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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(3月30日)


うたの日

3月30日のお題は「いくら」「回文」「ゆとり」でした。

まあなんてすてきなもようの木の実なのおたかいんでしょうおいくらかしら(しま・しましま)
「いくら」を「おいくら?」って考えた瞬間に、
「でも、お高いんでしょう?」という
テレビショッピングの定番のアレが浮かんできて、
もう、頭から離れなくなってしまいました。


この日いいなと思ったうた。
shumaさんの
軍艦は無惨なるかな口中に無数のイクラ潰しゐたれば
お寿司のいくら軍艦から、
「無惨なる」を引き出してこられたところが
うーん、凄いなと思いました。
そういわれれば、
たしかに口中はとんでもなく無惨な状況にあるんでしょうね。
わたしはあまり、
卵=命と繋いだうたは好みではないんですが、
卵=命と考えなくても、
いくらと酢飯が口の中で大変な事になってる、
とくに、真赤ないくらのことを考えると、
これはたしかに「無惨」だなぁ、と感じます。
「かな」の使い方も、「無惨なる」を
きっちり引き立ててて、上手いなって思います。
上の句を「軍艦は無惨なるかな」と二句で切って、
まず、おおっと目を留めさせて、
そこから、現在の自分の情況を持ってくるところ、
うーん、上手いなぁ
って思いました。
「軍艦」「無惨」という強いフレーズの上の句に、
下の句で、
軍艦は軍艦でもいくら軍艦の寿司なんだとわからせつつも、
「口中」「無数」「潰し」という
肌感覚でぞわっとする言葉を使うところとか
「ゐたれば」の、それがしばらくの時間経過も思わせてて、
ぞわぞわっとするうたでした。

月丘ナイルさんの
何度目の航海だろう軍艦のいくらはきゅうりの帆を張りてゆく
こちらもいくら軍艦のうたですが、
回転寿司のレーンの上を回るものを詠まれているのかな。
とにかく美しいですよね。
何度もレーンをぐるぐるしちゃうお寿司を、
なんて素敵に詠まれるんだろうって
嬉しくなりました。
マイナスイメージになりがちな、
というか、トホホなものを
美しく掬い上げる眼差しの優しさに惚れますね。
「何度目の航海だろう」
ホントすてきでした。
知己凛さんの
「ひのくるま!」わけもわからずいくらでも出てくる魔法と叫ぶ五歳児
これはもう初句の「ひのくるま!」と、
結句の「叫ぶ五歳児」だけで音符を入れたうた。
「いくらでも出てくる魔法」が、
なんとなくわかるようでわからないんですが、
とにかく、
「ひのくるま」という言葉の意味も知らずに、
何か必殺技の名前を叫ぶように口にする幼児
ってのがツボでした。
「五歳児」という年齢の指定もいいなぁ。
いかにも、ヒーローものに憧れて、
何か大声でいつも叫んでいそう。
わたしも子供が小さいときは
なんだかよくわからないままに
何度も退治されたこととか思い出しました。
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うたの日(3月29日)


うたの日

3月29日のお題は「分」「空気」「反」でした。

ふいに荒む空気を読んでいたように洗濯機が今脱水に移る(しま・しましま)
洗濯機が洗いから脱水に移るときって
ちょっと空気感を変えるなって。
終了してピーピー言われると、
荒んだ空気がさらに荒むような気がしますが。
ところで、この日は、
選をして、選んだものにコメントつけて……
ってしたつもりだったのに、
投票をきちんと終了してなかったという。
なので、
幻のハートと幻の音符をつけた歌について
鑑賞します。

この日いいなと思った歌。
月花さんの
三月は空気の抜けた自転車をこいで会社へ行く夢を見る
夢のうたなんですが、
「三月」「空気の抜けた自転車」「会社へ行く」が
効いてるなぁって思いました。
実際に見そうな夢でもありますね。
「空気の抜けた自転車」って、
ちょっと間が抜けてるけど、頼りなくて不安な感じ。
そんなもので「会社へ行く」って
そうとう頼りなくて辛い気がします。
しかもそれが、「夢」っていう、
更に頼りないつかみどころの無い感じ。
新年度直前の「三月」っていう月に、
そういう夢を見るって、
会社、ひいては社会への、
おそれみたいなものを主体は
意識下に持ってるのかもしれません。
「三月」「自転車こいで」の
シーンによっては、
明るく溌剌とした感じを、
逆にもってきたところも好きな感じでした。
ところで、
投票できなかったことは、もう書きましたが、
このうたにハートをちゃんと入れられていれば、
このうたも花束(いや、リニューアル後だから薔薇?)
を取れてたんですよね。
ホント申し訳ない気持でいっぱいです。

御殿山みなみさんの
風船に込めた空気は夜に溶け希望のかおり7回の裏
構成が面白いうたって思いました。
どういうシーンを詠んだうたなのかが、
結句で明かされて、
あー、なるほど!ってなるという。
プロ野球観戦なんですね。
わたしはほとんどプロ野球を見ませんが、
七回裏でジェット風船を一斉に飛ばすシーンは
けっこう印象が強くて、
「7回の裏」という結句で、
それがぱーっと脳裏に浮かんできました。
でも、ホント面白いですね。
「夜に溶け」ってフレーズ、
どうしても、静かな佇まいを想像してしまうんだけど、
描かれてるシーンは、
これでもかってほど賑やかで華やか。
考えてみれば、
「夜に溶け」、
ナイター戦なら、それこそ「夜」だろうし、
ジェット風船を飛ばすと、
風船の中の空気は、外の空気に「溶け」てしまう。
「夜に溶け」が静かな佇まいだって
誰が言った?
みたいに突っ込まれたような気がして、
あっと思わせられました。
前田沙耶子さんの
薄暗い廃材置き場に集まった悪い空気と悪い子供ら
このうたの雰囲気、大好きだなぁ。
物語のワンシーンを
ぐっと大づかみで描き出してあるみたい。
うたの日のコメントにも書いたんですが、
「パール街の少年たち」という
児童文学を思い出しました。
これは、
少年たちが一つの遊び場を巡って戦うという
そう表現してしまうと、
いかにも少年たちのかわいい抗争のようですが、
なんとも言えない苦い物語なんですよね。
このうたが、
その物語を想定して詠まれたわけではないんでしょうけど、
わーっと、
その物語が浮かんできてしまいます。

うたの日(3月28日)


うたの日

3月28日のお題は「競争」「噴水」「虫歯」でした。

いつからが春というなら噴水が今年最初の水を噴く日を(しま・しましま)
「いつからが春」と
「いつからを春」で少し悩んだんですが、
「が」の方にしてみました。

この日いいなと思った歌。
吉川みほさんの
噴水が止まるということ わたしたちに見えない水の話をさせる
わーすごく好き!って思いました。
詩的だなぁ。
詩的というよりも、本当に一行詩って感じがします。
「噴水が止まるということ」という上の句、
これはすでに水が止まった噴水ではなくて、
ある噴水が止まるという話を聞いた、みたいな、
まだ止まってはいないけど、
止まることが既に決まってしまった噴水のことかと思います。
「噴水が止まるということ」を知らないとき、
「わたしたち」は、見える水の話を、
その噴水の前でしていたと思うんです。
そして「噴水が止まるということ」を知ってしまうと、
「わたしたち」は、
その噴水の周りに集まって、
まだ、水が出てるんだけどその水の話じゃなくて、
「見えない水」、過去の水、未来の出なくなった水、
そこから広がって、さまざまな、
目の前の今噴水が噴き出している水じゃない水の話をする。
きっと、完全に噴水が止まってしまったあとも、
この「わたしたち」は、
集まって水の話をしているんじゃないか
そんな感じがします。
そういうことを考えると、
不思議に心がざわざわしてきます。

永昌さんの
噴水に投げ込む硬貨 人々は祈ったことをすぐに忘れる
トレビの泉……と思いましたが、
それに限定する必要はないんでしょうね。
とくに願いが叶うって伝説がなさそうな噴水や池でも
コイン沈んでるのを見かけますし。
ぱっと見、
そんな人々を批判的に見た歌のようですが、
上の句「投げ込む」とあるので、
多分主体もその「人々」の一人なんだと思います。
でも、
「祈ったことをすぐに忘れる」ぐらいが
いいんだろうなとか思うんですよ。
ある程度満ち足りた人な感じがするので。
毅尚あかりさんの
おろかさをかくさず生きた 噴水のしぶきに首すじぬらされながら
初句の「おろかさを」という、
ぱっと目を引く印象的なフレーズと、
下の句の「噴水のしぶきに首すじぬらされながら」の
シーンが目に浮かぶような感じが
すごく好きです。
例えば、
何かあるいは誰かを待っているシーン。
噴水の前の待ち合わせで、
ただひたすら愚直に「噴水前」で待っている。
背中や首筋に、
噴水のしぶきが掛かるようだったら、
ちょっと移動したりするもんだけど、
それもしないで、
ただそこに立って待っている。
そんな人を想像しました。
待ち人は来たんだろうかって思うんだけど、
「噴水のしぶき」に
どこか爽やかさがあって、
「おろかさ」が、そこまでネガティブではないのかな、
随分待ったことは待ったけど、
ちゃんと待ち人に会えたのかも
って思います。
「生きた」は、ちょっと強すぎる言葉かなぁって
思うんですが、
多分作者の言いたいところがそこにあるんだろうな
とか、思います。

うたの日(3月27日)


うたの日

3月27日のお題は「唐揚げ」「たこ焼き」「ゼリー」でした。

唐揚げの順番を待つ肉たちのいまだ無名という安らぎに(しま・しましま)
せきしろ×又吉直樹の『カキフライが無いなら来なかった』の、
まだまだくすぶれる(せきしろ)
まだ何かに選ばれることを期待している(又吉直樹)
の対比って、ずどんと胸に来るものがあるなぁ
って思います。

この日いいなと思ったうた。
永昌さんの
メニューにはキャットフィッシュと書かれたり鯰の唐揚げ八十バーツ
楽しい歌だなって思います。
鯰(なまず)は英語でキャットフィッシュ。
鯰の髭が猫っぽいからという命名らしいですが、
印象的な英名ですよね。
上の句にカタカナが並ぶところ、
キャットフィッシュと促音が二つあるところ、
上の句の締めの三句目の「書かれたり」の「たり」の
発見の喜びみたいな弾む感じが、
海外旅行で何を見ても楽しい、みたいな
そんな感じがしていいなって思いました。
鯰って白身なんだそうですね。
昔見てたアニメ「あらいぐまラスカル」だと思うんですが、
「なまずのフライ」って言ってたような気がするんですよね。
日本ではあんまり食べないけど、
けっこうメジャーな食材なのかも。
タイは観光大国だから、
世界中からきた観光客のために、
英語でも書いてあるんだなぁとか思うと、
味わい深いですね。

えんどうけいこさんの
唐揚げがひとつ残ったテーブルでわたし一人が素面のままだ
賑やかな飲み会で、
一人シラフって気がつくのって、
わびしい感じですね。
多分もう冷え切ってしまった「ひとつ残った」唐揚げと
素面のままの主体だけがクローズアップされて
ほんのりしたユーモアを漂わせつつ
よりわびしさを感じさせます。
毅尚あかりさんの
花曇り言えないことも粉にまぜ唐揚げ揚げてレモンも添えて
「言えないこと」って、言いたいことに通じるなって思います。
それを唐揚げの衣にまぜて食べさせちゃう計画ですね。
これ食べたら察してくれないか、
でも本当に分かってしまうのもこまるけど……
みたいな気持なのかなと思いました。
そこにくる「花曇り」がいいなって思います。
明るくはないけど、どことなく華やかな雰囲気。
これからお花見で、そのお弁当づくりなのかなとか
だとすると、食べさせて、察してと思う相手は
家族じゃなくて好きな人かなとか
勝手に想像がどんどん膨らんでいきました。
しつこいけど「花曇り」いいですよね。
一つのフレーズに陰陽が入ってて、
一首を目で見たときにもほんのり華やかさが感じられる暗さで。

うたの日(3月26日)


うたの日

3月26日のお題は「導」「似」「昨日」でした。

昨日すれ違った人を覚えているとでも言いたげにチューリップは揺れる(しま・しましま)
危険なうたでした。
というのも、
昨日これを投稿した時は、
よし、ギリで定型感は残ってるな
って思ったはずなのに、
今日になって見たら
あれ?めっちゃ破調っていうか、破調でしかない?
ってなってしまって。
我ながら、あれー??ってなって、
しばらく眺めていてやっと、
昨日すれ違った/人を覚えて/いるとでも/
言いたげにチュー/リップは揺れる
っていう句またがりに継ぐ句またがりだったことを
思い出しました。
自分自身でさえ、
あれ、どう読むリズムだっけ
ってなるのは危険だなぁ。

この日いいなと思った歌。
薄荷。さんの
ひとりだけ昨日に取り残されたよう脱衣所の隅に落ちた靴下
洗濯機を回してしまった後で、
床に落ちていて気がつかなかった靴下などに
気がつくことってありますね。
他のものは、
今洗濯機の中で洗われて
すでに明日を見据えた今日の住人なのに、
「脱衣所の隅に落ちた靴下」だけが
まだ「昨日に取り残され」ているように感じてしまう。
で、
この歌は、上の句の
「ひとりだけ昨日に取り残されたよう」

下の句の
「脱衣所の隅に落ちた靴下」
の二句で構成されてますが、
上の句が「ように」で下の句に直接繋がる形ではなくて
「よう」で切れているんで、
下の句に繋がるようでいて、
はっきりそうとは言い切れないところがあるなぁって
思ったりしました。
そうすると、
この「昨日に取り残されたよう」に感じたのは
「靴下」の他に何があるんだろうって思って、
やっぱり、主体自身なのかなって思います。
靴下もそう、自分もそう、
みたいな。
日常のあるあるから、
ふとした淋しさを掬い上げた感じがいいなって思いました。

葵の助さんの
(雲の上だったな昨日の今ごろは)3度めの洗濯機をまわす
このほんのり感、いいなぁって思います。
飛行機を使った旅行から帰った翌日でしょうか。
三度も洗濯機を回すということは、
家族旅行かな。
非日常から日常へ切り替わって、
残念なような、ほっとしているような、
でもやっぱり、
まだ旅行気分が残ってて、
日常にもどって来たことが残念な感じ。
丸かっこでくくられたモノローグが
ほんのりユーモアを漂わせてて、
いいな、好きだなぁって思いました。
重箱の隅ではありますが、
「3度め」の数字の表記は、
漢数字の方がいいなって思います。
アラビア数字というか算用数字が入ってると、
ぱっと見にまずその数字部分に目がいっちゃって、
うたの流れが少し乱れるような気がします。
(これは個人的な感覚かもですが)
天野うずめさんの
昨日から漬けてたきゅうりを頬張って君とこのまま生きていきたい
きゅうりの浅漬けをぽりっと噛んで、
「君とこのまま生きていきたい」
って、幸せの象徴っぽくて素敵です。
「昨日」というお題を、
短いながらも積み重ねた幸せの時間として
きゅうりの浅漬けで表現されてるところがステキ。
過去、終ったもの、過ぎたこと、
重さ、古さみたいな、
マイナスでなくてプラスに作用させてるところとか
うーん、好きすぎる。
昨日、ツイッターで、
(短歌のテーマが)明るいほうが好まれる傾向
みたいな話をある方としたんですが、
この歌のように、
たくさんある短歌の中で、
ふっと優しい明るさを放ってると、
どうしても惹かれちゃうなぁって思ったりします。
ただただ楽しくて明るい、という訳じゃないところも
いいなって思うポイントです。
この歌も、幸せなのに、
突き抜けて明るい楽観、とまではいかない、
理由のない不安があって、
それを前提とした祈りのようです。

うたの日(3月25日)


うたの日

3月25日のお題は「パーカー」「響」「大」でした。

まだすこし背骨に残りゐるやうな電車の響きにかたむく月夜(しま・しましま)
文語、文語口語、口語、しゃべり言葉
新かな遣い、旧かな遣い、
せっかくバラエティ豊かな日本語表現があるんで、
好きなときに好きな表現をチョイスします。
(「未来」の投稿は新かな遣いにしてます)
ちなみに俳句の方は
旧かな遣い、文語あるいは文語口語
が私の中の原則なんですが、
これは初心者の頃からそうだった、
というだけかも知れません。
わたしの所属する結社では、
原則として旧かな遣いで統一。
ただし文章は新かな遣い、となっています。
以前所属してた結社でも、
基本的にそうだったと思います。
これは、
俳句は文語で韻律を大切にするもの

文語を無理なく使うには、
旧かな遣いが合う

旧かな遣いで俳句しましょう
みたいな流れなんだと思います。
たしかにね、
例えば「出る(でる)」の文語表記は「出ず(いず)」。
これは旧かな遣いで言うと「出づ」。
新かな遣いの「出ず」(出る)だと、
未然形の「出」に打ち消しの「ず」をつけた
「出ず(いでず)」と、同じ表記になっちゃって、
困る、
みたいな事にもなりますしね。
でも、
別の結社では、
旧かな遣いの原稿なのか
新かな遣いの原稿なのか明記して、
どちらかに統一してください
みたいな場合もあります。
旧かな遣いか新かな遣いか
それは統一しましょうよ
みたいな場合は、
また違う問題があるからなんですよね。
それは、ズバリ選者と編集の手間を省くという。
最初に、
あ、この人は旧かな遣いでやるんだな
ってわかってたら、
旧かな遣いの間違いも直しやすいですし。
だいたいどこもそうだと思うんだけど、
結社誌の編集って、
バイト代もなんにもない
編集会議のための交通費から何から
自分のポケットマネーでまかなう
そんな感じなんで、
そういう人たちのがんばりの上で結社誌は出来上るわけです。
って、これはうちの俳句結社の話ですが、
多分他のところも同じじゃないかと思って書いてます。
なので、
編集の人の苦労を少しでも減らすために、
まずどっちかに統一してって言われたら
すべきだろって思います。
でも、
だからって、結社誌以外に発表するときまで
それを引きずらなくてもいい、
ような気がしてます。
俳句の話ではありますが、
短歌にもそれが言えるんじゃないかな。
クソ長く書いちゃったけど、
要は、
新旧かな遣い問題は、
結社誌などに投稿する場合は
そこのやり方に従えばいい。
それ以外で発表するときは自由。
と、考えてますという話でした。

この日いいなと思った歌。
西村湯呑さんの
山々に雪崩をうながす砲声の 引き剥がすように来る春もある
自然突発的に雪崩を起こさないように、
人工的に雪崩を起こさせる
というのはどこかで聞いたことがあります。
多分春先の、
これから雪解けが始まって、
雪崩が起きやすくなる時期などにされるんでしょうね。
「山々」「雪崩」「砲声」という熟語の硬い感じが、
自然に人為的に介入していくことや、
それをしなければならない背景の重みを感じさせます。
「引き剥がすように」の、
痛々しいイメージも、その重みに相応しい気がします。
「砲声の」のあとの一マス開けが
今まさにその音が響くような、
臨場感があるなって思いました。
もう、文句なくハートの歌でした。

たかはしみさおさんの
カタタンの兄のすぐあと弟のカタタン続く レール響かせ
幼い兄弟の電車ごっこ、あるいは
電車や汽車のオモチャを使った遊びかな、
と思いました。
「カタタン」がいいですよね。
兄の「カタタン」弟の「カタタン」。
「カタタン」の響きが郷愁を感じさせます。
うーん、
わたしは結句の「レール響かせ」、
必要と思いました。
結句に「レール」の一語があるから、
「カタタン」がレールの響きだなって
わかると思うんですよね。
まあ、「レール」ではなくて、
もうちょっと兄弟の「カタタン」の出所を
具体的に表現されてもよかったかなとも
思いますが。
遠井海さんの
恋なんてとっくに卒業したけれど子のなかよしがときどき響く
下の句の
「子のなかよしがときどき響く」
がいいですよね。
胸のどっかに響くんでしょうね。
「とっくに卒業」という気持でいるけど、
やっぱり、もうあんな日は来ないと思うと切ないですね。
って、まあ
卒業したつもりでもやってくるのが恋だったりして
それはそれで大変な話になるかもですが。
「子のなかよし」
のやわらかい語感と、
それが響いちゃう辛さみたいなところが
ほんのりといいなぁって思いました。

うたの日(3月24日)


うたの日

3月24日のお題は「みんな」「半」「逃」でした。

スーパーの袋てらてら夕焼けをはじき半分見えている葱(しま・しましま)
「てらてら」してるものが好きなんだなぁ
って改めて自分について思いました。

この日いいなと思った歌。
希和子さんの
「半分」が遠いベーグル祈るようにナイフを横に進ませていく
あー、わかる!!
という強い共感でハートに即決のうたでした。
初句の鍵カッコの「半分」、
この感じわかります。
パンを半分にするっていっても、
ベーグルを横に半分って、
特別な気がします。
ロールパンやイングリッシュマフィンを
横半分にするのは単なる半分で、
ベーグルのそれは全然違う「半分」、
「祈るようにナイフを横に進ませていく」
しかない。
「「半分」が遠い」という詠み出し方も
印象的ですてきでした。

宮嶋いつくさんの
花冷えの夜に迷って納戸から半纏をまた取り出している
ちょうど今頃ぐらいからの
冷え込みですね。
一度しまった半纏を、
ちょっと迷って結局取り出して羽織る、
ってあるなぁ。
「半纏」のクラシックさが
なんとなく和ませてくれます。
あと、
「花冷え」「夜」「迷」「納戸」
というフレーズの並びがいいなって思いました。
なんとなく、
妖しいものが出てきそう。
妖しさをいくらでも出せそうなフレーズを並べておいて、
出してくるのが「半纏」
ってところも面白いと思いました。
つんさんの
半分こ出来ることさえ嬉しくて君の口元ばかり見ていた
素直な感情を、
衒いのないことばで表現されてて、
いいな、嬉しいなって思いました。
「半分こ出来る」っていいですよね。
そうしてもいいと思える相手と二人でいる
ってことですからね。
きっとそれは食べ物なんでしょうね。
それが嬉しくて、
半分こしたものを食べてる「君」の
それも「口元ばかり」見て、
また嬉しくなってしまう。
あー、可愛いなって思いました。

うたの日(3月23日)


うたの日

3月23日のお題は「せい」「カーテン」「影」でした。

髪の毛を切るてごたえは癖になる貴方のせいではないのだけれど(しま・しましま)
髪の毛を鋏で切るのって
特別な手ごたえがありますよね。
特に、束で切るとき。
子供の頃は禁断の手ごたえでした。

この日いいなと思った歌。
えんどうけいこさんの
叱られて夜が来るまでしゃがんでた セイタカアワダチソウの茂みに
「セイタカアワダチソウ」がいいですね。
あの、秋の山野や川辺に
ばかみたいにのっぽな群れを作って、
黄色い花を揺らしてる
セイタカアワダチソウ、大好きです。
考えてみれば、
たしかにあの高さは、
「叱られて夜が来るまで」隠れているのには
もってこいかも。
大人でもしゃがんだら、姿が見えなくなってしまいますね。
「夜が来るまで」の
夕焼けから日暮れまでの空の色の変化と、
セイタカアワダチソウの黄色い花の対比が、
どこか温かくて童画のような景が想像されて
そこも素敵だし、
上の句の、
体が冷え切るまで小さくなってる子供の
辛い気持と意固地さのいとけない感じも
ああー好きだなぁって思いました。

矢波多恵さんの
誰のせいでもないことも分かってて、ただ大根の下茹でをする
「誰のせいでもない」
ということはわかっていても、
だから平気って訳には行かないのが
人の感情ですよね。
だけど平気じゃないからって
だれかに気持をぶつけるわけにもいかなし、
全てを放り投げてしまうわけにもいかない。
そのどうしようもないことを
ぐっと飲み込んで
台所に立っている主体の
諦観がしずかにただよう歌と思いました。
「大根の下茹で」
という具体的な行為、
その丁寧さが
静かな諦観に合ってるなぁって思いました。
「ただ」で繋いであるのは、
うたの人のコメントにもありましたが
やっぱり少し気になる感じ。
「ただ」がなくても、
十分、ほかになすすべがないことは窺えるし、
「ただ○○をする」というと、
ほかに何もしないって感じになっちゃうので、
仕方なくキッチンに立って夕食の支度をしている
というよりも
何かにとりつかれたように
「大根の下茹で」だけをしている人
のようにも思える……
と思うのはうがちすぎでしょうか?
東風めかりさんの
一昨日の黄砂のせいだ指文字で残されている「洗車しなさい」
あるあるって思わず笑ってしまいましたが、
愛車にそんな文字が残されてたら
多分笑えないんだろうなぁ。
黄砂の上から指で落書きとか!
洗車しても、下手するとうっすら傷になって残りますし。
とはいえ、
やっぱり笑えるトホホですよね。
ちなみに、
指を使って文字を書く事も
「指文字」っていうみたいです。
外川菊絵さんの
ちゅうこうせい かれらはひとつにまとめられ駐輪場の春を賑わす
「ちゅうこうせい」は中高生のことと思います。
中高生を表現するのに、
「駐輪場の春を賑わす」って
いいな、いい表現だなって思いました。
駅の駐輪場かな、
大人にはぱっと見に、
どの制服、どんなヘアスタイル、
どんな表情が中学生で、高校生なのかが
わからないんですよね。
特にあたらしい年度の始まる春の、
浮き足立った感じが出てていいなって思いました。

うたの日(3月21日22日)


うたの日

3月21日のお題は「春」「葉書」「フライ」でした。

しつぽ食べないのと言はれ海老フライぱきりと不服ごと噛みしめる(しま・しましま)
助詞が少なくて、
なんとなくふがふがした感じ。
たまにはこういう
オレ、ハラヘッタ。オレ、ナンカクウ。
的なカタコト感もいいかなぁとか思ったりして。
わたしだけかも知れないですが、
口語というか話し言葉に旧かな遣いって
カタコト感が増すような気がします。

この日いいなと思った歌。
西村曜さんの
物語とは一本のマックフライポテトが通学路に落ちるまで
この歌の言ってることと
ちょうど逆ではあるんですが、
まず道に落ちてる一本のフライドポテトが見えて、
そこからその道が通学路であるとわかる広さが見えて、
その後、
「一本のマックフライポテトが通学路に落ちるまで」
の物語が逆回しでするする見えてくるような気がしました。
読む人それぞれに、
違う物語が再生されるんだろうなって思って、
素敵な広がり方だなぁって思いました。

といじまさんの
この人が釣った魚という点で同士と言えるこのアジフライ
妻の余裕とユーモア、
それからちょっとチクリと棘があるところ、
面白いなって思いました。
「この人」という言葉に、
なんとなく余裕が感じられました。
「アジフライ」旨いですよね。
天野うずめさんの
牡蠣フライはちゃんとしょっぱい味がする働くことが嫌になっても
正直、牡蠣フライそのものに
「ちゃんとしょっぱい味」あるかなって思ったんですが、
牡蠣フライによっても、
その人の感じ方によっても違いますよね。
「働くことが嫌」になることは、
多々あるかと思うけど、
ちょっとした「嫌」ではなくて、
実際かなりしんどい状況に主体はいるのかな
と思います。
でも、美味しいものを美味しいと、
しょっぱい味をしょっぱいと
そう感じられる間は、
まだ精神的にもバランスが崩れてないんだ
って思う感じはわかるなぁって思いました。
「牡蠣フライは」という詠み出し方もいいな。
ぐっと引き込まれるぐらいの力が、牡蠣フライにはあります。


3月22日のお題は「レコード」「ベートーヴェン」「ペン」でした。

ペン立てにペンじゃないものばかりある深夜の雨も春のあかるさ(しま・しましま)
とうとう
「しましま感」を手に入れたようです。

この日いいなと思った歌。
小川けいとさんの
安っぽいシャーペンだけが思い出でたまにカチカチ鳴らしたりする
この「思い出」が、何に纏わる思い出なのか、
その辺りはわからないけど、
主体に残った思い出の品が「安っぽいシャーペン」って
なんとなく、リアルでいいなって思います。
不思議なもんで、安っぽいシャーペンって、
何故か妙に丈夫で、
芯さえ入れればずっと使えたりしますね。
主体のシャーペンも、
きっとまだ現役で使えるものなんだろうな。
下の句の
「たまにカチカチ鳴らしたりする」
の、小さいアクションが、
「安っぽいシャーペン」とはいえ、
楽しい思い出なんだろうなって思わせるようでした。

ナタカさんの
剣より強いだろうか僕の名が入った三色ボールペンでも
この歌もいいなぁ。
「僕の名が入った三色ボールペン」
っていうのが、なんともいえない味があって、
ハートでもいいなぁと思うぐらいでした。
「ペンは剣よりも強し」って言うけど、
こんな感じのトホホなペンと、
こんな僕の書くものも、
「剣より強い」と言えるだけのものになるんだろうか
っていう、
ほんのりとした葛藤が好きです。
好きだからこそ、
重箱の隅をつつくようなところが気になってしまって
音符にしちゃったんですけどね。
「剣より強いだろうか」
は、読んだ感じでは「つるぎより」と読ませているのかな
って思うんですが、
ここはやっぱり「けんより」にして欲しかったです。
「ペンは剣よりも強し」は、
言い方を変えずに使ったほうが
ストレートに響く気がします。
御殿山みなみさんの
シャーペンよ、あれだけノートとったんだ聞かせてくれよお前の記憶!
これもすごく面白くて好きでした。
テストを受けてる最中でしょうか。
自分の記憶の方は置いといて
シャーペンの方の記憶に頼りたくなるって
うーん、上手いところをズバッと突いてきたなって感じ。
最後にある「!」がいいですよね。
勢いというか、臨場感があります。

うたの日(3月20日)


うたの日

3月20日のお題は「卒業」「だけど」「ニート」でした。

だけどって言わせないでよたんぽぽの黄色が土手をながれてしまう(しま・しましま)
「卒業」も「ニート」も、
わたしにとってちょっと肉薄するイメージがわかないなぁ
ってことで「だけど」にしたんですが、
やっぱり難しいですね。

この日いいなと思った歌。
西村湯呑さんの
つまらないものなんだけどという顔でミー子がくれたセミの脱け殻
このうたの「ミー子」さんって、
友達……とも考えられるけど、
やっぱり猫って考えた方が普通かな。
猫って、たまにお土産持ってきてくれますね。
一説には、お土産というよりも、
下のものへご飯を運んできてくれる行動とか
狩りのお手本とかっていいますが、
うちの猫も、
うちの娘にそうやってとんでもないプレゼントを
持ってきてた時期がありました。
家の中ですから、GとかGとか……。
大体は枕元においてあったらしいですが、
一度なんか寝ている娘の手の中に入れておく
という丁寧な仕事ぶりで、
阿鼻叫喚の朝を経験させてもらいました。
まあ、それはそうとして。
このミー子さんがくれたのは「セミの抜け殻」。
なにげない顔でくれたんだけど、
たしかに(人間の価値観から見て)「つまらないもの」だから、
そんな表情をしているように見えた
っていうところが面白いなと思いました。

吉川みほさんの
夢の中だとわかるけどこれは夢これは夢の中なのだけど、でも
夢の中で、あー、これは夢だろうなって
そう自覚することってたまにありますね。
このうたの夢は、どういう夢だったんでしょうか。
夢でなければいい、
そんな夢だったんだろうなと思います。
現実世界ではもう実現できないような
そんな夢。
「夢」ということばが三度も出てきて、
夢だ夢だって自分に言い聞かせてるところに、
切なさがあるような気がします。
最後の「だけど、でも」に余韻が残ります。
ダックスさんの
好きだけど本気(マジ)じゃなかった 泣いたけど辛くなかった だけど だけどね
うーん、そういう恋ってありますよね。
「好きだけど本気じゃなかった」
「泣いたけど辛くなかった」
それは多分、本当のことでもあり、嘘なんだろうな
って気がします。
「本気」の度合、「辛さ」の度合が
自分が、「本当の恋」ならこうだろうって思ったよりも
少し軽かったって感じかなぁと思います。
「だけど だけどね」の結句の続き、
やっぱり好きで涙が出るぐらいの辛さはあったんだって
誰に伝えるわけではないけど、
言っておきたいことってあるなぁ
って思いました。
ただ
これはわたしの好みの問題に過ぎないと思うんですが、
「本気」と書いて「マジ」のルビはどうかなぁ。
もう、そこにまず目が行っちゃって
「本気と書いてマジと読む」のフレーズが浮かんでしまって、
あれ?これはいくぶんギャグが入ってるのかな……
というつまんない心配をしてしまいました。

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