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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(4月18日)


うたの日

4月18日のお題は「爆」「ズレ」「韻」でした。

この日の夜ツイッターで、
「動詞が多いから良くないって評価はどうなんだろう」
的な話題が出てました。
動詞が多いのは良くないって
短歌もそうですが、
俳句でもいわれることです。
たしかに、裏タブーみたいな感じで
よく指摘されることの一つだと思います。
俳句ではねー、分かるんですよ。
その理由。
まあね、俳句は基本十七音しかないんで、
一つのポイントをキラッと光らせるか、
二つの事柄をぶつけて、その雰囲気とかインパクトを魅せるとか
そういう時に、
動詞が多いと説明的でだらだらしちゃうし、
リズムが悪くなるし、
あんまりいいことないんですよ。
で、短歌だとどうなのかな
って思った時、
やっぱり
何を見せたいのか、
によるのかなって思います。
結句あるいは結論的なフレーズに至るまでの
時間的な推移を詠みたい
って思う人に
ただ単に「動詞が多いのはいくない」
って言っても、困るよね。
でも、
(これはわたしの個人的な感覚ですが)
動詞はアクセントがやや強くて、
動詞の数だけ一首の中に切れるところができてしまうのと
言葉数が多く見えてしまって、
見た目にもリズム的にもややうるさくなるところと、
○○して○○したら××になったので○○した
みたいな説明ぽくなりがちなところは
俳句でも短歌でも違わないんじゃないかな、と。
無自覚な動詞の多用は
そういうところを産みがちなので
注意しよう、みたいなことかなあ
とか思いますがどうでしょうか。
みなさまのご意見を是非お待ちしてます。

と、いきなり前振りがやたら長く始まってしまいましたが、
ひとつずつずれてしまった声でした十二に足りない幼児クレヨン(しま・しましま)
こどもが幼稚園から持って帰るクレヨンって
何故か意外な色が無くなってて、
ケースの中で移動しまくってるイメージがあります。
何か言いたいことがあるような、無いような
みたいなところを詠みたかったんですが、
ちょっと表現に無理があったのかも。

この日いいなと思ったうた。
ナッキーナさんの
アバズレと呼ばれた過去もあったけど あたしは今日も薔薇を育てる
おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。
という「魔女の宅急便」のキャッチフレーズを思い出しました。
いや、内容的には全然ちがうんですけども。
「アバズレ」て!
ってまずびっくりしますよね。
いつの時代だよ、みたいな。
でも、考えてみれば、
わたしの若い頃よりも今の時代の方が、
そういうことを非難されそうな風潮あります。
厚かましくてすれっからし
みたいな言葉だと思うんですが、
今はわりとビッチ的に使われるんでしょうか。
って、「呼ばれた過去」を持つ人に
何気に失礼ではありますが。
下の句がいいなって思います。
「あたしは今日も薔薇を育てる」
の「あたしは今日も」って、
自分自身はちっとも何にも変わってないんだ
って言ってるような気がします。
少なくとも本質は変わらない。
その本質が「薔薇」なのかなって。
「あたし」という一人称の、
なまなましい感じもぐっとくるポイントでした。

雀來豆さんの
泣いていたせいか睫がずれるたび世界の色が変わっていった
「睫がずれるたび世界の色が変わっていった」
って、いいなぁって思いました。
物理的にも
まつげって目にややかぶさって生えてますし、
(ずれるってことはつけまつげなんでしょうけども)
それが視界を狭めて、
見えるものが微妙に変わって行く感じ、
なんとなく、そうだなぁって共感します。
「ずれるたび」「変わっていった」
の、万華鏡的な変化のしかたも
ちょっとキラキラな感じがして、
うーん、ステキだなぁって思いました。
ただ、
「泣いていたせいか」と、
いきなりその答えが最初に出てくる感じが
ちょっと惜しいような気がします。

門脇篤史さんの
ズレてゐる時計の針をいじるとき罪悪感のはつかに湧きつ
「時計の針をいじる」ことは、
単純に時計を直す的なことなんだと思いますが、
そこで「罪悪感のはつかに湧きつ」
ということは、
主体はなにか、それが良いことではないと感じるものがある
ってことですよね。
時計の針ではなく、時間そのものをいじったような
そんな気持が湧くのかな、と思いました。
「はつかに」がいいなって思います。
わずかに、の古語だと思うんですが、
「ズレ」「いじる」「罪悪感」と、
マイナス要因であり、濁音のあることばが並んだ後の
「はつかに」の音が、
なんとなくイノセンスさを感じさせるような気がします。
ところで、
このうたは旧かな遣いでかかれてますが、
「いじる」、ここがちょっと気になるポイントでした。
「いじる」を辞書で引くと、「いぢる」と出るんですが、
同時に、旧かな遣いで「いじる」も正しい説も出るんですよね。
どっちが正しいんだ……ってなってしまいます。
漢字で弄るにしてしまうと、その辺りのもやもやは無くなるんですが、
どうなんでしょうね。
あと、「湧きつ」の「つ」がまた悩ましいなぁって思います。

うたの日(4月17日)


うたの日

4月17日のお題は「ボタン」「物語」「底」でした。

主に手を拭くのに使うつもりだった今日のハンカチかばんの底より(しま・しましま)
うーん、あんまり深い意味はないんですが、
使うつもりで持っていったハンカチを
結局使う機会がなくて、
でもかばんのそこでくしゃくしゃになってて
あーなんか…って感じだったんですが、
何か思わせぶりなところがあったみたいで、
反省しきりです。
「主に手を拭くのに使うつもりだった」
の無駄に迂遠な感じというか
うねうねのリズムがちょっと面白いかなぁ
って思って、
どうも完全に失敗した模様です。

この日いいなと思ったうた。
静ジャックさんの
練習を終えた安らぎ水底を宇宙飛行士気分で泳ぐ
一目見て、
うわっこれは気持がいい!
ってハートを決めました。
情景としては水泳部とか、プールを使う部活の練習の後
でしょうか。
さっきまでも水中で練習をしていたんだけど、
練習後に、ただ目的無しに
すうーっと水中に体を流して移動する。
心身をクールダウンさせるみたいで
ホント気持がよさそうでした。

きいさんの
春の夜ひと息に飲むヤクルトの小さな底にあるわだかまり
「ヤクルトの小さな底にあるわだかまり」
というフレーズがいいなぁって思います。
たしかに、ヤクルトを飲むと、底に何かこびりついてる沈殿物がありますね。
あれを「わだかまり」とされたところも
いいなって思いますが、
「小さな底」というところ、
ささいなことだけど、効いてるなぁって思います。
もともとヤクルトそのものが、
一気に飲み干してもさほど爽快感があるものではないけど、
その小さな底にどうしても残ってしまう「わだかまり」が、
日常のほんとにささやかな「わだかまり」と重なります。
「春の夜」の、水分の多いけぶるような感じと、
「ヤクルト」も響き合うものがあるなぁって気がします。
小宮子々さんの
ここが夜の底です月を横切って泳ぐ魚の影が見えます
幻想的で、ゆったりとしたリズムが、
なんともいえず魅力的でした。
孤独な夜の、だけどほんのり明るさがあって、
落ち着いた心地よさが感じられます。
ですます調の童話っぽいたたずまいも好きなポイントでした。
句またがりにつぐ句またがりのうたなんですが、
違和感が全然なくて、
少しあとになってから、
あ、これ句またがりなんだなって気がつきました。
月丘ナイルさんの
スポンジも光も届かぬ場所ならばきっと静かに眠れるだろう
「光も届かぬ場所」で安らぐというのは、
とても普通に分かる感覚ですが、
「スポンジも」というところにぐっときますね。
主体はいったいどういう場所で安らぐんだろうって。
コップとかステンレスボトルとか、
ある程度深さのあるものを洗うのに、
とにかくぐいぐいスポンジを押し込みますが、
あれを外からの無情な侵入者として捉えている人がいる
って思うと、
なにかもう、ああっって気持になりました。
そうか、そういう感じ方もあるんだな、
そうかも、そうなんだろうな
って。
宮木水葉さんの
ぬばたまの眼窩の底ひ密やかに海を湛ふる人形の首
美しいうた、
って思いました。
定型、文語、旧かな遣い、厳選された美しい語句が
結句の残酷性をより際立たせてると思います。
実際に、その人形が「首」だけなのか
そこまでしか詠まれてないだけなのか
それは分かりませんが、
意図的に「首」で終る短い物語が
ホント美しいなって思いました。

ところで、この日はどのお題でもステキなうたがいっぱいでした。
特に「物語」で、わーっいいなって思ううたがあって、
それについても、ちょっとだけ。
たかはしみさおさんの
ぼくの描く物語にはペスがいて千切れるほどに今も尾をふる
「物語」で投票して、
これにハートを入れたかった…と
あとで思ったうたでした。
「ペス」という具体的な名前がホントぐっときますね。
不思議なもので、「ペス」ってどう考えても
犬の名前としか考えられない。
しかも、実際にそんな名前の犬を、
作者は飼っていたんだろうなって思わせられる名前です。
「今も尾をふる」が、
切なくも、ほんわりとあたたかいですね。
わたしは、猫を飼ってるんですが、
短歌でその猫を詠むのむずかしいなって痛感してます。
俳句では、瞬間のきりとりみたいなところがあるんで
猫をいっぱい詠めるんだけど、
短歌では難しい。
ところが、
もう十年よりもっと昔にさよならした犬については
短歌で詠める、気がします。
久哲さんの
ボクいつもねてしまいますおきてるとゆめものがたりみてしまうから
も、いいなぁって思いました。
ひらがな表記でふわっと詠んでありますが、
読後感が切ないです。
ひらがなや「ボク」という幼さや拙さを感じる表記が、
より主体の内側のやわらかい部分からの心情を吐露している
って感じがします。
「夢」ではなくて「夢物語」という遠さがホント切ない。
西村湯呑さんの
そのむかし樹上を去った朋友を今も見つめている森のひと
「もののけ姫」の猩猩たちを連想しましたが、
オランウータンなどの実際の類人猿かもしれません。
人間をまだ、かつての「朋友」と思ってくれているんだろうか、
さまざまに思いの広がるうたと思いました。

うたの日(4月16日)


うたの日

4月16日のお題は「紫」「灰」「レモン」でした。

むらさきは滞る色なすすべもなき両の手を強く握りぬ(しま・しましま)
「紫」で一番最初に浮かんできたのが、
うっ血だったという……。
前日の夜に、ツイッターで文語の話題が出たので、
文語で詠んでみました。

この日いいなと思ったうた。
サリーBさんの
『紫の雨』が終わればプリンスの最新作をsiriが呟く
昨夜のわたしの鑑賞は、
うたの日にコメントした通りの
こうでした。
プリンスの「パープルレイン」は衝撃的なかっこよさで、今でも色褪せない魅力ありますね。主体は、「パープルレイン」そのものをを聴きたいだけなのに、Siriがついでにこれはどうですかって感じで最新作のタイトルを薦めてきたんでしょうか。(Siri利用しないのでわからないんですが)機械的な商業主義への軽い批判をさらっと詠まれているようでいいなと思いました。そして、「パープルレイン」も、当時のプリンスの姿もめっちゃかっこよかったことを思い出してうれしくなりました。
いやもう普通にプリンスかっこよす
かっこいいプリンスのうた好き過ぎる
って感じになっちゃった人みたいなコメントでしたね。
いやたしかに、当時のプリンスもステキだったんですよ
ってそうじゃなくて、
「パープルレイン」と、
その後のSiriの呟きとの
テンションの落差が面白いと思いました。
なにが言いたいかというと
80年代のプリンスは最高だった。
でも14年に出たアルバム「Art Official Age」もすごく良かったので
聴いてみてほしいと。
あれ、
全然うたの鑑賞じゃなくてごめんなさい。

タカノケイさんの
稜線の薄紫に戒名の「照岳」似合う父が重なる
戒名って
故人の生前の趣味や人となりを表す言葉がつけられることがありますが、
多分この「照岳」という戒名も、
山に親しい方だったんだろうなと思われます。
登山が好きだった、とも考えられるんですが、
どちらかというと山の近くに住んでいて、
その山と親密な関係の方だったのかなぁと
思ったりしました。
というのは、二句目までの
「稜線の薄紫に」
という、主体が実際に目にしているだろう山の稜線で、
父のこと、父の戒名のことを思い起こしているところ。
この山が、主体とお父さんとの思い出の山なんだろう
と、思いました。
この「稜線の薄紫に」という詠み出し方がいいですよね。
印象鮮明で。
明け方の紫からピンクがかった空と、山のシルエットの際立った感じが
まずわーっと頭に浮かんで来ます。
それはただでさえ美しい景だったんだろうな。
そこに、「照岳」という戒名をいただいた
お父さんの思い出が重なってきたという。
お父さんのお人柄とかも、なんとなくしのばれますよね。
「照岳」、明るく周囲の人を照らすような人で、
且つ山のように厳しい人だった、とか。
少なくとも、美しい山の朝焼けを見て、
お子さんに思いを重ねてもらえるぐらい
愛された方なんだろうなと思うと
うん、いいうただなって思います。
一つだけ難をいうと、
「戒名の「照岳」似合う父が重なる」の
「似合う」は言わずもがなかなと。
「「照岳」似合う」と助詞を抜いているところも
気になるんですが、
そもそも「似合う」自体がなくてもいいんじゃないか
そんな気がしました。
希和子さんの
朝顔の色を探してパレットにつくる紫永かった夏
自分の子供の頃を思い出しました。
夏休み後半ってダレちゃって、
うーん、長すぎるな、飽きるなって
毎年思ってました。
夏休みの工作で水彩画というチョイスって
夏休み後半になってから手をつける子の
常套だったなぁとか。
このうたの主体が、
そういうタイプだったのかは分かりませんし、
もしかしたら子供の頃の回想でもないのかも。
とにかく、
朝顔の絵を書くための紫色を
パレットに作ってるんですね。
さまざまなバリエーションの紫の、
たくさんのこだわりの朝顔
それはこの夏の、「永かった夏」の
主体にとっての象徴なのかもしれません。

うたの日(4月15日)


うたの日

4月15日のお題は「右」「説」「言えないままのこと」でした。

右ひだり、また右をみてそうやっていつまでも渡れずにいる青空(しま・しましま)
実はこのうた、
詠んでるときに、下の句の句またがりの韻律が
なんだか自分でもわからなくなってしまって、
そのまま出しちゃったんですが、
今数えたら
そうやって//いつまでも/わたれずにいる//あおぞら
で、5・12・4ってとこでしょうか。
わたし自身は読む時に、
いつまでもわたれずに/いるあおぞら
と適当なところで軽く切って読んでましたが、
まあそれはともかく全体では2音字余りですね。
定型律を意図的に外すのはまた違う話ですが、
こうやって無自覚というか
ああーわかんなくなっちゃったな、まあいいか
は駄目だろうなと反省しきりです。

この日いいなと思ったうた。
ネネネさんの
まだ右も左も分からなかったころ まっすぐ信じてつなげた手と手
恋愛のうた、と断定することもない
かとは思いますが、
やっぱり恋愛観がベースになったうたかなって思いました。
このうたに直接出てくる「手と手」は、
自分の手と、特定しない誰かの手ってことと思います。
「まだ右も左も分からなかったころ」
物事をあまり知らなかったころで、
物事をあまり深く考えなかったころなんでしょうね。
その頃は、
手を差し出されればそのまま繋いでしまうし、
そこには無条件に好意があると思えてた。
でも今は……。
っていう言外の思いが辛いですね。

青山ハナコさんの
左ききあの子の右手はやわらかできっと誰かが恋してしまう
「左きき」の「右手」と、
「やわらか」がいいなって思いました。
多分実際のところは、
利き手でない方の手がやわらかと
はっきりわかるほどの違いはないと思うんですが、
その微妙な違いを
「やわらか」と言い切ってるところに、
ちょっと切ないような気持がしますね。
このうたは、
女の子が、同性の友達である「あの子」について
詠んだうたかなって思います。
何度も手を繋いだからわかる微妙な「やわらか」さ。
いつか、好きな人ができて、
この手を繋ぐのも自分ではなくて、
恋の相手になっちゃうんだな、
「きっと誰かが恋してしまう」ぐらい、
とてもステキな子だから
っていう感じに読みました。
照屋沙流堂さんの
この廊下を右に曲がればきみに遭う確率はやや上がるが遭わず
「廊下」がいいなぁって思いました。
そのひとことで情景がぱーっと浮かんで来ます。
中学か高校か、とにかく学校の廊下。
「きみ」は主体にとって、
クラスは違うけど気になる人なんだろうな。
もしかしたら廊下ですれ違ったりできるかも
という淡い期待も
今回はあっさり空振り。
勝手な想像ですが、
いくら気になる人だからって、
敢えて用もないのに見に行くことを
良しとしないタイプの青年なんだろうなとか
思ってしまいました。
目的地へ行くまでの必然としての道のりで、
遭えたらいいなって思ってて、
でも、遭えなかったら遭えなかったで、
確率は高かったけども遭えなかった
で、済ませたい。
(同じ校内にいるなら、他でも遭える可能性あるし)
っていううっすらとしたプライドが感じられて、
いいな、若さだな
って思ってしまいました。
「上がるが遭わず」
というさっくりした感じの結句が
面白い味になってるなって思います。

うたの日(4月14日)


うたの日

4月14日のお題は「Eテレの番組」「落書き」「望遠鏡」でした。

飛び立てずにいるということニャンちゅうはいつもつくえの向うでわらう(しま・しましま)
ニャンちゅう大好き。

この日いいなと思ったうた。
永昌さんの
チョーさんの地図でおぼえた那珂湊合併により消えたこと知る
「チョーさんの地図」、
おおっこれは「たんけんぼくのまち」のチョーさんですね。
わたしはもうこの番組を授業で見ていないんですが、
たまに家で見てました。
「たんけんぼくのまち」っていうぐらいだから、
「ぼくの」住んでいる町のあちこちを探検して、
それをイラストマップにしあげる
というものみたい。
主体というか、作者はその舞台が「那珂湊」だったころに、
授業で視聴していたんでしょうね。
それをふと思い出していたら、
実は市町村合併によってその地名はなくなっていた
ということを知った。
といううた。
「那珂湊」はきっと、
身近な市ではなかったんだろうと思いますが、
それでも
「たんけんぼくのまち」の舞台が「那珂湊」だったことを
印象深く覚えていて、
だけど、今はもうないんだ、
しかもけっこう前からなくなってたんだ
って気付かされるって、
なんとなくほんのりと切ないですね。
単なる時の流れというだけじゃなくて、
社会の変化をふいに突きつけられたような
そんな気もします。
「那珂湊」という画数の多い地名や、
「合併により消えたこと知る」
というやや硬めのフレーズに、
「チョーさん」というゆるいキャラクターを
ぽんと持ってきたところが
いい味でてるなぁって思いました。

御糸さちさんの
作中主体スイッチ【あ】明るさをアピールすべくあを繰り返す
どきっとさせられますよね。
「明るさをアピールすべくあを繰り返す」
実際そうなんだけども、
それ言っちゃう?
みたいなどきっ。
このうたは「お父さんスイッチ」を下敷きにしたうたと思います。
「ピタゴラスイッチ」でも「デザインあ」でもなくて、
【あ】から【お】までの五つのスイッチごとに、
お父さんがそれにあわせて何かするというもの。
短歌制作スイッチじゃなくて
「作中主体スイッチ」なのが
なんとも言えない面白さ。
自分が
「明るさをアピールすべくあを繰り返す」
んではなくて、
作中主体が【あ】のスイッチを押されて
それをするんです
っていうぬけぬけさが魅力的でした。
木原ねこさんの
恐竜を折ってと息子にせがまれて密かに唱えるさてさてほほー
「さてさてほほー」
めっちゃいいですね。
往年の大人気工作番組「できるかな」の
「でっきるっかな でっきるっかな」のあとの
「さてさてほほー」の部分です。
んで、息子さんにせがまれているのは
「恐竜を折って」。
折ってってぐらいだから折り紙なんでしょうね。
折鶴と手裏剣と騙し舟ぐらいしか折れないわたしには
ひどい無茶振りに聞こえますが、
多分この親子は、
普段から難しい折り紙を一緒に楽しんでるんだろうな
って思われます。
作者の名前が出たからいうわけじゃないですが。
それでも、さすがに「恐竜」は難しいか
と、うっすら思ってしまう母が、
「密かに唱える」「さてさてほほー」です。
内心は「できるかな?できるかな?」って
そんな気持もあっての
「さてさてほほー」だったのかなって思いました。
それにしても、
木原さんのお子さんを詠まれたうたって
いいですよね。
大好きです。
どんなとっぴな行動も、
実際のお子さんたちの行動に裏打ちされたもので、
そんなお子さんの気持にシンクロしようとするんじゃなくて、
母である自分の視点のまま。
そこに揺らがない芯があるように思います。

うたの日(4月13日)


うたの日

4月13日のお題は「リボン」「期待」「濃い」でした。

顔洗ふ水を両手にすくひつつ初夏成分が濃いかと思ふ(しま・しましま)
なんとなく旧かな遣いでやってしまいましたが、
最初にPCで打つときに、「あらう」を変換したら「洗ふ」になっちゃって、
ま、いいか
と、そのまま旧かな遣いのままで最後までやっちゃったんですよね。
顔洗う水を両手にすくいつつ初夏成分が濃いかと思う
うーん、どっちがいいんでしょうね。

この日いいなと思ったうた。
月花さんの
雨の日を思い出すのか小松菜は水に放てば青が濃くなる
わーいいなって、
一目でハートに決めた歌でした。
「小松菜」のチョイスがいいですよね。
とにかくもう「小松菜」にやられた感あります。
シンクで洗っている小松菜を見ながら、
その鮮やかな緑色に、
「雨の日を思い出すのか」
っていう想像の仕方がステキですよね。
「のか」っていう推定なのが
わたし的にはツボでした。
擬人化がどうもちょっと苦手なもので……。
「水に放てば青が濃くなる」の
鮮やかな色の見せ方もステキでした。
一首を通して読んでから、
シンクの小松菜の濡れた「青」が見えて、
そこから雨の日の小松菜畑のイメージが広がるようで、
ホントすてきでした。

西村曜さんの
期待にも濃淡がありこれは濃い 箱のリボンをしゅるるとほどく
「期待にも濃淡」っていいなぁって思いました。
淡い期待って言いますよね。
濃い期待もきっとありますよね。
誰の期待か、
ってところが気になりますね。
プレゼントを貰った側の期待なら、
中身への期待ってところでしょうか。
貰って嬉しいものが包まれてるって
手ごたえがあって、
リボンをわくわくしながらほどいてる感じがします。
「しゅるる」の躍動感がわくわくの気持のあらわれみたい。
プレゼントを贈った側の期待なら、
シタゴコロ的な期待の濃淡でしょうか。
貰ったプレゼントのリボンをほどきながら、
「これは濃い」
って思ってる、
この主体の立ち位置の優位さが
「しゅるる」に滲んでるような気がして、
それもいいなって思います。
まあ、後者の方は、
昨夜の段階では想定してなかったんですけど、
一晩たって、
そういう見方も出来るかな
と思い至りました。
桔梗さんの
きみをおいて夢から覚めた明け方にすこし濃すぎるコーヒーを呑む
「きみ」はまだ隣で眠っているのか、
さっきまで主体が見ていた夢の中にいるのか、
どっちともとれるような気がしますが、
後者かなと思って読みました。
まだ朝になり切ってない時間帯に
ふと目が覚めてしまって、
夢の中の「きみ」は少し心残りがあるけど、
もう一度夢に戻る気にもなれなくて、
やや濃いコーヒーで
しっかりと目を覚ます
って感じかなぁ。
ほんのりと淋しいような、
でも、主体の凛とした感じがあってすてきでした。

うたの日(4月12日)


うたの日

4月12日のお題は「距離」「Tシャツ」「急」でした。

降り出した雨を水面に見ていますほどよい距離を保って水輪(しま・しましま)

この日いいなと思ったうた。
雨宮司さんの
道のりは距離より遠い 山桜咲く吉野路をひたすら登る
上の句の「道のりは距離より遠い」がいいな
って思いました。
実際のキロ数よりも、体感の方が遠く感じるってありますね。
それが山道ならば、それはもう
余計に遠く感じるんだろうな。
でも、この道、
「山桜咲く吉野路」なんですよね。
普通だと花咲く道を歩くって、
心が躍って、普通よりも短く感じるんじゃないかと
思いますが、
吉野の山桜ですから、
何か妖しいものが出てきそうで、
自ずと足早になるんだけど、
なかなか前に進んでる気がしない
というような情景を想像しました。

宮木水葉さんの
足繁く通ひし頃と愛着は変わらぬものよ店の軒燈
いいですね。
「店」としかないのに、
不思議とお酒を出す店を想像してしまいます。
今はもう昔みたいに
足しげく通うってことのない店に、
あの頃と同じ愛着を、
今でも感じるんだなって
店の前の明かりを目にしただけで、
そんな感慨が湧いてくる。
しみじみとしてて
すてきだなって思います。
「足繁く」「愛着」「軒燈(けんとう)」
という、やや固い言葉と、
「通ひし頃」「変わらぬものよ」の
やわらかさのバランスが良くて、
大人っぽい雰囲気が漂う気がします。
「変わらぬ」は旧かな遣いだと「変はらぬ」ですね。
西村湯呑さんの
めきめきがときめきに変わった日から君への半歩が月よりとおい
うたの日のコメントに
昔「めきめきメモリアル」というのがあってな……
というのは置いといても、「めきめき」の異質さが目を引きました。
と書いて、
なんのこっちゃと思われた方が
ほとんどだと思います。
「ときめきメモリアル」ならあるけど……って。
古いアニメにホントにあったんですよ。
古いアニメの、しかもスピンオフ作品なんですけどね。
ちょうど、
わたしが今配信中のネットプリントの中に
ある夕は六つ股ソケットなど思い出し我も金など儲けてみたき
っていう、これまた意味不明な短歌があるんですが、
これも、同じアニメからなんですよね。
わー、タイムリーとか思っちゃって、
とても素通りできませんでした。
もちろん、
作者の西村さんの「めきめき」が
「めきめきメモリアル」(by「ああっ女神さまっ小っちゃいって事は便利だね」)
である可能性は低いんですけども。
しかしそれにしても、
「めきめき」という一語が異彩を放ってますよね。
二句目以降の正統派のきゅん系の恋歌を、
この一語だけで、不思議ワールドに変わったみたいで、
面白かったです。

うたの日(4月11日)


うたの日

4月11日のお題は「サンダル」「ベランダ」「夜」でした。

ベランダを鳩が飛び立つのを見たよ昔ふたりが住んでた部屋の(しま・しましま)
なんとなく、
そこを通るたびに見上げてしまう部屋ってありませんか?

この日いいなと思ったうた。
真夜中さんの
ベランダの多肉植物また増えてあなたの声は今日もやさしい
ベランダで植物を育てるうた、たくさんあって、
みんなステキなベランダライフだなぁって
思ってたんですが、
中でもこの「多肉植物」にガツンとやられました。
ちょっと不思議なんですが、
確かに多肉植物を愛する人って、
すごくたくさんの多肉植物を育ててますよね。
一年草のように、
手入れや、随時新しい植物に入れ替え、
とかそういうことが余りない分、
たくさん集めたくなっちゃうんでしょうか。
この多肉植物が増えたことと、
「あなたの声」が今日もやさしいことには、
あんまり因果関係はないんだと思いますが、
肉厚でとげとげのついたものだったり、
全身とげだらけのサボテンだったり、
食虫植物だったり、
そういうイメージが「多肉植物」にあるので、
そのやさしい声にも
なにかうっすらとこわいものが潜んでいそうな
そんな気がしちゃいます。
「また増えて」だから、
多肉植物を増やしてるのは、
主体ではなくて「あなた」なのかな、と。

ルイドリツコさんの
隣からベランダづたいに伸びてきてあいさつみたいにひらく朝顔
植木鉢やプランターに挿してある支柱だけでは足らなくて、
ベランダの手すりからお隣のベランダへ
朝顔が伝ってくる
って、
うたの日にも書いたんだけど、
ありそうでなさそうで、やっぱりありそうな情景だなぁって思います。
それが、
朝ベランダに出たら花を咲かせちゃってる
というステキさ。
多分、もうしばらく前から
蕾に気がついてて、
開くかな、開くかなって
朝ベランダで気にしてたんだろうなって思います。
「あいさつみたいに」
という表現が好きだなぁ。
朝顔って花の明るさもありますが、
やっぱり作者の明るい、嬉しい心情が
「あいさつみたい」って表現に出たなろうなって思います。
飴町ゆゆきさんの
ここですと星がきちんと落ちるようカラにしておく黄銅の鉢
このうたは、
植物を植えるんじゃなくて、
からっぽの鉢をおいているという。
それも真鍮の鉢。
置いてるだけで絵になりそうな
なんとなくクラシカルな鉢を想像してしまいます。
で、
なんのために置いてるのかというと、
「星がきちんと落ちるため」に
「カラ」にして置いてるって
ステキすぎませんか?
メルヘンなんですけども、
「黄銅の鉢」の具体性が、
メルヘン過ぎるのを押さえてるような気がします。
「きちんと」「カラ」というフレーズがあって、
小さな星が落ちてきたら、
この鉢で「カラン」っていい音を立てそうだなって
そう思うともう、ほわわーってなっちゃいますね。
さて、
これはめっちゃ蛇足なんですが、
今回この鑑賞文を書くために、
「黄銅の鉢」が
わりとポピュラーな植木鉢なのかどうか
調べようとググッてみたんですが、
「黄銅の植木鉢」といえば、
オンラインゲームFF11のアイテムが
ずらずらっと出てきて、
めっちゃ懐かしさに浸ってしまいました。
秋軸ざきこ。さんの
少しでも遠くの町に住むきみに近づきたくて ベランダに出る
遠距離恋愛中なのかな
って思ったけど、
別に恋愛中に限定する必要もないですよね。
遠くの町に住む人に思いを馳せる
ということと、「ベランダ」は、
わりとありそうなシチュエーションな気がしますが、
「少しでも」「近づきたくて ベランダに出る」
という、
ホントに少し!
ってところがいいなぁって思います。
「近づきたくて」と「ベランダに出る」の間の
一マス空けは、
今、ベランダに出るアクションを起こしたみたいな
臨場感があるような気がします。
難をいえば、
「少しでも」がすぐその後の「遠くの」に
掛かるのかなって一瞬思ってしまいそうになるかなぁって
ことでしょうか。

うたの日(4月10日)


うたの日

4月10日のお題はすべて自由詠。
つまりお題なし。

わたくしをあらわす赤の生ぬるく朱肉に指を押し付けている(しま・しましま)
そうそうある事ではないけど、
何度かそういう経験あります。
あっ、ヤバいところでお金を借りたりじゃないですよ。

この日いいなと思ったうた。
三田たたみさんの
何事もつつましやかな人生にビエネッタなる黒船がくる
このうた好きです。
つつましやかなユーモア。
「ビエネッタ」を「黒船」って、
ああー、ホントにねっ、言われてみればもう
あれは黒船ですね。
あの豪華なアイスは、
かなり日常から離れた存在です。
見た目も黒船っぽいですよね。
突如やってきた華やかな衝撃。
それを受け入れる側が
「何事もつつましやかな人生」
ってところが好きです。
古臭い言い方をあえてすれば
到来物だったんだろうなって思います。
このビエネッタ。
つつましやかな日常の中に
ふっと現れた黒船と、
その後の楽しいひとときが想像されて
ほのぼの楽しいうただなって思いました。

きよだまさきさんの
あきらめたかたちのままにできなくて窓を見るたび直す前髪
これ、何かしらあきらめたことのある人には、
ずどんと胸に来るうたでしたね。
わたし自身がそうなので、
ホント胸にひびきました。
このうたでも、
多分一度は「あきらめた」つもりだったんでしょうね。
それは気に入った感じにならない前髪かも知れないし、
上手く描けなかった眉かも知れないし、
もっと別の何かかも知れないんだけど、
とにかく一度は、
まあ、仕方ないや
ってあきらめたんだけど、
でも、やっぱり……
ってなっちゃう。
うーん、下の句の女の子らしいしぐさも
わかるなぁ、いいなって思います。
あえて鏡の前でがっつり直すんじゃなくて、
「窓を見るたび」っていうところに
微妙なところが見えてて好きです。
吉川みほさんの
苛立ちの夜を断ち切るためにまたZIPPOのライター、シャリンと鳴らす
喫煙者なのか、そうじゃないのかわかりませんが、
手元にZIPPOライターがあるんですね。
確かに、他のライターにはない魅力があって、
「苛立ちの夜を断ち切るため」の
まじないっぽいアイテムだなぁって思います。
自分で使うためじゃなかったら、
誰かが置いていったもの、とも想像されますね。
このZIPPOライターの
「シャリン」がいいなと思いました。
喫煙のために、
というよりも、
蓋をあけて、すぐ閉じる
という仕草っぽく感じます。
昔、片手でZIPPOを開いて、
手首を振って閉じるのがかっこいいなって
妙にZIPPOにハマって練習しちゃったりしてたことを
思い出してしまいました。

うたの日(4月8日9日)


うたの日

4月8日のお題は「器」「風船」「歌詞」でした。

知らないものを懐かしがってばかりいて静かにしぼむ昨日の風船(しま・しましま)

この日は、投票が出来なかったんですよね。
残念でした。

4月9日のお題は「朝焼け」「土曜日」「支」でした。

土曜日のホットプレートひっそりと人差し指のやけどを舐める(しま・しましま)
昭和育ちのわたしとしては、
土曜日のホットプレートは昼のイメージ。

この日いいなと思ったうた。
音叉さんの
静かなる君の呼吸を数えつつ寝返りをうつ土曜日の朝
「静かなる」の「なる」が、
やや大袈裟な感じもしないではないですが、
「君」への主体の心情が、そこにあるのかな
と、思ったりしました。
土曜だから少し遅起き、
というか少し長めの朝寝をしてるって感じでしょうか。
隣に寝てる「君」を起こさないように、
そっと寝返りをうつっていうのがいいですよね。
起きるんじゃなくて、また眠るつもりっぽいところも
いいなぁ、土曜だなぁって感じがしました。

笠和ささねさんの
土曜日のビームライフル実弾で人を撃つ日が怖くて行けず
「土曜日のビームライフル」
という、
どういう世界観なんだと思う初句が
まず目を引きました。
下の句では今度は「実弾で人を撃つ」です。
なんて殺伐とした世界に主体はいるんだろう……
ってびっくりしますよね。
「ビーム」に対して「実弾」なわけですが、
実弾の方が、生々しくて、
人を撃つ手ごたえみたいなものが、
より強く感じるのかもしれないなぁとか思います。
もしかしたら
「土曜日のビームライフル」は、
ゲーム上の武器なのかな、
家の中でするゲームでは、いくら人を撃っても、
まあ、しょせんゲームだから、って感じですよね。
でも、主体には、実際は行かなければいけないところがあって、
そこでは「実弾で人を撃つ日」があるかもしれない、
という。
これは比喩なのかもしれませんが、
何か人を傷つける、人に傷つけられる恐れがある外には、
こわくて出ることが出来ない主体なのかなと思いました。
月花さんの
家中を掃除機かけて床拭いて耕すような土曜日でした
うーん、
このうたはもうとにかく
「耕すような」がいいなって思いました。
平日は仕事が忙しくて、
家事を丁寧にやってるわけには行かないけど、
その分、土曜はきちんと、
自分が納得いくまで家事をされるんでしょうね。
丁寧な生活ぶりや、自宅への愛着、
そこで一緒に暮らす家族への愛情が感じられて
ホントステキだなぁって思います。

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