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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(1月19日20日)


うたの日

1月19日のお題は「低」「感」。

十年振りに帰ってきたという人のそうかこうかと低いつぶやき(しま・しましま)
記憶の中の風景と、
実際の風景って違いますよねー。

この日いいなと思った歌。
中牧正太さんの
撃たれないように姿勢を低くした人の末裔せかいはみんな
人類の歴史をひもとくと
みたいな壮大なスケール。
でも、考えてみるとたしかにそうともいえるよなぁ
って、
うんうんうなづいてしまいました。
「撃たれないように」とあるけども、
それは銃的なものに限らず、
その時代その時代の、
あるいは戦時なら戦時、平時なら平時、
それぞれ生き延びるための処世術があったわけで、
わたしたちって、
そうやって生き延びてきた人たちの末裔なんですよね。
結句の「せかいはみんな」で
あ、ちょっと硬くなりすぎたかなって感じで
まるく柔らかい表現になってるところも
好きな雰囲気でした。

えんどうけいこさんの
あなたとは低空飛行の関係で別れを告げるきっかけがない
「低空飛行の関係」
あやういんでしょうか、
オトナの距離感でしょうか。
友人であれば、
あえて「別れを告げる」こともないような気がするんで、
これは恋愛の類いの関係なんでしょうね。
付き合ってるのか付き合ってないのか
今一つ断言できる自信がない関係ってありますよね。
わたしのおぼつかない記憶の中にも
そういうのがあった気がします。
新しい恋しようと思っても、
そういう関係の人がいると微妙ですよね。
「わたしたち、付き合ってるの?」
って真正面から聞いておいて、
YESの答を聞いてから、
あらためて別れを切り出すのも
ヒドイ話に思えますし。
でも、
本当は別れなんて切り出したくない主体なのかも知れません。
柊さんの
胸の内渦を巻いてる低気圧早く過ぎ去れ青空になれ
理由のはっきりしないダウナーな気持
ってありますよね。
このうたでは「渦を巻いてる」ということで、
これはもうダウナーを通り越して
かなり荒れ模様になってる気もしますが。
自分自身では気持を立て直すすべがない
そういうのって、あるあるって思います。
下の句のストレートな
「早く過ぎ去れ青空になれ」
の祈りがいいなって思いました。


1月20日のお題は「雪」「ずっと」

きみんちの犬になりたい明るすぎる夜にむかってずっと吠えてる(しま・しましま)
誰かんちで愛される存在になるのもいいなぁとか
思ったりして。

この日いいなと思った歌。
きいさんの
傘の柄を握り直して歩き出す ずっと先まで信号は青
姿勢がすっと正されるようなすてきなうたでした。
「傘の柄を握り直して歩き出す」
という上の句、
主体もそういう気持なのかも。
雨の中ではあるけども
ずっと先までまっすぐに、
自分の行く道が見えていて、
それがここから「信号は青」というのが見える。
ここからまた歩き出すんだっていう
明るい決意が見えて、
ホントすてきでした。

那須ジョンさんの
もうずっと家から出ない蜘蛛がいてぽりんぽりんと夢だけ食べる
なんだろう、不思議なうたと思いました。
まず、
「もうずっと家から出ない蜘蛛」という把握。
そうそう出歩く蜘蛛も居ないと思うんだけど、
まあ心の中にいる何かの比喩なんだと思うんですが、
「蜘蛛」が想像されるのが面白いなって思いました。
「ぽりんぽりん」という擬音も印象的でした。
ひらがな表記のかわいらしさ、
多分硬いものを折っているような弾む感じ。
それが「夢」を食べる音なんですよね。
なかなか食べ応えのある硬さのある夢なんでしょうか。
しかも、なんだかやめられないとまらない感ありますね。
そうやって、ちょっとずつ夢が食べられてしまうと、
夢はどうなっちゃうんだろう。
食べ物がなくなった蜘蛛はどうなるんだろう。
とても気になるうたでした。
ナタカさんの
昨日よりずっと良いって言いながらポカリスエットばかり飲んでる
アクエリアスよりも
ポカリスエットを美味しいと感じる時は
かなりヤバい時だ
と聞いたことがありますが、
どうなんでしょうね。
誰かに、具合はどう?って聞かれて、
「昨日よりずっと良い」って言ってるんだけど、
ポカリを飲んでるっていうのは、
まだ具合が悪いんでしょうね。
でも単なる強がりの言葉ではなくて、
心配してくれた人の心配を少しでも減らしたいっていう
やさしさの言葉のようで、
がんばれ、男の子
って思ったんですが、
男の子ではないですね。
がんばれ、わかもの。

うたの日(1月17日18日)


うたの日

ずいぶん更新してなかったなぁ
ということで
まずは二日分。

1月17日のお題は「ココア」「ことわざ」

引かれ者の小唄が風に乗ってきてこれから遠くへ行くのだと言う(しま・しましま)
「引かれ者の小唄」ということわざを、
そのまま使ってみました。

この日いいなと思った歌。
小向大也さんの
虎の威を返して帰る山道で影の黒さが気になっている
「虎の威を借る狐」
上手いなぁ。
借りる前よりも、
ずっとずっと
「影の黒さ」が気になってしまうようになるんでしょうね。
ずるくうまく生きようとしても
ずるく成りきれないところが
いいなぁって思いました。

那須ジョンさんの
おめでとう! 二億リツイート達成で新ことわざに君のつぶやき
何気ない呟きから
あたらしい言葉が生まれて定着して
案外そうやって、
「ことわざ」として永遠に残っちゃうかもです。
万単位のリツイートでも、
今のところそういう「ことわざ」が発生していない
ということは、
二億はいかないと…って感じになるんでしょうか。
「おめでとう!」の明るい祝辞がポップで好きです。


1月18日のお題は「羽」「耳」

雨が雪にいつ変わったか知っている右耳ずっと澄ましていたから(しま・しましま)
うたの日のコメントではないですが、
夜ふけすぎに雪に変る、みたいな予報があると、
なんとなく気にして音を聞いてしまいます。
ちなみになぜ右耳かというと、
単純にベッドの右側に窓があるからでした。

いいなと思った歌。
借みねさんの
雑巾でテレビのくぼみ拭くときに耳のかたちを思い出している
旧型のテレビが、
これを読んでぱっと浮かんできました。
テレビの隅のくぼみ、
たしかになんとなく耳っぽいですね。
で、
主体が思い出してる「耳のかたち」って
誰のものなんだろうって思って、
うーんこれは恋人のだなって
思います。
日常のホントなんでもないときに、
ふっとよみがえるセクシュアリティに
ぐっときました。

きいさんの
柔らかいマスクの紐を耳に掛け通勤ラッシュに今日も乗り込む
冬の朝(とは限らないかもだけど)の、
出かける直前の感じでしょうか。
「柔らかいマスクの紐」の
質感が、
自分の耳によみがえってくるようで、
いいなって思いました。
これから「通勤ラッシュ」の波にもまれる、
その前のせめてもの自分への労りのようでした。
文佳さんの
耳たぶに散らばる穴に触れてみてあなただけにある星座だという
うちの娘も片耳四つぐらいピアス穴が開いてますが、
耳孔を中心にして並ぶピアスホールを、
「あなただけにある星座」
という見方がステキでした。
なんていうか、
優しい視線ですよね。
そう言ってくれたのは、
やっぱり恋人なんでしょうか。
繊細な言葉に繊細な触れ方まで想像されます。

うたの日(1月14日~16日)


うたの日

1月14日のお題は「明」「暦」。

すそにまだカールの残るカレンダーめくって春を確かめてみる(しま・しましま)

この日いいなと思った歌。
前田沙耶子さんの
ゴーストが毎晩部屋にやってきて 破った日めくりまたくっつける
あっなんかかわいい
といううたでした。
キャスパーみたいなかわいいゴーストが
いたずらしに毎日くるのかな。
もっと怖い感じのゴーストもありかもだけど、
やってることが単なるいたずらなので、
怖いっていってもキャスパーのおじさんたちぐらい?
とか思って楽しかったです。
日めくりって毎日一枚破るものだけど、
それをゴーストがひろって「またくっつける」
としたら、最初は一枚破って、
次は前日の分とあわせて二枚、
となると、
その次の日は三枚?
とか考えて、
うーん、やっぱり面白い。
いやになって捲らなくなるというのがなさそうで、
人間側もなんとなく
のほほんとしてるところがいいなって思いました。

木原ねこさんの
花の名を数より先に子は覚えおえかきちょうを花暦にする
「花暦」
すてきですね。
お花を沢山描いた「おえかきちょう」を
「花暦」と捉えるお母さん。
木原さんのお子さんを描いた作品には、
歌人としてのお母さんの視線が、
びしっと感じられるうたが多くて、
ホントすてきだなぁ。
「うちのこ」として
自分と半ば一心同体に捉えるんじゃなくて、
自分とは違う人間だっていう
距離感があるようで、
そこに惹かれます。
桔梗さんの
保険屋の殺風景なカレンダーにあなたが記す未来のことば
実用一点張りの写真もイラストもない
そんなカレンダーの下の方に、
保険屋さんだとか酒屋さんだとか車屋さんだとかの
名前の入ったものってありますよね。
お部屋のムードとかインテリアに気を使う女性の部屋だと
そういうカレンダーがかけられることはない
ような気がして、
これは男性のお部屋のカレンダーかな
と、思いました。
まだ1月半ばだけど、
すでに色々と書き込みがしてあって、
それをペラペラ捲って眺めてたら、
なにか主体にとってうれしい予定が
書き込まれてるのを発見して、
殺風景なカレンダーが、
急にすてきなカレンダーにみえた
みたいな感じかなって思いました。
もしかしたら、
主体の目の前で書き込まれたのかも、ですが。
「未来のことば」が
少しふわっとしているので、
もしかしたら全然そういう意味ではないのかも
でも、そう読みたいなって思ううたでした。


1月15日のお題は「果」「違」

靴紐をいつもと違う順番で通して春に出遅れそうだ(しま・しましま)
この日は夜中まで句会に出かけてたので、
選が出来ませんでした。


1月16日のお題は「蒼」「黒」

くろいろの絵の具で空をぬらないで雪が汚れてしまいそうだよ(しま・しましま)
ふふふ。事実上の0票でした。
ぼんやりしてますね。
「空」は「夜空」のつもりだったので、
「夜」にしてもよかったかな。
でも、どこのポイントがという理由ではなくて
ダメだったのかも知れません。

この日いいなと思った歌。
こりけケリ子さんの
真っ黒に蟻のたかった飴玉の夢を見ているアリクイ姉妹
改めて読んでも、
やっぱりきもちわるいですね。
うたの日に
上の句の、きもちわるい情景をうっかり想像してしまって、うわっとなりましたが、こういうものを夢に見て、アリクイはきっとすてきなご馳走の夢を見たと思うんでしょうか。審美眼というよりは価値観の違いなんでしょうけれど。
アリクイが姉妹そろってそんな夢を見てるのが面白いなと思いました。女の子たちっていうのもいいですね。女の子がキャンディの夢を見てる、とも言えますよね。
と、コメントしましたが、
ホントにぞぞっとする情景を
「夢」でほっとさせておいて、
「アリクイ姉妹」という
なにやらキュートな存在で終わらせているところが
楽しいうたでした。
非常に個人的な話ですが、
任天堂のゲームに「どうぶつの森」というシリーズがあって、
そこにアリクイのキャラクターが出てくるんですが、
そのなかに「こまち」ちゃんというアリクイが、
以前のシリーズに登場してて
わたし、彼女が大好きだったんですよね。
なんとなく、こまちちゃんのことを思い出して、
こりけさんのうたのアリクイ姉妹の片方は
もしかしてこまちちゃんじゃないかと
楽しく妄想したりしました。

琥珀さんの
悲しみは人それぞれに違ってて喪服の黒は並ぶと違う
たしかに、「喪服の黒」って微妙に違いますよね。
「悲しみ」ももちろん「人それぞれ」。
何を悲しむかも違うし、
同じものを悲しんだとしても、
度合も表現も違う。
このうたの場合の「悲しみ」は、
下の句に「喪服」という言葉が出るので
葬儀でのものと限定してもいいのかな。
ああ、そうだね、分かるなぁ
ってうたでした。
ただ、
「悲しみ」「は」「違ってて」
という上の句に、
「喪服の黒」「は」「違う」
という下の句というところに、
微妙な違和感がありました。
すでに「違う」んだってものがひとつ提示されてるのに
また別の「違う」ものが、
「は」という助詞を使って、
並列な感じであるところ。
そこがなんか惜しいなって気がしました。
桔梗さんの
つかの間の休日に炊く黒豆にわづかばかりの皺をゆるしぬ
黒豆を炊くって、
なかなか大変なことっぽい感じがしますが、
それを
「わづかばかりの皺をゆるしぬ」
って、
おおーすごい、
普段から豆を炊いてらっしゃる方ならではじゃないかなって思いました。
わたしは黒豆を炊いたことがないので、
イメージだけなんですが、
時間をかけてゆったりと取り組む料理な気がして、
休日の豊かな時間の使い方だなって思いました。
「束の間」が、それを少し急かしてるかもですが。
404notF0816さんの
漆黒の椀に浮かべた柚子の皮 こんなちいさな欠片が香って
お正月の間、なんどか目にして、
その香りを楽しませてもらいました。
下の句はいわずもがなかな、
と思わないでもないけど、
それでもそれを言いたかった作者の心情はなんだろう
って考えて、
「こんなちいさな欠片」が、こんなに香ることへの
驚き?喜び?
喜びの方なのかもって思います。
刻んだ柚子が香ることは
当り前の話ではあるけど、
「こんなちいさな欠片」でも
こんなに香るということ、
それを改めて感じて
お正月からなにか背筋の伸びるような気持がしたのかな
って思います。

うたの日(1月13日)


うたの日

1月13日のお題は「泡」「ポスト」。

こんなにも世界は狭いと知らされる開いた傘がポストに触れて(しま・しましま)
雨の日に、自分のさしてる傘が何かに当って
がつってなると、
なんだかいやな気持がします。

この日いいなと思ったのは
森下裕隆さんの
四人ともオレがゆうしゃというつもり《アワダチソウの森の冒険》
ちょっと鼻がむずむずするけど、
想像すればするほど可愛い冒険者、いや「ゆうしゃ」たち。
誰だって自分が主役で、
主役は「ゆうしゃ」ですもんね。
お互いに口に出しては言わないところもいい感じ。
小学生の背丈を遥かに越える背高泡立草を掻き分けて、
四人の冒険が進むんですね。
映画「スタンド・バイ・ミー」も四人でしたね。
映画ではゴーディが主人公でしたが、
親友のクリスももちろんそうだし、
メガネのテディも太っちょのバーンも、
きっとみんな自分が主役の冒険をしてたんですよね。
てなことまで考えて、
楽しいうただなって思いました。
須磨蛍さんの
集配のバイクが去って急速に冷え切っていく川辺のポスト
情景がわっと浮かんできました。
もともと、このポストの立地的に、
冷え冷えとしてるんだろうなって思います。
それでも何人かはこのポストを利用する人がいて、
ポストの中はなんとなくあったかかった。
紙ってあたたかいですよね。
それが差出人の気持のこもった手紙なら、
なおさらあったかかったんじゃないかと思います。
そこに、「集配のバイク」にのった人がきて、
中身を全部回収して「去って」しまう。
その、あたたかい中身がなくなってしまったこともそうですが、
誰かが来て、また去っていく、
その後の寒さって
よりひしひしと感じられるんじゃないかなって思います。
そのポストを、
「急速に冷え切っていく」と、
きちんと「モノ」として捉えながら
ポストに寄せる気持が感じられて、
とても好きなうたでした。

北大路京介さんの
泡になる人魚を深く吸い込んで永遠を手に入れてしまった
「泡」のうたでハートを迷ったものでした。
すっごく素敵。
「人魚姫」と「八百比丘尼」を連想させて
ホント美しい上に、
「永遠を手に入れてしまった」
という下の句に、
そんなもの欲しくなかったという悔恨の念が
ひしっと感じられます。
「泡になる人魚」ということは、
まだ「泡」になってないけど、
多分すぐに「泡」になってしまうような、
そんなギリギリの状態なのかな。
もしかして、
泡と消えてしまう直前の人魚とキスをした人なのかも
とか勝手に想像して、
ああーってなりました。
そして、人魚は消え、「永遠」だけが残ってしまう。
そう考えるともう切なすぎる。
加賀田優子さんの
ポストから泡がでていておばあさん以外はみんなためらっている
どんな背景があってどんな泡が出てるのか、
それは全然わからないけど、
とにかく
「ポストから泡がでていて」
「おばあさん以外はみんなためらっている」
という景だけを切り取った作品。
ためらってるみんなは、
ポストに手紙を入れることをためらってるのか
ただポストに近づくことをためらっているのか、
とにかく遠巻きにしているところを、
おばあさんだけが平気でポストに手紙を差し込んでるところを
想像するとなんだかシュールで面白いです。
豪胆なおばあさん
のようでいて、
もしかしたら単純に危機意識がとても低いだけかも。
いろんな背景が考えられて、
登場人物にもそれぞれ何か思うところがあったりするのかも知れないけど、
そのあたりを全部削って瞬間だけを切り取った
モノクロの一枚の写真みたいで
面白いなって思いました。
こわくないもりさんの
泡のない元サイダーの砂糖水そんなあまさの僕達がいた
このうたを読んで、
うーん、あまいな
ってまず思いました。
下の句の
「そんなあまさの僕達がいた」の、
「僕達がいた」って、
なにかとてもあまい感傷のかたまりみたいだなって思いました。
でも、そのあまさが、
「泡のない元サイダーの砂糖水」
という、情けない感じのものなのが
わたし的にはツボでした。
「炭酸のぬけた」とか「ぬるいコーラ」とかだと
ちょっと出せない抜け感あるなって思いました。
外川菊絵さんの
ポストまで季節外れのタンポポを摘みに戻ったウサギのために
かわいいな、
そしてやさしいなって思って
ふわっと温かみが感じられました。
ここ数日は寒いですが、それまでは割と暖かい日が続いてて
タンポポの返り花も時折見かける感じでしたね。
そんなあたたかい冬の日に、
どこか所用でお出かけしての帰り道でしょうか。
ポストを行き過ぎてから、
あっさっきの黄色はたんぽぽ?
って思って、
飼っているウサギのためにわざわざそれを「摘みに戻った」
ってホントやさしい。
きっと、そのウサギの好物なんでしょうね。
だから普段無意識に何かお土産がないか探してるのかも。
そういう視線が感じられて好きなうたです。
借みねさんの
ちょっと、ここ寄ってくみたいな顔をする風呂屋の前に置かれしポスト
思わず、「いいね」って言いたくなる
そんな妙なフレンドリーさがいいなぁ。
「ちょっと、ここ寄ってく」
気さくすぎる。
「ここ」が「風呂屋」っていうのも、
なんだか人懐っこさの所以みたいで、
楽しいうたって思いました。
前を通るたびに、そうやって誘われてるような気がして、
風呂屋に寄ってみたくなるんだろうな。
「置かれし」と、ここだけ文語になっているのが
ちょっと気になりました。

うたの日(1月12日)


うたの日

1月12日のお題は「肌」「寿司」

手の中で温めすぎてだめにした人肌なんかじゃ何も孵らない(しま・しましま)
「肌」にひっぱられちゃった感じで、
下の句がぐだぐだしてますね。
もしこれに手を入れるとしたら、
下の句を全部削って大幅な飛躍した方が楽しそう
と、二日後になって思いました。

この日いいなと思った歌。
木原ねこさんの
実を拾い葉を眺め木の肌に触れ息子はようやくシラカシと言う
この歌を見た途端、
これはきっと木原さんちのご長男の姿なんだろうなって
確信がありましたが、
やっぱりそうだったみたい。
なかなか素敵に学者肌の少年ですよね。
まず木のそばに落ちている「実を拾い」
多分ここで、
その実が何なのかある程度絞られてるはずなんだけど、
次に「葉を眺め」
そして「木の肌に触れ」て、
ようやく
「シラカシ」の木であり「シラカシ」の葉であり
「シラカシ」の実であると口にする。
この重々しさがいいなって思います。
いかにも好きなものへのこだわりがあって、
絶対に軽んじてはいけないものって感じがします。
で、ね。
この「息子」さんの行動自体もいいなって思うけど、
それをつぶさに見ている母の視線が
ホントすてきだなって思うんですよ。
少年が「シラカシ」を丁寧に見ているその間、
母はそんな「息子」を丁寧に見て、
それを一歩引いたところから描写してる。
という気がします。
この一歩だけ引いた距離感がいいな。

文屋亮さんの
肌に出る性質(たち)の子である食のこと心のことが紅く浮き出る
こちらの歌も、
(多分)自分のお子さんを詠まれたものと思います。
「肌に出る性質の子である」
と、少し離れたところからの分析から詠み出されて、
「食のこと心のことが紅く浮き出る」
で、出来るだけその子に心を添わせようとしている
という感じがします。
うちの次女もアトピー体質でストレスが体に現れやすいので
共感するものがありました。
出来るだけ肌に負担のかからない食生活を心がけても、
どこかで心を痛めて肌を荒らしてしまう子。
「紅く浮き出る」という結句に、
子の肌の状態と同時に、
親の心の状態がそうであるような
そんなイメージが浮かびます。
加賀田優子さんの
ここのとこ、ああ、コーラスが噛んだあと、こーらす、コーラスはむかしの犬、
今はもういない犬への思いが切ない歌。
犬の名前が三度出てきますが、
それぞれ違うニュアンスがあって
そこが切ないなって思いました。
最初の「コーラス」は、呼びなれた名前として
真ん中の「こーらす」で
その語感を改めて確認するように、
最後の「コーラス」は、
かつてそう呼んでいた名前として。
最後の読点に、
もっともっと「コーラス」について語れるところを
あえてここで終わらせたような感じがして、
うーん、切ないなって思いました。
遠井海さんの
肌色はうすだいだいに名が変わりうすだいだいで顔を塗る子ら
かつて「はだいろ」でお馴染みだった色の名前が、
この色を肌の色だと決め付けるのは
人種に関する意識から問題だってなって、
「ペールオレンジ」「うすだいだい」
と言い換えられるようになりましたね。
アメリカでも、白人の肌の色に近い色につけられた名前が
その関係で言い換えられたとか。
この歌は、
そうやって名称が変わった後の、
子供の様子を淡々と提示しているようで、
なにかうっすらとした皮肉が感じられるような気がします。
名前がかわったからって
用途は変わらないんだよっていう。
でも、それがあんまり露わにされてなくて、
「うすだいだい」という雅な言葉が二度も出てくることで、
なにかほんわりと品の良さがあるのも、
なんとなくいいなって思いました。

うたの日(1月9日10日)


うたの日

1月9日のお題は「弓」「コタツ」。

おぼえられない変な名前の流星群わたしは炬燵で膝を焼かれる(しま・しましま)

しぶんぎ座流星群って、「四分儀座」だったんですね。
耳慣れない名前だなぁって思ってました。

この日いいなと思ったのは、
うしたべーたさんの
ベルリンの壁 じいちゃんの死 それから炬燵のなかでした地獄ごっこ
過去の、ある年の思い出を並べたのかなって思います。
「ベルリンの壁」
崩壊の年なのか、
あるいはたまたま何かでテレビ画面に映っていて、
強烈に記憶に残っているのかも。
「じいちゃんの死」
祖父が亡くなったことと、
その前後の色々と家庭がざわざわしていたこと、
主体とじいちゃんの個人的な思い出、
全部ひっくるめての「じいちゃんの死」なんでしょうね。
「それから炬燵のなかでした地獄ごっこ」
「ベルリン」「じいちゃん」で、
それは多分過去のことなんだろうなと思わせられますが、
下の句で、それが幼い頃のことなんだと分かります。
こたつの中の赤暗い光や熱が、
「地獄」を連想させて、
そういう遊びあったかも…って思います。
「地獄ごっこ」という直接的なネーミングも、
いかにも子供が名付けたオリジナルな遊びっぽくていいなと思います。
「ベルリンの壁」「死」「地獄」
イメージ的には暗いフレーズが並んで、
ちょっと心がざわっとさせられますが、
なんとなく甘い懐かしさが感じられて
そこも好きだなぁって思いました。

西村湯呑さんの
伝説のみかんデリアを作るとはおぬしもこたつ上級者だな
楽しい歌でいいですね。
「みかんデリア」が、これを選しているときは
全然分からなくて、
みかんで作る何かだろうな
みかんでテリアの形を作るのかな、
みかんの房をシャンデリアみたいにするのかな
って思ったんですが、
あとで調べたら、
後者の方だったみたい。
とにかく「伝説の」という
ちょっと大仰な感じの言葉が面白くて、
「こたつ上級者」認定されるのに
ぴったりな感じがしました。
心伝さんの
脚相撲コタツの下で白熱す只今姉が土俵際です
これもたのしいコタツの歌。
「脚相撲」っていうと、
向かい合って脛を合わせて
腕相撲の脚バージョン
みたいなのを連想したんですが、
もしかしたら
コタツの中の陣地争い的なものなのかも。
姉と弟の戦いで、
「只今姉が土俵際です」
という現在情報が楽しいですね。


1月10日のお題は「活字」「円」

質の悪しき紙に活字の黒々と戦後三年三鬼の俳句(しま・しましま)

たまたま、わたしの手元に
昭和二十三年発行の「現代俳句」という雑誌があるんですが、
ああ、これは本当に「戦後」なんだな
って実感させられるほど、紙の質が悪いんですよね。
もうね、ざっらざらのわらばんし。
この雑誌に西東三鬼の俳句が掲載されてるんですが、
戦争が終わるまでの五年間、俳句を詠まなかった彼の、
ほとばしるような俳句への情熱が感じられるなって気がします。
ちなみにこの雑誌の編集人は「石田哲大」とあります。
石田波郷の本名です。
編集後記に
「日本はすべてを失つた。しかし、美しい國土は残つてゐる。そのすぐれた風景美の全貌をきわめることは不可能にしても、この國土に生をうけた以上、片鱗だけでも窺つて死にたい」
とありますが、波郷の言葉なのかな。
じんときます。

この日いいなと思ったのは
吉川みほさんの
活版の文字の微かなおうとつに触れつつ歌集のページをめくる
ホントいいなと思います。
古い時代の歌集をひもといて、
目でだけじゃなくて、
指でその歌や時代を味わわれているんでしょうか。
「おうとつ」のひらがな表記のやさしさもいいな。
そのでこぼこさの大小は
本によるところもあると思うんですが、
明らかに「おうとつ」があるんですよね。
その歌集そのものへもそうですが、
紙媒体の「本」という存在への思いいれが
ふわっと漂ってくるようですてきな歌でした。
指でなぞり読む
という歌への愛情も聞かれますよね。

たかはしみさおさんの
質感と活字を棄てた 過去はもう色褪せることを思い出せない
吉川さんの歌と
なんとなく対になるような、
絶対対にならないような、
そんな歌。
こちらは、活版印刷どころか、
印刷そのものを捨てたデジタル出版の世界。
紙がやけることも、印刷が薄れることもない
きれいで便利なデジタルの「本」。
それはそれでいいんだけど、
「質感と活字」それと「過去が色褪せること」を捨てた世界って
淋しいですね。
結句の
「思い出せない」がその悲しさを表わしているようです。
村田馨さんの
去年まで見えた活字がかすみたり老いはたしかに目の前にある
おもわずふふっと笑ってしまって、
それから、
自分自身をかえりみて、
なんとなくわびしくなっちゃう歌でした。
「去年まで見えた」が面白いなぁ。
1月10日にわたしはこれを読んでるわけですから、
詠まれたのもそうかなって思って、
「去年」ってつい十日ほど前ですやん
って思うんですけど、
たしかに、
たしかにちょっと前まで見えたものが
今日はもうかすんで見えたりしそう。
「活字」も「老い」も
たしかに「目の前」なのが
面白くて侘しい歌でした。

うたの日(1月8日)


うたの日

1月8日のお題は「焼」「最初で最後」

ゴムの焼けた匂いがするの一言にもろくもほつれてしまう団欒
子供の頃に掘りごたつを経験したせいか、
ファンヒーターではなくて灯油ストーブを使用してるせいか、
ゴムの焼けた匂いには敏感な方かも。
さすがにガスコンロでゴムは焼きませんね。

この日いいなと思った歌。
中牧正太さんの
焼け焦げて浜辺に着いた棒っきれ少しゆっくりしてったらいい
「焼け焦げ」が分かる状態で流れついた流木って、
あまり見かけないんですが、
何か話せば長い過去を持った流木ぽいですね。
でも、その辺りのことは詮索せずに、
「少しゆっくりしてったらいい」
という主体。
やさしいなぁって思います。
流木を「棒っきれ」っていうところの
ちょっとラフな感じもいいな。
ところで、
また!
また中牧さんの歌を採ってしまいました。
結果が発表されて、
あっまた中牧さんのだった
ギギギ……
って感じですよ。
どんだけ中牧さんファンなんだ。わたしは。
琥珀さんの
合併が決まった町の名を書いた最初で最後の転出届け
「合併が決まった町」は、
それだけで何か思いが感じられますね。
きっと名前が変わってしまう方の町なんでしょうね。
生まれ育った、子供の頃から親しんでいた町名を
最後に「転出届」という形で書くことになった。
っていう歌だと思われます。
まだ合併自体は先の話なのかも知れないけど、
こうやって書く事はもうないんだなぁって
しんみりしますね。
わたしはこの「転出届」を
結婚のために出したものかなって思いました。
もう、この町名とも、旧姓ともお別れ、
もしかしたら「転出届」を出すこと自体が
「最初で最後」なのかも。

西村曜さんの
ていねいに薄焼きたまごを折りたたむこれで涙は拭かないけれど
読んですぐ、
あっ、これは何かを思い出す……
と思ったけど、
ホットケーキ持たせて夫送りだすホットケーキは涙が拭ける(雪舟えま)
でしたね。
偶々似てしまったのか、
先行歌のオマージュなのか
その辺りが分からなかったんですが、
「ていねいに薄焼きたまごを折りたたむ」
のていねいな感じがいいなって思いました。
錦糸卵を作るための薄焼きたまごなのかな。
いかにも涙を拭けそうなぐらいきれいに焼けた薄焼きたまごを
涙は拭かずに細く切っちゃうのかな。
ちなみに、結果発表後の作者の西村さんによると
先行歌の本歌取りだったみたいです。
クララ・ゼーゼマンさんの
いさかひは季節を問はぬものでありふくれつつらで餅を焼きをり
夫婦喧嘩か、家族のちょっとした諍いでしょうか。
年中行事みたいなものだけど、
この季節ならではの、ちょっとしたユーモアがいいな。
「ふくれつつら」なのは奥さんなのかな。
表現に愛情がありますよね。
微笑ましい歌と思いました。
荻森美帆さんの
部屋にいて焼けたにおいがするときに確かめるキッチン異常なし
ふいに、なにか、モノが焼ける匂いのような
熱っぽい匂いのようなものを感じることってありますよね。
それを「部屋」で嗅いで、
「キッチン」を確かめるっていう、
その距離感が、
家族のある人っぽいなあって思います。
終栗夢さんの
五年ほど経ってもう会うことはないかもしれないと思い始める
いいなぁ。
「五年ほど」という具体的な数字がいいなぁって思います。
「もう会うことはない」「かもしれない」と思うのに、
「五年」は、なんとなく説得力があります。
しかし、お題の「最初で最後」は、どこに隠れているんだろう。
「五年ほど」会わなかった人と、会ったのが、
今思うと「最初で最後」だったってことでしょうか。
わたしは、一度だけ手紙(あるいは年賀状)を交わした人かな
って思いました。
次の年にはもうそれも来なくて、
自分も出さなくて
っていう年賀状付き合いの終わりフラグを経て、
もう五年。
五年前の手紙(あるいは年賀状)には、
「今度会えるといいね」
とか書いてあったけど、
これはもう会うこともないな
って思って、
古い手紙を処分するところなのかなぁって思いました。
真篠未成さんの
はじめての、さいごの、オムレツだと知っていたからゆっくり、ゆっくり食べた
どういう状況なのかは、
この歌の中で一切明かされていないけど、
とにかく
「最初で最後」のオムレツで、
主体はそのことをすでに分かっている
っていうのが切ないですね。
ひらがなを多用して、
その動作のゆっくりさ、心の痛みを表現されているところも
素敵だなって思いました。
「オムレツ」っていうのが、またいいですよね。
あんまり「ゆっくり、ゆっくり」食べるのにはむかない、
ふわふわでやさしいオムレツを、
しっかり「ゆっくり」を意識して食べるというのが
「最初で最後」を「知っていた」からこその
感じを増幅させてるように思いました。

うたの日(1月7日)


うたの日

この日のお題は「UFO」「広」。

はやばやと交換される灰皿にちっぽけな火種よるのひろしま(しま・しましま)

「UFO」で
口を開くまでは普通に牛だったUFO帰りのホルスタインも
というのを詠んでみたんですが、
あまりにもいろいろとセルフパロディ気味だったので
「広」の方で出しました。

この日ツイッターで遊んでいたら、
2016年は「ぶりっこ路線」で行け!
というとんでもない示唆があって、
その時にはもう「広」で投稿した後だったんですが、
「UFO」でぶりっこ路線……
人工衛星見えたらいいな君のシャツひいてUFOじゃない?って言う
というのを思いついてツイートしたんですが、
その直後、ひるの日の「UFO」でどなたかが
「人工衛星」で詠んでらっしゃるのを発見して、
あっ、選の邪魔になるかも…と思って
ツイートを消してしまいました。
しかし、ぶりっこ路線短歌は難しいぞ。
これから、ちょいちょいその路線で遊んでみようかと思うけど、
うーん、
これはもう自分自身と乖離したキャラクターを生み出すところから
スタートしないといけない予感。
(そこまでするのか)

この日いいなと思った歌。
真篠未成さんの
連れ出してもらえる夜を待っているUFOキャッチャーに転がる地球
UFOキャッチャーに、
地球のぬいぐるみ(?)が景品として入っている、
という状況を想像して
なんかいいなって思いました。
ぎっちり小さい景品が敷き詰められてるやつじゃなくて、
一つだけ、さみしげにころんとUFOキャッチャーの機械の中に
取り残されてるみたいな感じ。
球体のぬいぐるみだったら、
やっぱり取るのが難しいのかな。
だから残っちゃうのかな。
ほんのり人恋しくていいなぁって思いました。
亜梨さんの
きみの手の冷たさがわれに染みわたり火照るおでこが広くてよかった
わたしもそうとうでこっぱち気味の広いおでこなんですが、
いいなぁ
「おでこが広くてよかった」
って思えるシチュエーション。
うらやましー。ギギギ。
いや、悔しがってませんよ。
熱っぽいときに、冷たい手ってホントに気持がいいですよね。
それは分かります。うん。
そのひんやりした気持ちよさをもたらしてくれるのが、
好きな人からの優しさだったらもう最高ですね。
おでこ全体で幸せを感じちゃいますね。
うたの日の他の方の評にあるように、
「われ」はなくても良かったかも。
せっかくの「火照るおでこ」の前に、
「われ」が来ちゃうことで、
ちょっと「おでこ」の印象が薄くなるかも
と思いました。
でも、ホントすてき。
可愛くてうれしくて、意外性がたのしい歌でした。

なかばまち子さんの
ミキちゃんのヘンテコなクマが変わってる新しい彼が取ったのだろう
いいですね。いじわるですね。
ライトな毒が感じられます。
ミキちゃんは、多分、かばんに「ヘンテコなクマ」のマスコットを
いつもぶら下げてる子で、
そして、しょっちゅう彼が変るタイプの子なんでしょうね。
「ヘンテコなクマ」がいいよね。
いかにもUFOキャッチャーで取るぐらいしか入手方法がないんじゃないか
っていう、小ダサいやつなんでしょうね。
随所に主体の「ミキちゃん」に対する、
親しさに溢れつつもシニカルな視線が溢れてて、
あー、この歌好きだ!って思いました。
文佳さんの
あのへんの緑の光が宇宙船 青をあなたの星だと思う
夜空を眺めながら、
違う色のふたつの光に役柄を与えて、
なんとなく「あなた」の事を考えてるのかな
って思いました。
「あなた」って二人称になってるけど、
多分その場には主体しかいないんじゃないかな。
で、「あなた」は恋人で、
ちょっとつかみどころがない人だから、
もしかして宇宙人かもって思ってるのかな
って思いましたが、どうなんでしょう。
「あのへんの」という
ちょっと適当な感じの場所の指定が、
あんまり重たくない雰囲気がします。
天坂さんの
わたしたちひろがってしまいましたねだからこんなにうすいのですね
何が「ひろがって」「うす」くなってしまったんでしょうか。
分からないんだけど、
向うが透けて見えてしまいそうなぐらい薄くなって、
静かなさみしさと不安定な所在が感じられて
あー、なんか好きだなって思いました。
あんまり薄くなりすぎて、
感情までもうすくなってしまった悲しみみたいな感じがします。
犬飼あきさんの
あの頃はすごく広いと思ってた家族みんなで行くヨーカドー
「あの頃」が、ぱっと具体的に浮かんで来るような
ほのぼのといい歌だなぁって思いました。
「家族みんなで行くヨーカドー」
いいですよね。
なんて幸せな「あの頃」だろう。
ぐるっとあちこち見て回って、
コインゲームしたりして、
最後にお母さんが食料品買って帰るのかな。
今は家族単位で大型スーパーに行くとしても
どうしてもお母さん目線になっちゃう上に、
もっとアミューズメントに特化した場所が
沢山あるから、
あの頃の「ヨーカドー」のわくわく感は
もう味わえないかもしれないけど、
今でも幸せな思い出なんだと思います。
と、
ヨーカドーのない地域に住んでるわたしが言うのもなんですが。
椋鳥さんの
広くない世界に生きて公園のベンチはいつも同じ冷たさ
毎日毎日似たような行動を繰り返してて
自分を取り巻く世界の狭さをふっと感じる
ってことありますね。
この公園のベンチも、
いつも冷たい。多分だいたい「同じ冷たさ」。
でもやっぱりこのベンチに触れちゃうし、
「いつも同じ」であることに、
ちょっとだけ安心してる自分がいる、
ような気がします。

うたの日(1月6日)


うたの日

1月6日のお題は「腕」「音」。

電車が通り過ぎた後の線路は熱いのかしら 耳を澄ませる(しま・しましま)

全部の感想を書いた後なんですが、
なんか今日はいつにも増して、
自分でもまとまらない文章になってしまったことを
先にお詫びしておきます。

この日いいなと思った歌は
吉川みほさんの
星空にふれて鳥肌たてている屋上に立つ少年の腕
「星空にふれて鳥肌たてている」
からの
「屋上に立つ少年」「の腕」
の流れがすごく好きです。
「星空」の映像から「屋上」にいるんだと分かるまでに、
ぐるっと夜空がパノラマ状に広がって、
ちょっとねじれて
屋上に視点が着地するような感じがします。
で、
その屋上に一人の少年が軽装で立ってて、
そこからその腕にズームされる。
もうその映像が素敵だなって思いました。
この「少年の腕」に「鳥肌」がたっているのは
どうしてなんだろう。
まあ、実はうたの日のコメント欄の方で、
作者の吉川さんから教えてもらっちゃったんですが、
昨夜のわたしの思ったことを書きますね。
圧倒的な星空と一人で対峙することによる
高揚感によるものなのか、
夜の屋上に立っていること
(気温とか風とか、あるいは孤独感からとか)
によるものなのか、
もっと心理的なもので、
例えば何か強い決意を持って屋上に立ったけど、
どうしても肌が粟立つような気持で立ちすくんでいるところ
とか、
色々考えちゃいました。
でね、
このうたは「少年の腕」を見てるわけなんですが、
その視線の主は誰なんだろうって思うわけですよ。
一緒に屋上に居るんだろうか、
そしたら、とりあえず、
わたしの考えた最後のパターンは無いだろうな。
もしかしたら
少年は作者自身が自分を客観的に見ているところなのかも。
とか、
色々と考えられて、そういうところも好きだなぁって思いました。
犬飼あきさんの
お隣にテレビの音が響くからボリュームを下げて、下げて、下げて
下の句の「下げて、下げて、下げて」の繰り返し方が、
神経質で、何か切迫したものを感じます。
何度かお隣さんに、うるさいって言われたのかな。
それで神経過敏になってるのかなって思いました。
この「下げて」って言葉は、誰か家族に言っている言葉ではなくて、
そういう気持に押しつぶされそうな人の
心の叫びみたいに感じました。
もしかしたら、お隣との関係は本当はそこまで重たくなくて、
何か別にストレスがかかることがあって、
ちょっとの事でも重大に考えてしまうような気持なのかなとか
そういう切羽詰り方の人みたいで
怖いし、何か身につまされるような気持がして、
素通りできない歌でした。

きつねさんの
どうであれ僕は花束抱えたい両腕に持ちきれないほどに
ええと、まず何から書いたらいいのかな。
この「うたの日」というネット歌会のシステムでは、
選者一人につき、一つの特選(ハート)が選べます。
そのハートの数が一番多かった人は、
その日の「花束」がもらえるわけです。
で、この日の前夜、ツイッター上で、
「うたの日の成績そのものは気にならない」「気になる」的な話題があって、
「正直、花束は欲しいよ」
みたいな流れがありました。
で、昨日の今日なので、
この歌も、その「花束抱えたい」という
そういう意見表明かなとも思えて、
それはそれで清々しいなぁと思いましたが、
考えてみれば、「花束」を「抱え」るという状況は、
色々と考えられますよね。
貰った時も抱えるけど、渡す時も抱えてるわけで、
だいたい「どうであれ」ってあるんで、
それはどっちでもいいのかもとか思います。
祝われたい/祝いたい
そのために「両手に持ちきれないほど」「花束抱えたい」。
まあ、祝われたいが本音かと思うけど、
飾らないストレートな言葉がいいなと思いました。
森下裕隆さんの
非常ベル誤報ののちの夕暮れに曖昧な笑み交わす僕らは
非常ベルの鋭い音が鳴り響いて、
あわててみんなで席を立ってると、
そのうちそれが誤報だったと知らされたときの、
なんとなく妙な空気のままで席に着いた感じ、
あー、わかるなぁって感じでした。
この歌、「僕らは」ってあるけど、
この雰囲気は子供ではないんじゃないかな、
っていうか、
会社でのまあまあいい年の大人の男性陣ではないかな
って思います。
「曖昧に笑み交わす」って、
何かあったあとの、「ごにょごにょごにょ」感というか、
なしくずし演出っぽくて
いかにも大人の所作って気がします。
非常ベルが鳴った後しばらくのドサクサの
多分子供っぽい感じから、
それが誤報だとわかってほっとした後、
いい大人が子供っぽいことをしたような気持になって、
それをごまかすように
「曖昧な笑み交わす」んだけど、
主体的にはその行為の大人っぽさに、
ちょっとテレが生まれて、
それであえて「僕ら」ってやや子供っぽく表現したのかなぁ。
考えすぎ?
でも、こういう機微が大好きなんです。
伊藤 紺さんの
ガチャンッ ガチャンッ 君がEnter押す時の 呪いの踊りみたいなポーズ
思わず笑ってしまいました。
いるいる、そんな感じにエンターキー押す人。
「ガチャンッ ガチャンッ 」で始まる破天荒な感じも
なんかすごく面白かったですね。
デスクトップ用の、ちょっと古いタイプのキーボード、
キーのでっぱりが1センチぐらいありそうな、ふがふがするやつ。
あれを打ってる感じがします。
楽しい歌でした。
スコヲプさんの
控え目に警告音を二度鳴らす困るわたしに気づいてほしい
実は、この歌を選んだとき、
自転車とか自動車に乗ってるところとは
全然思ってなかったんですよね。
普段の生活の中で、
自分の中で踏み込んで欲しくないところ、
してほしくないことについて、
「控え目に警告音」を鳴らして、
相手にわかってほしいと思ってる人。
そういう情景を想像してました。
で、
うたの日で
「主体はきっとやさしい人なんだろうなって思います」
ってコメントになったわけです。
そうか乗り物の場合もあったなぁって
他の方のコメントを見て唸ってます。
矢波多恵さんの
「ほらできた」「温まったよ」「冷めるよ」に「はいはいはーい」と応えてひとり
わかります、わかります。
電子レンジですね、わかります。
と、めっちゃ分かっちゃう歌でした。
何が分かるかというと、
「ほらできた」からの「温まったよ」「冷めるよ」の三段階の、
「冷めるよ」のところ。
しょっちゅう電子レンジに放置して、
「冷めるよ!」「冷めるってば!」って急かされるように
音を鳴らされてしまうんですよ。
この歌では「はいはいはーい」と素直な主体が描かれてますが、
わたしなんて
「ちっうっせーな」で、
一度ドアを開けて、取り出さずにバタン
みたいなことがよくあるパターンです。
電子レンジの機械音を、人間の言葉に直してあるところに、
なんとなく侘しさというか、うっすらさみしい感じが漂って、
そこに素直な「はいはいはーい」の返事がくることで、
面白いけど、じわっと一人暮らしの寂しさが透けてるようで、
なんだかたまらないなぁとか思ったりしました。

うたの日(1月5日)


うたの日

1月5日のお題は「準」「すみません」でした。

篝火に寄りて戻りし子どもらのもう火の玉に準ずる何か(しま・しましま)
この日は、
あっ、「すみません」で作れそう!
って思って詠んでみたんだけど、
出来上がったら急に自信がなくなっちゃって、
あわてて「準」で作ろうとしたけど、
初案がまとまらなくて、
ホントぎりぎりに出来た歌でした。
だから、今見返すと、
ぽつぽつ気になる点があって、
これは一度解体して詠み直した方がよさそう。
ちなみに、
きみのスナフキンで涙を拭きました。すみません、鼻もかみました。
というのが、「すみません」の方で、
「準」の初案が
準備中の札のうしろが営業中と書いてあるとは限らない
でした。

この日いいなと思った歌。
那須ジョンさんの
サンハイツ交流規準第2条BBQへの積極参加
うーん、このマンション(?)はヤバい。
と、
一目見て思いました。
なんというか、
アットホームで楽しい職場です!
というブラック企業の求人募集のマンション版みたい。
「交流規準」が明文化されてるところも、
「第2条」にもうこんな文言があるところも、
うわー、絶対無理!
って思っちゃいますね。
しかも、
「BBQ」というところが、
好きな人にはたまらないイベントっぽいけど、
苦手な人には違う意味でたまらないイベントで、
めっちゃツボでした。
さらに、「積極参加」がヤバい。
強制参加と言わずに強制されてる感があります。
なんて怖い歌なんだ!
と、自分のマンションの新しい規約でもないのに
めっちゃ震えてしまいました。
コミュ障気味の現場からは以上です。
藤田美香さんの
すみません昨日たすけていただいた私を誰かご存知ですか
なんか、今日は「ヤバい」連発で申し訳ないんですが、
(順番的には二番目になってますが、最後にこれを書いてます)
この歌も、
わたし的にめっちゃヤバいってなった歌でした。
「昨日たすけていただいた○○です」
って、すこし前ツイッターで流行った改変フレーズで、
まあ、元々は昔話のフレーズですよね。
それを持って来て、
いや、お前自身知らんのかいっ
って突っ込みたくなるようなユーモア
……
に見せかけて、
めっちゃ孤独で人恋しくて、
誰かに認識してほしい人の歌やーー!
っていうヤバさ。
わたしの好きな歌にECHOESの「ALONE」という曲があるんですが、
その中に
「誰か俺の名前を覚えているかい
あまり目立つことのない 小さな俺のこと

厚い電話帳で君を探した
昔 一度だけ 話したこと覚えているかい」
っていうのがあって、
なんかそれを強烈に思い出しました。

萩野聡さんの
ほほえんで出掛ける準備をする母のどこからゆっくり落ちる糸くず
うたの日の評を二人の方が書いてらっしゃって、
対極的な読み方だったのが
ちょっと面白かったですね。
視線の主である子の年齢的なものを
どのぐらいに想定して読むかが関係するんでしょうね。
わたしはどっちとして読んだのかなぁ
(自分でも自信ない)
外出の準備をしている母親を凝視する目が
とても印象的だなぁって思って
いいなって思ったんですが。
うーん、どうなのかな。
どちらかと言えば子供の目として読んだのかな。
こんなに凝視しているのに、
糸くずがどこから出たものかは分からないとか、
最終的に母親の姿ではなくて
「ゆっくり落ちる糸くず」に
視点が移っているところとか、
なんとなく、うっすらと不安な感じがしました。
薄荷。さんの
温かいコーヒーと毛布もあるし宇宙旅行は準備万端
「温かいコーヒーと毛布」
という、
馬の背に荷物を積んで旅をしていた頃からある
暖を取る手段と、
「宇宙旅行」という未来感のミスマッチが
面白いなって思いました。
何か宇宙もののSF小説を読むための準備とか
そういう感じかなぁ
って思いましたがどうなんでしょうね。
子供の頃、「若草物語」のジョーとか、
「はてしない物語」のバスチアンとかが
食べ物を片手に本を読んでるのに憧れて
読書環境を整えてから本を読んだりしてたことを
ふっと思い出したりしました。
「宇宙旅行は準備万端」
の音の弾み方も好きです。
はだしさんの
自販機に謝っているひとのいる夜だわたしの散歩はつづく
「すみません」のお題の歌。
猫みたいな「わたし」だなぁって思いました。
長い夜の散歩の中で、
さまざまな人や物の姿を、
視線の端で捕らえて、
でも、そのまま通り過ぎてしまう。
上の句の
「自販機に謝っているひと」
っていうのも、
どういう状況だろうかと思いながら、
酔っ払っているのかも知れないし、
なにかのっぴきならない事情があるのかも知れないなと
いろんな想像が出来るけど、
立ち止まって注目したりしないで、
「わたしの散歩はつづく」ところがいいな。
フジタレイさんの
工事中すみませんねと人形の代わりに謝るこの日のバイト
本来人間が謝るべきところを
代わりに人形があやまっているはずなのに、
さらにその「人形の代わり」になるというバイト。
ねじれ切ってて怖おもしろい歌でした。
「すみません」に「ね」がついて
「すみませんね」でちょっとぞんざいな言い方になってるところも
人間っぽくて、逆にぞわっとしますね。
「この日の」と、一日限定になってるところも
いろいろ深読みを誘ってて
うーん、ヤバい
って気がします。
何かの事情で「人形」の方に欠員が出来たんでしょうか。

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