代の明るさっぽいなぁって思いました。
小宮子々さんの
手のうちの磁石は北を指していて僕は鳥ではなかったらしい
磁石が北を指していることと、
僕が鳥ではなかったと理解したことは
直接関係はないかも知れないし、
何か背後にドラマがあって、
密接に関係しているのかも。
春にやってきて秋に去っていく渡り鳥は
日本←→南
秋にやってきて、冬の終りに去っていく渡り鳥は
日本←→北
という感じですが、
主体はどこへ飛んで行きたい鳥のつもりだったんでしょうか。
まあ、
うすうす自分が鳥ではないことはわかってはいたけど、
なんらかの理由でそれがはっきりしてきた
という感じかなと思いました。
どこへも飛んでいけないことへの
あわい失意が感じられて、いいなって思いました。
文佳さんの
コーヒーと冬の空気を分けあって北斗七星まで歩こうか
「北斗七星まで」歩くというあてのなさと、
「コーヒー」と
「冬の空気」がすごく合ってるという気がします。
この「冬の空気」の、澄んで、ちょっと尖った感じが
すんと鼻に抜けるのを実際に感じられるようで
すきだなぁってしみじみ思います。
白黒つけたいカフェオーレさんの
半ライスが最初に届くテーブルに北へと向かう男の手帖
「半ライス」って、
だいたい何かメインのものについてくるものですよね。
それが「最初に届く」って、
微妙に雑な感じの店だなぁって気がします。
大衆食堂か、あまり人気のないラーメン屋か
そんなところをイメージしました。
そういう店に「北へと向かう男」って
実はなにげに来てそうだなぁ。
で、男そのものではなくて、
その男の手帖をクローズアップしてみせるところが
面白いなって思いました。
使い込まれた手帖なんだろうなとか想像します。
桔梗さんの
とほくより雪の匂ひを連れてくる白鳥たちよおやすみなさい
渡りを終えた白鳥が眠りにつく
という、
わたしの投稿した歌と、ほぼ同じシーンを詠まれた歌。
わたしのそれと比べると、
「白鳥」への心の沿わせ方の距離感がとても近くて、
やさしい眼差しがステキだなって思います。
秋に日本へ渡って来る鳥の中でも、
白鳥って、遅くになってからやってくるような気がします。
白鳥が来る頃、だんだんと雪の季節になってくるようで、
「とほくより雪の匂ひを連れてくる」
と言われると、
ああ、たしかにそうだなって思います。

うたの日(逆)


うたの日

12月12日歌題「逆」

干しぶだう逆さに振つても出てこない最後のひとつに名前をつける(しま・しましま)

この日のお題は「俺」「逆」
干しぶどうってべたっとしてるやつがあって、
袋からなかなか出てこないがんこなやつ、いますよね。
袋の内側もやっぱりべたっとしてるんで
出来れば手を入れて取り出したくない、
いいよ、じゃあそこにいなよ
みたいな気持で詠みました。
この干しぶどうのうたを作ってから、
なんとなくその状況をほりさげてみたくなって、
つづきを少し作ってみました。
そしたら、
干しぶどうとわたしの擬似恋愛ぽくなってしまって、
ナニこれちょっとキモイ
と思って、
思わずツイッターに全部流してしまいました。

思ひ切り愛しい名前をつけたから いいよこのままそこにおいでよ
ある夜は笑顔ある日は泣き顔に見えてなんだ、これは自分の顔だ
パーカーのフードの紐のかたつぽが埋もれてたのも君は見てゐる
あいつ時々一人で出歩いてるんだと教へてくれた人を憎む夜
干しぶだうひとつぶ湖(うみ)へ投げてやるなんの鳥だか当ててごらんよ

この日いいなと思った歌。
小向大也さんの
大阪でひとり左に立っているあなたをこづいてこっちに寄せる
「大阪」で「左に立」つのが逆になる、
ということで、
エスカレーターにいるのかな、と思って読みました。
「あなた」は大阪に来たばかりの人なんでしょうね。
「あなた」という柔らかい言葉と
「こづく」という、少し乱暴な動作が繋がると、
なんとなく新鮮な感じ。
きっと、つついたのちょっと強めぐらいだったのかなぁ
とか思います。
ローカルルールをしらない人に、
大袈裟にならない程度にさっとフォローする
さりげない優しさがいいなぁ。
そして、
「大阪でひとり」と詠み出して、
「こっちに寄せる」で終るところが、
馴れない土地で右も左も分からない「あなた」を
ぐっと自分に引き寄せる力強さもあって、
あー、すてきだなって思いました。

笠和ささねさんの
逆でしょう先にあなたがゆくなんて苗字の変わる父を手渡す
面白い歌だなぁって思いました。
上の句の、
心情からしっとりと詠みだされている
「逆でしょう」

「先にあなたがゆくなんて」
って、
「逝く」なのかと思ったら、
そうじゃなかった。
「苗字の変わる」場面って、
養子か結婚か、
そんなところだと思うんですが、
まさかまさかの「父」だった。
その状況自体があれ?あれ?
って感じですよね。
なかなか娘が、婿養子にこれから入る父を送り出すとか。
立場的にはたしかに「逆」ですよね。
まあ、「先」か「後」かの順序でいえば、
父が結婚する方が先で間違いない気がするんですが。
と、
昨夜は思ってましたが、
今読んでいると、
「あなた」と「父」は別の人っぽい気もします。
「父」を手渡した相手が「あなた」なのかな。
「手渡す」なんだから、
やっぱり最初の心情は、手渡しながらのものなんでしょうね。
とすると、
何が逆なのか分からなくなってしまいました。
うーん。

ルオさんの
確認もされず置かれたコーヒーを君に回してケーキを貰う
甘党の彼のケーキと、彼女のコーヒー。
まあ、そういうことってこのカップルで
時々あることなんだろうなと思わせる、
さらっとした流れ作業がちょっと面白いです。
なんとなく、なので、
何でと聞かれると特に根拠はないんですが、
「コーヒーを君に回してケーキを貰う」
という下の句が、
女性っぽいとまでは言わないけど、
ほんのり中性的な表現なような気がして、
ケーキ似合いそうとか思ったりしました。

票を入れようかまよって、
結局入れなかったんですが、
安西大樹さんの
蝶を追う私の背から鱗粉がこぼれ追われているのは私
も、ステキだなぁって思いました。
「鱗粉」がいいですよね。
きらきらきらきらこぼれてて、
ああ、いつのまにかわたし蝶々になってる……
って夢っぽく、すとんとそれだけで納得してしまう、
そういう感じが好きです。
ただ、「逆」ではないかなぁ、と。
「輪」な感じがしたので、
今回票は入れなかったけど、
すきな歌でした。

うたの日(キリン)


うたの日

12月11日歌題「きりん」

走り出しかけて三歩で立ち止まるきりんに空の高さはありぬ(しま・しましま)

この日のお題は「キリン」「劇」
昔、公園にいろんな動物のオブジェがあって、
背中にまたがったり頭をなでたり出来たんですが、
その中にキリンのオブジェもありまして、
それだけが、
背中にまたがることも頭をなでることもできない、
ただ、そこにあるだけのオブジェだったんですよね。
思い出してもらえると分かると思うんですが、
キリンの背中ってかなりの急勾配になってて、
もしもよじ登ることが出来ても、
絶対にまたがらせないという
何か決意でもして生れてきたのかという
そんな形状なんです。
頭も、子供からすると
遥か高くにあって、遠目にしか分からないし。
今考えても、
なぜキリンが、
ほかのパンダやライオンとともに
公園のオブジェに選ばれたのか分からないという。
なんで唐突にそんなことを書いたかというと、
まあ、
そんな思い出もあって、
キリンってわたしの中では
人間との親和性の低い生き物だなぁ
としみじみ思う、
という話なのでした。

この日いいなと思った歌。
沼尻つた子さんの
金色のキリンがパレードするような公孫樹並木をあなたと歩む
うわーステキステキ!
って一目惚れした作品でした。
「公孫樹並木」を「金色のキリンがパレード」と見るって
まずすごい表現で、
しかもめっちゃ納得できる!
って感じで、
ふるえました。
動かないはずの並木を
「パレード」と詠まれてて
その躍動感が、
ぐるっと目の前にいちょう並木がパノラマ状に
展開されるような感じで
もうとにかくステキステキ。
「金色のキリンがパレードする」
っていう視覚的にも語感的にも華やかに始まって、
それが「公孫樹並木」のことって分かって、
「あなたと歩む」と、
しっとり落ち着いた着地点におさまる感じもいいなぁ。
いちょう並木の華やかさと、人の体温のあたたかさ。

フジタレイさんの
少しずつ伸びていく首 飽きもせず冬の麒麟を見ている僕の
動物園のキリンかな、と思います。
キリンって全体的な形状もそうですが、
顔だけ見ても、
そうとう不思議な感じで、
じっくり見れば見るほど見飽きない、
そんな生き物な気がします。
このうたの感じだと、
ちょっとキリンと主体に距離があって、
全体像を眺めているのかな。
首元に、ふいに冷たい風が吹いてきて、
ああ、ずっときりんを眺めていたから、
首がすこし伸びちゃったかな
って気持になった主体、
という想像をしました。
冬の動物園の、
そこだけ無音の感じがいいなと思いました。
太田宣子さんの
しりとりをいつもキリンで終はらせるあなたの細い首を吹く風
この歌も、
人の「首」に着目したものですね。
「あなた」の首が「細い」ことと、
「しりとりをいつもキリンで終らせる」ことと、
因果関係はないんだと思いますが、
ほんのりと「だから」って言ってるようで、
このほんのり加減がいいなって思います。
きっと主体は
「あなた」のことが大好きなんでしょうね。
だから、かすかに首まわりの髪が
風に吹かれるところも見逃さない。
繊細な感じがいいなって思いました。
桜望子さんの
首だけを外の世界へ伸ばしつつ逃げないキリンは干し草を喰む
「首だけを外の世界へ伸ばし」
というフレーズがすごくいいなと思いました。
動物園によっては、
柵近くまでキリンが首を伸ばせるようになっていて
何かすると、柵を越えることもありますね。
その感じが
「首だけを外の世界へ」
という感じに、作者には見えたんでしょうね。

うたの日(ジャニーズ・住所)


うたの日

12月9日歌題「ジャニーズ」

主なき部屋で時々風に揺れニシキド君の黄色い団扇(しま・しましま)

この日のお題は「DNA」「ジャニーズ」
ほぼ実景みたいな歌です。
まあニシキド君が錦戸君だということは知ってるし、
実際は「亮ちゃん」と娘は呼んでましたが。

この日いいなと思った歌。
萩野聡さんの
キムタクはいくつになってもかっこええドラマを見つつラーメンすする
「キムタク」って、
ホントいつまでたってもいくつになっても
不動のイケメンアイコンのままでいる
不思議な存在ですよね。
もう、やっかみすらも感じない。
この歌の景は、
テレビの置いてあるラーメン屋か、
あるいは自宅でインスタントラーメン
というところでしょうか。
どちらにしても、
なんとも言えないほんのり侘しい感じがします。
「ジャニーズ」というお題で、
ぐっと自分自身へ引き寄せて詠まれているところが
すごくいいなと思いました。
「かっこええ」の語感のほわっとしたところも好きです。

亜梨さんの
キスマイもセクゾも知らぬ父母よ入口出口は知っていたのか
ジャニーズファンの娘に、
「カツーンの田口くん、やめるんだってね」
とか親が話を振ったところかな
と思いました。
もしかして、テレビを一緒に見ながら、
「この子、入口出口田口とか言う子だよね」
とか、もうひとつ踏み込んできた(?)ところでしょうか。
「キスマイ」も「セクゾ」も知らない、
あるいは知らなかった両親が、
「カツーンの田口くん」「田口くん=入口出口の子」
という認識があるというのに、
驚きと、
(ここからは想像ですが)少しの苛立ちと、少しの嬉しさを
主体は感じているのかな、と思います。
「キスマイ」「セクゾ」「入口出口」という、
知らない人は全然分からない言葉を
畳み掛けるように入れてるところが面白いなって思いました。
わかんない奴はついてくるな的な挑戦的な態度が
めっちゃツボにハマった感じで。
ちなみに、
田口くん>キスマイ>セクゾ
というのが一般的な親世代の認知度だと思います。
もちろん異論は認めます。
真夜中さんの
ジャではなくニーズに発音持ってくる酒屋のおばちゃんから飴もらう
なんとなく、こんな「酒屋のおばちゃん」いそうで
微笑ましい歌と思いました。
なぜそこにアクセントを?
みたいな謎発音で、
でも知り合いみたいに親しげに話の中にタレントを出してくる
そんなおばちゃんいますよね。
主体自身も、そんなにアイドルに興味のあるタイプではないけど、
あー、その発音はちがうんじゃないかなぁ
と思いつつ、話を聞いているのかも。
「飴もらう」の、
おばちゃんの怒涛の話ぶりから、
滑らかに飴をくれる動作へ移る様子が想像されてしまいました。
太田青磁さんの
誰も彼も校門裏の駐車場でローラースケート履いていた頃
ガタッ(大沢くんファンだったやつが立つ音)
「誰も彼も」「ローラースケート」
という言葉で、光GENJIがふわっと浮き出てくる歌ですね。
昭和から平成へ移り変わる頃の、
ほんの数年だけではありましたが、
彼らのヒット曲は、チビッコからお年寄りまで、
誰もが聞いていたような気がします。
「ジャニーズ」という言葉から、
その「頃」のことを想起する主体。
実際に光GENJIに影響されてローラースケートを
みんなで遊んだということは、
当時小学生ぐらいだったんでしょうか。
単にそういう時代だった、そんな人気だった
という事実の報告に終らない「頃」という一語が、
当時を知っている読者を一緒にその頃へ
つれてってくれるようでした。



12月10日歌題「住所」

縦書きで書いた住所をはみ出した番地が風邪をひきそうにある(しま・しましま)

この日のお題は「住所」「デート」
縦書きの住所の番地の書き方って
ちょっと難しくないですか?
たとえば302‐5みたいな数字、
数字自体は漢数字を使って縦にする事が出来るけど、
‐(ハイフン)をどう書くか。
ひらがなで「の」って入れる場合もありますが、
まあそのまま、これだけ横書きで入れちゃえ
ってしたときに、
短い番地ならおさまるけど、
長い番地になると、完全にはみ出てしまうんですよね。

この日いいなと思った歌。
吉川みほさんの
わたくしの家の住所は検索によると海抜6.2m
本当に検索かけて出た数字をそのまま歌にしている
ような気もしますが、
じわじわと味わいぶかい歌だなって思いました。
うたの日のコメントにも書きましたが、
「海抜」という視点から、現住所を見るって
不思議な感じがしますね。
「海」基点でモノゴトを測るということに、
ロマンがあります。
あと、
コメントでは書かなかったんですが、
「海抜0メートル」とか、
なんとなく「海抜」という言葉には社会性が感じられて、
見る方向によれば
何かきびしいものもあるような気がしました。
あとで作者の吉川さんが
「震災以降」ということを書いてらして、
ああ!と思いました。

照屋沙流堂さんの
電柱を気にして散歩する彼ににおいの濃淡である住所は
「彼」は犬なんでしょうね。
面白い視点で詠まれた「住所」だなって思います。
犬である「彼」にとっての「住所」。
「電柱を気にして散歩する彼に」
という上の句の「に」が
地味に効いてるなぁって気がします。
ここで、一旦軽く切れる「に」なんですよね。
で、下の句が
「においの濃淡である」「住所は」
と、倒置になっているところがいいな。
犬である「彼」にとっての「住所」(あれっデジャヴ?)
というものに、
主体が改めて思いをはせているように思われます。
荻森美帆さんの
住所まで書くと投函したくなるこの世にポストがなければいいのに
1手紙を書こうという気持
2便箋に本文を書く
3封筒にそれを収める
4封筒に宛名を書く
5切手を貼る
6ポストへ投函する
というのが一般的なお手紙手順じゃなかと思います。
6までしてしまうと完了なんですが、
5でももう引き返せないところへきているように思えます。
4、はどうでしょう。
出さずに置くこともできるけど、
やっぱりここまで書いたら出したくなる
ここが手紙の分岐点なのかも。
という上の句に対して、
「この世にポストがなければいい」
と思ってしまうところがキュートだなって思います。
愛すべき自己中というか。
自分のものすごく個人的な感覚から、
世界のシステムを自分へぐっと引き寄せてしまう
そういう感覚好きです。
北大路京介さんの
住所問い大阪城と言う子らの遺伝子に住む上沼恵美子
「上沼恵美子」さんについて、
そんなに強いイメージを持ってないので、
アレなんですが、
多分、大阪の方からするとthe 大阪な方なんだろうな
と、想像して読みました。
住所を問われて「大阪城」という子供の返しも、
the 大阪のこてこて感なのかな、と。
「住所問い大阪城と言う」と、
一繋がりになっているので、
一瞬、どちらも同じ子供なのかなと思いましたが、
多分、
住所を問う子と大阪城と返す子は別の子なんでしょうね。
主体は、知らない子供たちが、
そんなことを言っているのを耳にして、
そういう感慨を持ったという感じなのかな。
そういう知らない子への温かい眼差しと
郷土愛が感じられていいなって思いました。

うたの日(柄)


うたの日

12月8日歌題「柄」

失くしたもの思い出すとき吐く息が湿らすモップの柄、その他(しま・しましま)

この日のお題は「定規」「柄」
87584
というクソ字足らずな歌でした。
なんていうか、
リビングをモップで掃いてて、
たった一匹猫が減っただけで
こんなに違うもんだなぁとか、
折に触れては思い出してウェッティな人と化してます。

この日いいなと思った歌。
太田宣子さんの
母の手は体温計にも定規にもなつてわたしの世界を測る
うたの日の他の方のコメントを読んで、
あ、なんとなくわたしの感じ方とは
違う方向だな……
と思ったんですが、
気にせず突き進みます。
このうた、こわい歌じゃない?
最初読んだときに、あっこれは女性の作品だなって
そう思いました。
「母の手」が「体温計」になる、
それは幼少時のほんのり甘やかな思い出の中の手ですが、
その「手」が、
子供が成長するにつれて、
大きさを測る、体調を測るから、
子の世界を測る「定規」になるわけです。
それは「母」の定めた道徳観や世界観で測られるって
そういうことかなぁと思って、
どこ行くの?誰と会うの?
って、腕とか鞄を掴まれた感覚が
うわーっとよみがえってしまいました。
今年の夏、
病葉や女に重き女親
という俳句を詠んで、
しかもわたしの母も参加している句会に出すという
暴挙に出たわたしなので、
より穿った読み方になってしまったかも知れません。
桜望子さんの
手の中に握った柄の冷たさに刺されていたのは私のほうだ
うたの日のコメントの繰り返しになるけど、
どきっとする歌でした。
これは刃物の「柄(つか)」なんでしょうか。
「冷たさ」ということは、
とっさの殺意に思わず握ったものと思いました。
この刃物を実際に(歌の上でだけど)この後使ったのか、
結局は使わなかったのかは分かりませんが、
刺すより前から
「刺されていたのは私のほうだ」
という主体。
わたしは、この歌、
「柄の冷たさに」で一旦軽く切れて、
「刺されていたのは」と下の句になる
と読んだんですが、
どうなんでしょうね。
「柄の冷たさに(触れて一瞬びくっとする)刺されていたのは」
という感じに、普通に読んでました。
「冷たさに刺される」
という読み方もあったなぁって
今になってちらっと思ったりもしていますが。

えんどうけいこさんの
数十年前に背中に入れられた定規が今も折れないままだ
「定規」の歌では、
ぎゃー、読みが人と全然違うベクトルやったー
ってことが多くて冷や汗。
この歌も、
他の方のコメントを読んで、
あ、「定規」は比喩だったんだ
と気が付きました。
わたしは、
子供の頃に、姿勢を正すために背中に突っ込まれた竹の定規が
今でも実家であの頃のまま現役で使われてて、
そうそう、そういう変な思い出のあるシロモノって
無駄に(無駄じゃないけど)丈夫だったりするよね
って思ってました。てへ。
雀來豆さんの
横暴な文具屋店主、分度器の代わりに落ちた半月を売る
タブロイド誌の見出しっぽくて面白いなって思いました。
いいですね。「横暴な文具屋店主」
オマエごときはこんなもんで測ってろ
みたいな感じなんでしょうか。
にしては逆に贅沢なような。
ああ、酷い話なのにファンタジック!
葵の助さんの
線を引く覚束ない手を思い出す娘の定規で背を掻きながら
こういうずらし方好きだなぁ。
幼い頃の娘の「手」を思い出す、
おぼつかないけど一生懸命に真直ぐな線を引こうとしてる、
そんな手を。
っていう
「うちの子あんなに可愛かったなぁ」系の追憶から、
現在の主体自身にぐっとひきつけられていく感じ。
しかも、
「定規で背を掻」くという、
ややトホホで怠惰な感じの主体っていうのがいいですね。
わたし、
他人の日常系トホホが大好物なんです。
須磨蛍さんの
一張羅の背広で父は結納の柄樽(えだる)を抱えゆっさり歩く
なんとも言えないいい情景だなぁって思います。
わたしがつい最近、結婚式に出席してきたから
余計そう思うのかも。
まあ、新婦側として、ですが。
主体は、若い男性かなと思います。
結納品の柄樽(角樽のことかなと思いました)を抱えた父親が
主体の前を歩いていて、
よたよたするほど重いものでもないけれど、
重そうにゆっくり歩いているように見えた。
自分以上に父が緊張してるんだなって
後から見てるのかなぁって思いました。
なんとなく、まじまじと父の後姿を見て、
ああ、この背広は例の一張羅のやつだな
とか、そんな事も発見したりして、
そういう視線の動きが面白いなと思いました。
だゆうさんの
歯ブラシの柄がべたべたの変え時に樹脂とかブラックとか言わないでほしい
なんでしょうか、
脱力するような不安感をあおる、
なんとも言えない魅力のある歌でした。
だいたい、
「歯ブラシの柄がべたべた」
という「変え時」ってどういう状態だよって
突っ込みたくなりますが、
次の
「樹脂とかブラックとか」
という「言わないでほしい」フレーズは
何なんだと、
そっちの方が余計謎なので、
あえて、そういう「変え時」の場合もあるのか
と、乗っておきます。
しかし「樹脂」は、
なんとなく「歯ブラシ」に関係ありそうな気がするけど
「ブラック」って何なんだろう。
あんまりよさげな言葉ではなさそうですよね。
結句の「言わないでほしい」の、
どことなく弱気な感じも面白かったです。

うたの日(おまけ)


うたの日

12月7日歌題「おまけ」

あの中のひとつがあたしだったんだキーにさがったおまけのおもちゃ(しま・しましま)

この日のお題は「おまけ」「既視感」
「既視感」って
一般的な「既視感」と
短歌の批評用語としての場合って
意味合いが全然違って戸惑います。
一般的なやつはいわゆるデ・ジャヴ。
未体験の物事のはずなのに、
どこかで体験したことがあるような錯覚。
批評用語では、
わたしもその定義がはっきりとは分からないけど、
どうやら
どこか(の短歌)で見たことがある内容・表現
(月並みな内容・表現も含む)
遠まわしにパクリ疑惑があるよということの言い換え
に使われるような気がします。
正直、キモチワルイ言葉だなぁって思ってます。
まあ、そういうこともあって、
この日の「既視感」のお題はパスで
選もしてなかったんですが、
すごく好きな歌を発見しちゃいました。
水沼朔太郎さんの
やったあ!(これは楽しい既視感)初体験のおよそ八割
上の句の
「やったあ!(これは楽しい既視感)」
がすごく好き。
この心弾むあけっぴろげな感じに見せつつ、
どことなく皮肉がチラチラするみたいで、
あー、
これにハートを入れるために選をすればよかった……
と、思ったりして。

この日いいなと思った歌。
太田宣子さんの
翌朝の湯たんぽの湯に顔洗ふおまけみたいにしあはせはある
ほわほわーっといいなぁって思います。
わたしは湯たんぽ使わないので、
まるっと想像だけなんですが、
顔を洗うのに丁度よさげな温度まで下がったお湯、
うーん、35度ぐらいでしょうか(適当
昨夜ふとんの中を温かくしてくれた湯たんぽのお湯が、
朝には、温かく顔を洗うためのお湯になる
という、温かさの繋がる感じとか、
なんとなく「しまつやさん」という言葉の浮かぶ感じ、
無駄なく使うんだけど、
みみっちさとかじゃなくて、
どこか清潔な感じが漂うところもいいなぁ。
このしあわせが、
「おまけみたいに」
であって、
「おまけみたいなしあはせ」ではないところも
好きなポイントです。
生きる上のおまけみたいに、しあわせがある
的な。

衣未(みみ)さんの
おまけとかきみの些細な言葉とかそういうものがピカピカ光る
このお歌を見たとき、
ぱっとカラスが浮かびました。
カケスとかカササギなどもそうなんだけど、
カラス科の鳥って、
光るものを集める習性がありますよね。
知能が高くて、目立つものには興味を引かれて、
それを満足いくまでいじってみたいと思う
んだそうですが。
ちっちゃなお菓子の「おまけ」とか、
「きみの些細な言葉」とか、
主体には、
まるでカラスが光りものを集めるみたいに、
ピカピカ光ってるから、
集めたくなってしまうものなんでしょうね。
この「ピカピカ」という表現がいいなぁ。
主体の気になるものの、微妙なチープさと魅力的だと思う気持が
「ピカピカ」に込められているようでした。
葵の助さんの
夕焼ける児童公園末っ子は置いてかれないように走った
夕焼けの児童公園、
それだけで何か郷愁をかきたてる情景ですね。
うたの日で、
必死で年長の子について走る子と、かつての自分とが重ねてあるんでしょうか。
とコメントしましたが、
どうやら、作者の下の息子さんを詠んだものだったみたい。
「置いてかれないように」
という心情に
いたいけな必死さと、
そこから来る微笑ましさと同時に、
なにか胸にぎゅっとくるものがありました。

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