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しま・しましま

Author:しま・しましま
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しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(5月30日)


うたの日

5月30日のお題は「やっぱり」「遥」「常」「パセリ」でした。

ピクルスと使い余した休日とパセリをきざむタルタルソース(しま・しましま)
ちなみにうちのタルタルソースは
固ゆでたまごと水にさらした玉葱のみじんぎりと
ピクルスとパセリと
粒マスタードとピクルスの浸かってた液が必須な感じです。

ハートを入れたうた。
冬桜さんの
スパゲティくるくる巻いて君は言う「セパ両リーグとパセリは似てる」
恋人とランチ、
みたいな情景を想像しました。
どちらかのパスタにパセリが使われてたんでしょうか。
唐突に
「セパ両リーグとパセリは似てる」
って発見を
ちょっとドヤ顔で披露してくれる「君」
とか想像して、
うーん、これはめっちゃ可愛くないですか?
って思った次第です。
きっとそれまでの会話に、
「パセリ」はもちろん「セパ両リーグ」の話なんて
一切なかったんじゃないかな。
なんとなく唐突に言い出したような
面白さがありました。
さらっと「君」をスケッチしたような感じが
楽しくてかわいいうただなって思います。
多分「君」はすごく上手にスパゲティを巻いてるんじゃないか
そんな気もします。

音符を入れたうた。
あべせつさん
摘みたてのパセリをひとつ噛みしめる 荒ぶるほどの命の匂い
家庭菜園のパセリなんでしょうか。
「噛みしめる」という行為に
リアリティがあるなって思いました。
パセリってちょっと硬くてごわごわしてて
いかにも
「噛みしめる」野菜って気がします。
摘みたてだから、
普段たべるパセリよりもは
柔かそうだけど、
それでも他の葉物野菜と較べたら
かたいんじゃないかって。
そして、そこに
「荒ぶるほどの命の匂い」を
感じ取られたっていうところ、
すてきだなって思いました。
作者の、その瞬間のおどろき、ですよね。
口から鼻にかけて抜けるパセリの強い香を
読んでいる側も一緒に思い出すような感じがしました。
静ジャックさんの
添えられた緑を食べてみたくなる 夏もパセリはほろりと苦い
普段は食べない添え物のパセリを
妙に口にしたくなるときがある、
そういうことってある気がします。
わたしもそういうことありますし。
まあ、食べられるけど、
そこまで美味しいもんでもないな
っていうのが大体のわたしの感想だったりしますが。
口の中がすこしさっぱりする
みたいなところはありますよね。
前回そうやって食べたパセリも
「ほろりと苦」かったけど、
今口にした「夏」のパセリも、
やっぱり「ほろりと苦い」んだな
って思われたって感じでしょうか。
その裏にある心情をつい考えてみたくなっちゃう、
そんなうただなって思いました。
普段はしないことをしてみたくなる、
初めてする行為ではないこと。
でもそれが習慣にまではならなかったこと。
やっぱりこのうたの主体も、
美味しいとまでは感じないんだろうなって思います。
でも、その「ほろりと苦い」感じに、
なんとなく心が慰められるような気がしたのかも。
パセリのほろ苦さを噛みしめながら、
また気を取り直してやっていこう
って気持になるのかもなぁとか。
「夏」の一語がさわやかで、
きっと主体は前向きになりたくて
パセリを食べてみたくなったんじゃないかなって思いました。
かーむらさんの
夕暮れの運河へ下りる石壁に王党派〈メロン〉のパセリ型発信器
「王党派〈メロン〉」シリーズ、
このうたで三度目の登場になりますね。
だんだんと「王党派〈メロン〉」の動向が気になってきました。
対するのはやっぱり議会派でしょうか。
前の二首の感じからも現在残念ながら主権を握ってはいないような
そんな気がします。
「夕暮の運河へ下りる石壁に」
という描写がまずぐっと来ますね。
架空の国の物語なんだと思いますが、
セーヌ川とかテムズ川あたりでひっそりとあったこと
みたいな気がします。
「パセリ型発信機」っていうのが
めっちゃ面白いですよね。
発想は悪くない気がするけど、
なぜ「発信機」なのか。
そこは「盗聴器」じゃないのか。
そして、
なぜそれが「運河へ下りる石壁に」あったのか。
謎が深まりますが、
夕暮の運河の石壁に
唐突に差し込まれた真緑のパセリ
って、
想像するだけで異様で笑っちゃう風景です。
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うたの日(5月29日)


うたの日

5月29日のお題は「勇気」「書」「狼」「Q」でした。

ハートを入れたうた。
紆夜曲雪さんの
(合鍵もなく狼は日暮れまで立っていた)サイレンがきこえる
()内のことばが実景なのか比喩なのか
どういう情景を詠んだものなのか
イメージで遊んだだけなのか
ちょっと分らなかったんですが、
()の外にある「サイレンがきこえる」が
すごくいいなって思いました。
()内だけだと、
どこかポカンとしたような途方にくれたような雰囲気が
しなくもないんですが、
「サイレンがきこえる」で
ぐっと不穏な雰囲気が漂うような気がします。
わたしの頭の中では、
合鍵がなくて自宅に入れない少年がいて、
彼がこの「サイレン」をきいてる
となってます。
不安定なリズムが少年の不安な気持とリンクするような
そんな感じがしました。

音符を入れたうた。
きつねさんの
オオカミになってほしいと思う夜 もう一杯ずつビールを飲んで
このうたもすごく好きで、
ハートをとても迷いました。
「オオカミになってほしい」って
いわゆるオオカミですよね。
って伝わりにくいですね。
赤ずきんちゃんを襲っちゃう狼というか
「男は狼なのよ気をつけなさい」(古っ)
のオオカミ。
このカタカナ表記がいいなって思います。
「狼」だとちょっと生々しいようなところを
あっさりと表現してある感じで。
下の句もいいですよね。
なんとなく品がよくて可愛らしいなって思います。
「もう一杯ずつ」の丁寧な表現が
このふんわり感を出してるんでしょうか。
じわじわ魅力が増すなぁって
今日になって改めておもううたでした。
桔梗さんの
ぬばたまの影絵のやさしいおほかみがきみの代はりにあやまつてゐる
影絵のおおかみが、
「ごめんね」っていう。
かわいい情景だなって思います。
直接自分の口からは謝れないから影絵で伝えるって
素直じゃないけど素直な「きみ」って感じで
かわいいですね。
「ぬばたまの影絵」っていいなって思います。
わたし自身は枕詞って
全然扱えない言葉のひとつなんですが、
こうやって使われてるところを見ると
ホントすてきだなって思います。
調べてみたら
「ぬばたまの」は黒にかかる言葉で、
そこから黒いもの、髪とか夜、
夜のイメージから夢とか月にかかる
と書かれてました。
「影絵」そのものに掛かってるのかも知れないんですが、
「ぬばたまの(夜の)影絵の」
とか
「ぬばたまの(月の)影絵の」
とか想像するとよりイメージが膨らみます。
うたの日で、
二句目の字余りについて言及させてもらいました。
この字余りのせいで一本調子になっていて
リズム的に山場がないかなぁって思ったんですが
こういうなだらかな流れが
逆にやさしい夜の雰囲気を演出してるのかも
とも今日になって思ったりしてます。
海老茶ちよ子さんの
狼に牙があるならわたしにも狂気くらいはあったっていい
このうたを見て、
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉(三橋鷹女)
今生の狂ひが足らず秋螢(手塚美佐)
という俳句を思い出しました。
このうたの一人称が「わたし」だから、
ということよりも
つい思い出したこれらの俳句の作者がどちらも女性だったから
だと思うんですが、
女性の作者のうたなんだなぁって思いました。
「狼に牙」という武器があるように、
自分にも武器が欲しい。
その武器は「狂気」であるはず。
って感じかなって思います。
表現者としての武器であるかもしれないし
恋愛の上での武器になるかもしれないんだけど、
どちらにしても
たしかに「狂気」は強そうな武器ですよね。
「狂気ぐらいは」ってその「狂気」を
めっちゃカジュアルなもののように扱ってるところに、
逆にそれがなかなか手の届かないところにあるもの
って言ってるようにも思えました。

うたの日(5月28日)


うたの日

5月28日のお題は「全部」「Twitter」「鳥」「商」でした。

夕暮れを鳴きかはす鳥そんなにも終りが来るのが怖いといふの(しま・しましま)
たまたまこの日の夕方、松江城山のはしっこにいたんですが、
聞いてる自分が不安になるぐらい鳥が鳴いてて、
こんなうたになりました。

ハートを入れたうた。
桔梗さんの
ハシビロコフと書けばロシアの殺し屋のやうなる鳥のまなざししづか
「ハシビロコウ」、あの大きな鳥の佇まいが感じられるうたでした。
すてき。
端正ななかに、遊び心がいくつもあるところもすてき。
すてきでした。
「ハシビロコウ」は漢字で書くと「嘴広鸛」。
くちばしの広いこうのとり、という意味ですね。
なので、たしかに旧かな遣いで表記すると「ハシビロコフ」。
うん、たしかにロシア人の名前みたいにも思えます。
このうたは旧かな遣いで書かれた作品ではありますが、
そうするとやっぱり「はしびろこふ」とそのまま音読したくなります。
それに、「ロシアの殺し屋」!
「まなざししづか」で終わる端正なうたに、
まさかの定番ダジャレが仕込んであるとは。
「ロシアの殺し屋おそロシヤ」の殺し屋ですよね。
(と、決め付ける)
誰も見たことないけど、みんな知ってる
あの「ロシアの殺し屋」を思い出させる名前になる
っていうの、面白くてすごく好きです。
ハシビロコウって、灰色の大型の鳥で、
とにかくじっとしてる、というイメージなので、
その辺りもたしかに「殺し屋」的な雰囲気にマッチすると思うんですが、
それを「ハシビロコフ」という名前の方で使って、
そのまなざしはただ「しづか」としたところ、
うーん、カッコいいなって思いました。
「ハシビロコフと書けばロシアの殺し屋のやうなる」→「鳥の」→「まなざし」
までがひと繋がりで、
最後にびしっと「しづか」と置かれたところがまた
すてきすぎました。

音符を入れたうた。
紆夜曲雪さんの
もうゐないもののけはひのきらめきていま月光のすまふ鳥籠
美しい映像が浮かんで来るうたでした。
わたしはだいたい一度目読だけじゃなくて
実際声に出すか出さないかは別として
一応口の中で読んでみる派なんですが、
このうたの魅力は四句目の
「いま月光の」の部分だなって思いました。
ここにめっちゃ盛り上がりがあるなぁって。
その鳥籠には、少し前までちゃんと鳥がいたんでしょうね。
今はからっぽの鳥籠なんだけど、
なんとなくそれを片付けることが出来ないままだった、
みたいな感じを想像します。
ふっとあの鳥がいるような気配がして、
思わずからっぽの鳥籠に目をやると、
そこに一条の月の光が差し込んでた、
みたいな。
美しい情景だなぁって思いました。
ペットを亡くしたいたみや喪失感が、
ほんのり昇華していくような気がします。
ただ、
「月光がすまふ」より前に、
「きらめき」が登場すると、
「月光」のインパクトがやや薄れるかもとか思いました。
あと、
これはわたしだけかも知れないんですが、
上の句のオールひらがながちょっと読みにくくて、
最初
「もうゐない」「もののけは」「ひの」「きらめきて」
と読んでしまって、
「日?火?どっちにしても月光じゃないな」とか
とんちんかんなことを一瞬思ってしまいました。
すいません。
有櫛由之さんの
梟の啼き声に遭ふ夏にしてきみのふるさと 夜深かりき
うたの日には
夏の夜って生命感にあふれた感じがありますが、普段の生活で耳にする事のないフクロウの声、生活の明るさの届かない夜の暗さに圧倒されたのかもと思いました。
と、コメントしましたが、
実は、もう一つ、
どうしてもこのうたで思い出してしまうものがあって、
それを重ねて読んで、
いいな、好きだなって思いました。
それは、「ふるさとは、夏」(芝田勝茂)という児童文学。
この作品から、その本を思い出して、
余計うわーってなりました。
アニミズム的な生命力だなって。
田舎の夏の夜を体験したことへの、
いつまでも色褪せない思い出だけじゃなくて、
そこで生まれ育った「きみ」への
思いも感じさせるうたって思いました。
chariさんの
いつまでもただの小鳥じゃないのです投げ捨てられたシュシュは空色
「投げ捨てられたシュシュは空色」が
鮮やかですてきだなって思います。
いつまでも籠の中に守られて生きる小鳥なんかじゃないんだって
飛び立っていく感じと
イメージが重なります。
いつまでもあなたの小鳥なんかじゃない
みたいな雰囲気だと
ちょっと不健康な感じがしますが(当社比)
「いつまでもただの小鳥じゃないのです」
って、なんかいいなって思います。
「ただの」の辺りに色々な想像が広がる感じもあるし、
今まで自分を小鳥のようにしていた誰かへの
ほんわりとしたやさしさがあるような気がします。
「シュシュ」は髪をまとめるためのものですが、
ぎゅうぎゅうに縛り上げるようなものじゃないですよね。
とてもやさしく見守られてきた小鳥だったんじゃないか
そういう気がします。
土屋タオルさんの
ひとだかり押して進めばペンギンのなにかに耐えている立ち姿
「ペンギンのなにかに耐えている立ち姿」が
ホントいいなって思いました。
多分、主体がそうだと思ったときのハッとする感じが、
そのまま読んでいるわたしに伝わってくるようでした。
この「なにかに耐えている立ち姿」という
四句五句の句またがりのリズムが、
ちょっとうねっとしてて、
飲み込めないものを必死に飲み込もうとして硬直してるペンギン
あるいは主体
とリンクしてるのかなって思います。
ええと、
恥ずかしい話ですが、
このフレーズが好きすぎて、
実は
「ひとだかり押して進めば」の部分をまるっと流してましたけど、
うたの日の、別の方の評を読んで、
あー、なるほど、たしかにそういうことなのかも
と、ひとしきり唸ってました。
主体がペンギンに出会うまでの、
軽い導入部分的に考えてたけど、
そこにきちんと主体の姿が描写されてるのに
流しちゃいけないなとか反省しました。

うたの日(5月27日)


うたの日

5月27日のお題は「山」「マナー」「ジェネレーションギャップ」「広島」でした。

ハートを入れたうた。
宮嶋いつくさんの
一息坂峠で仰ぐ大山に息が呑まれてゆく音がする
「一息坂峠」って多分固有名詞なんでしょうね。
山登りの途中でそこで一息つける、
みたいな場所だったんでしょうね。
わたしも割と大山に近いところに住んでるといえば住んでるんですが、
周辺の具体的な地名や峠の名前とかさっぱり分らなくて。
でも、初句に字余りな固有名詞を持ってきたことで、
その土地と作者の近さというか親しさみたいなものが
感じられるような気がします。
で、ですね。
「大山に息が呑まれてゆく音」
がめっちゃいいなって思いました。
実際の音は、作者が吐く息の音じゃないかと思うんですが、
それを
「山に息が呑まれる」
って感じるの、いいですね。
大山のパワーみたいなものを感じられたんじゃないかと思われます。
実は投票した時点で、
二句目で軽く切れているんだと思って、
ということは「一息坂峠」は「大山」の中にあるんだな
って思って鑑賞したんですが、
今日になって、
「一息坂峠で仰ぐ大山」で一繋がりの可能性高いな
と、思いはじめました。
そうすると、
もしかしたら登山ではないのかも。
そうすると、最初にわたしが感じた「息」とは
微妙に違う「息」かも知れないなぁ。
最初に思った「息」は、
登山中の短い呼吸、はっはっっていう、
あれかと思ってたんですが、
見晴らしのいいところで、大きく息をする
というような大らかな「息」だったかも知れないですね。
それはそれで気持のいいシーンです。
「山」を正面から詠んだきもちのいいうたって思いました。

音符を入れたうた。
三田たたみさんの
ヨガでいう山のポーズをとるわれと猫のポーズをとっている猫
「山のポーズ」をしている「われ」と
「猫のポーズ」の猫
という対比が面白いなと思いました。
投票をした時点では、
実は「山のポーズ」というポーズがどういうものか
よく分らなくて、
まあ、ヨガのポーズの一つなんだろうね
ぐらいな認識でした。
なので、
「ヨガでいう」という表現が、
ややまわりくどいかなぁ…
ヨガとして、あえてそのポーズを取ってるだろうと
思うのに、
ヨガをしているといわずに、
「ヨガでいう」っていうの不思議だな
ぐらいに思ってたんですが、
今日になって「山のポーズ」を調べてみて、
ああーって納得しました。
なるほど。一見ほぼ直立状態なんですね。
そこがわかると余計に面白いです。
人として自然なポーズをしている人間と
猫として自然なポーズをしている猫
って感じ?
ミルトンさんの
やりとげた顔をしながら山道をおりてくる人みな鎌を持つ
これは……
いやきっと、山にある公園や遊歩道なんかを維持させるための
草刈ボランティアとか、
そういう人たちなんでしょうね。
続々と鎌を持って、
「やりとげた顔」でおりてくる。
うん、多分そうだと思います。
思いますが、
言葉でそう表現されると、何か怖い想像しちゃいますね。
草刈ならぬ山狩りで収穫があった、みたいな。
シンプルな表現でまともな情景を詠みながら、
読者に怖い想像をさせる、
作者の狙いにハマったかなぁと
非常にやられた感がある作品でした。
こういう遊び心すきです。
久哲さんの
雛罌粟を知らない僕はクマだから山であなたを踏んだらごめん
不思議なうたですよね。
え、クマなの?
雛罌粟を知らないからクマなの?
クマは山で「あなた」を踏む可能性があるの?
という疑問が次々に浮かんで来ます。
ひなげしの花をみて、
それが「ひなげし」って名前の花だと分らなかったことについて
何かいわれた主体が、
そうだよ、そんなことも知らない僕は
クマみたいなものだよって
軽い意趣返しを頭の中でしてる、
っていう情景かなあと
想像したりしてみますが、
実際のところどういう意図なのかはわかりません。
でも、なんとなくキュートで
ちょっと怖い感じが好きだなぁって思いました。
ほのぼのとしつつ軽い嗜虐性がありますよね。
森下裕隆さんの
間違って買ったマウントレーニアのノンシュガー、でもちゃんと飲み干す
そういう「山」かー。
って思わずにこっとしてしまううたでした。
森永が発売してる、コンビニでお馴染みの
あれですよね。
間違ってブラックコーヒーを買っちゃうとか
ノンシュガーを買っちゃうとか、
自販機ネタである感じですが、
「、でもちゃんと飲み干す」が
なんとも言えない可愛らしさと味があって
いいなって思いました。
「ノンシュガー」を「間違って買」ってしまうこと
それ自体がほんのり幼さみたいな感じしますけど、
それ以上に
「でもちゃんと飲み干す」ところが、
生真面目さとか負けず嫌いさとかを思わせて、
可愛い雰囲気がします。

うたの日(5月26日)


うたの日

5月26日のお題は「橋」「コーラ」「火」「絵」でした。

この日はですね、
うたの日ですごい記録がたてられた日でした。
なんと100回の主席!
中牧正太さんおめでとうございました!
このサイトでも中牧さんのうたを
たくさん読ませてもらってます。

この日は、本当は「コーラ」で出そうと思ってたんですよね。
知らない人の長所を力説されながら一口ごとに飲みこむコーラ
というのを。
ところが気がつくと投稿時間を過ぎていて、
あわてて「火」で詠むことに。
ガスの火の青さをいえばキッチンのなんて冷たい結界だろう(しま・しましま)

投票の方は、出すつもりだった「コーラ」と
出した「火」のふたつ、させてもらいました。

ハートをいれたうた。
タノウエチトセさんの
ペプシでは割らない主義です頑なにレシピを守る執着がある
カクテルレシピに「コカコーラ」ってあるものがあるんでしょうね。
たしかに、ペプシコーラとコカコーラは
味がかなり違うので、
割り材として使うのであっても、
その辺りは譲れないところなのかも。
このこだわりを「執着」ってしたところがいいなって思いました。
「コーラ」や「酒」という言葉を直接使わずに、
それらを強く想起させて、
「執着」という言葉で、
その奥の「こだわる自分」みたいなものを感じさせる、
的な感じがします。
「主義」「頑な」「執着」
同じような言葉が並ぶといえば並ぶんですが、
最後の「執着」のダメ押しがすごく好きだなって思いました。
西村湯呑さんの
炎さえきみはやさしく手なずけてぱらり炒まる雨の月曜
いいなぁって思いました。
チャーハンかなって思うんですが、
それを作ってくれる「きみ」も、
そんな「きみ」を
「炎さえ」「やさしく手なずけて」と詠んでくれる主体も、
なんてすてきなカップルなんだろうなって思いました。
チャーハンは火加減の料理、
みたいに言われますよね。
ただ家庭用のコンロだろうから、
本当は炎を手なずけるってほどではなくて、
ぱらりと炒まるのは「きみ」の手腕そのものなんだと思うんですが、
それも分ってての
「炎さえきみはやさしく手なずけて」
なんだろうなとか想像します。
結句の「雨の月曜」
最初は、「雨」はなんとなく合う気がするけど、
「月曜」はなんだろうなって思ったんですよ。
なんか意味があるのかな、って。
でも、だんだんと意味があるのかないのかはわからないけど、
「月曜」のチャーハンいいなって思いました。
なんとなく家庭的な感じがします。
恋人が振舞ってくれるチャーハンじゃなくて、
一緒に住んでる妻とか彼女のチャーハン、
って気がします。
「ぱらり」という擬音の置き方も好きでした。

音符を入れたうた。
nu_koさんの
さよならは氷がとけて透明なコーラの味の水のようです
「透明なコーラの味の水」
あれだ、ってすぐに分る水です。
コーラの味の透明な水、という方が、
すっと分りやすいような気もしますが、
うたのリズム的にはそれじゃ乱れちゃいますね。
恋人に別れを告げられたか、
あるいは意を決して別れを告げたか。
一人残って、すっかり氷の溶けてしまった水をすすって、
微妙な後味を味わってる、
みたいな感じなのかなって思いました。
まあそういうストーリーを作らずに、
丸々比喩としても取れるけど。
終栗夢さんの
バースデーケーキの上のろうそくの火でも消えゆくことをいやがる
読んだ瞬間、
がーんというショックみたいなものを受けました。
ハッピーバースデー!
で、ケーキの上のろうそくを吹き消すって
めっちゃ幸せなシーンじゃないですか。
そんな幸せの象徴みたいな「ろうそくの火」に、
「消えてゆくことをいやがる」
と見る作者、すごいなって思いました。
ケーキにたてるろうそくって、
ほっそいですよね。
その分、普通のろうそくと較べても火が小さい。
しかも、その火は
吹き消すために点されるもの。
そんな存在でも、
「消えゆくことをいやがる」
うーん
確かに、確かにケーキの上のそうそくって
なかなか消えなかったりします。
でもそこを
「消えない」んじゃなくて、いやがっている
って見るところがすごいなって思います。
あまり擬人化は好きな方じゃないんですが、
一寸の虫にも五分の魂、とかいうように、
小さなろうそくの火に魂があるように詠まれてる。
「ろうそくの火でも」の「でも」が効いてますよね。
かっこよく言うと
「もののあわれ」
のうたって思いました。
ハートをどちらにするかとても迷ったうたでした。
ナタカさんの
ひとつずつやるしかないね牛乳をいちばん小さな火で温める
下の句の描写がいいなって思いました。
どんなことでもひとつひとつの工程をクリアしていくしかない、
というのはその通りなんだけど、
そこをあえて言葉にしてる、
これは自分に向けてというか、
脳内の話し相手に自分の決意として語りかけてるような
そんな気がしました。
自分に言い聞かせるというのと微妙に違う
この感じ、理解してもらえるでしょうか。
って人のうたなんですけどもね。
そこに持ってくる「牛乳」がいいですよね。
わたしはホットミルク用と想像しましたが、
用途は何でもいいんでしょうね。
牛乳をお鍋でとろ火で温める、
この丁寧な行為と、丁寧な描写がいいですよね。
レンジでピピッと温めるんじゃ、
この時の主体は駄目だった、
ちゃんと火にかけるという行為が必要だった
って気がします。
中山とりこさんの
禁煙はしない毎日火が見たい オール電化は青すぎるから
「オール電化は青すぎる」
雰囲気を掴むしかない抽象的なことばですが、
なんとなく分るなぁって気がします。
わたしはガスの火の青さを詠みましたが、
オール電化であれば、そのガスの火さえ点らない。
過ぎる「青」なのかも知れません。
そんな生活の中で、
小さいけれども、なにか、
電気に制御されない火をみていたいから、
煙草を吸い続けるんだって、
うん、いいなって思いました。
ささやかな、ささやかな野性がそこにあるんでしょうね。

うたの日(5月25日)


うたの日

5月25日のお題は「畳」「車」「カレー」「南」でした。

この日は「カレー」に投票しました。

ハートを入れたうた。
スコヲプさんの
立ちのぼるカレーの匂いに止まらないぼくにも帰る場所があるから
いいな、ほわっと温かいものがひろがるうたでした。
夕暮れの住宅地、
知らない家からふとカレーの匂いが漂ってくる。
カレーの匂いって、
やっぱり家庭の匂いですよね。
主体はきっと何度も何度も、
カレーの匂いに立ち止まらされたことがあるのかも。
でも、今は
「帰る場所があるから」立ち止まったりしなくていい。
「ぼくにも」の「も」がいいですよね。
すごくやさしい視点の「も」だと思いました。
(今カレーの匂いをさせてる家の、そこへ帰る人と同じように)
っていう、自分以外の人にも
そっと思いを馳せてる感じがして。
「立ちのぼるカレーの匂い」って、
いきなり読む側にもそのカレーの匂いを想起させるようなところとかも
ぐっと心を掴まれるポイントでした。

音符を入れたうた。
雨宮司さんの
太り気味そしてカレーが大好きな私は当然キレンジャーじゃない
うん、
こういうすっとぼけた当たり前の事を言っちゃううた、
嫌いじゃないです。
「当然」がめっちゃいいなって思いました。
あえてのぬけぬけ感って感じで。
そりゃそうですよね、
としか言いようがないのに妙に
言ったった、
みたいな感じが面白いなって思いました。
たかだ牛道さんの
雨だれは罪科のごとく並び落ち昼のカレーは胃をもたれしむ
憂鬱な午後
というには余りにも重いですね。
「雨だれ」が「罪科のごとく」って
なんて重たく降る午後の雨なんだろうって思います。
なんで「並び落ち」るのが「罪科」っぽいんだろう、
それって主体の心象を投影してるからなんでしょうね。
この重さの理由のほとんどは
消化不良の「昼のカレー」のせいではないと思うけど、
気持が落ち込んでると
胃の活動ペースも落ちちゃうだろうなとか思います。
せめて雨ぐらいは、
もうちょっと景気良くざっと降り出してしまえばいいのに
とか、そういうことを思わせるうたでした。
「罪科」というフレーズや胃もたれするカレーで
十分重いので、
二句目の字余りはなくてもいいのではないかな
とかちらっと思いました。
月花さんの
不自由なようで自由な毎日だ 今日も社食でカレーを食べる
「不自由なようで自由」、
自由なようで不自由ではないところがいいなって思います。
枠があるから出来る自由さってありますよね。
下の句の「今日も社食でカレーを食べる」の
さらっとした詠み方も好きです。
一会社員としての気楽さのようでもあり、
気楽さのようでもあり。
うーん、これはなかなか深い下の句だなぁって思います。
「自由な毎日」とかいいつつ
今日は、じゃなくて「今日も」ってところも、
なにやら味わいぶかいなって思いました。
大人なうたです。

うたの日(5月24日)


うたの日

5月24日のお題は「歩」「おしゃれ」「攻」「サンショウウオ」でした。

なんとなくわかったと思いますが、
ここのところ一日おきに投稿してます。
なので、たまたまですが、
「サンショウウオ」のお題が昨日でホントよかった!
サンショウウオ、
というよりも
オオサンショウウオが大好きなんです。
きっかけは、
ある水族館で当時展示してあった、
成体のオオサンショウウオの模型に出合ったこと。
触ってOKの展示だったので、
触り尽くして、そしてすっかりファンになってしまいました。
もともと爬虫類とか両生類は好きだったんですが、
もうオオサンショウウオは別格ですね。
今回は、投票も楽しくて、
普段より少し多めになってしまいました。

オオサンショウウオは吐き出す ながいながいゆめをみていたなごりの水を(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
藤田美香さんの
新しいクラスに山椒魚がいてノート貸したり借りたりする仲
ああ、すごく好きなうたでした。
めっちゃ想像が広がります。
この山椒魚は、
もしかしたら、真珠取りをしていた山椒魚の末裔なんじゃないんだろうか、
とか。これはカレル・チャペックの「山椒魚戦争」からの連想ですが。
田舎の学校で、
いつの間にか人間の子供の中に
オオサンショウウオが紛れ込んでるって考えるのも楽しかったです。
「サンショウウオ」が漢字表記なのもいいなって思いました。
前述の「山椒魚戦争」もそうですが、
今回の投稿歌でけっこうモチーフにされていた(とおもう)井伏鱒二の「山椒魚」も、
いわゆるサンショウウオではなくて、
オオサンショウウオのことですよね。
このうたの「山椒魚」も、ずんぐりでっかいオオサンショウウオなんだろうな
ってすんなり入ってきました。
「ノート貸したり借りたりする仲」
っていう下の句もいいですよね。
リズムがすごく明るくて楽しくて、
すてきにポップな「サンショウウオ」のうたでした。

音符を入れたうた。
小宮子々さんの
雨の夜をひとりで眠る剥製にされたサンショウウオのかたちで
「剥製にされたサンショウウオのかたち」
で、眠るって、
これはなかなか大変なポーズで寝ることになるのかなぁ
ってまず思いました。
まず、うつ伏せ寝は決定ですよね。
まあこれは「剥製」にされたものでなくても、
同じポーズではあるんですが、
あえて「剥製にされたサンショウウオ」であるって
いうところにぐっと来ました。
多分、じっと動かないでいるんでしょうね。
そして、目を閉じて、
雨の音だけを聞いている。
ひとりっきりで水底にいるような気持がしそうです。
「剥製にされたサンショウウオ」のように、
何も考えたりしないで、
ただじっと、水の底に沈むように眠りにつこうとしている
そういう情景を想像しました。
下弦さんの
いつからか胸に流れる小川にはあの娘がサンショウウオと住んでる
「あの娘」はきっと主体が気になっている女の子ですよね。
いわゆる不思議ちゃんではないけど、
でもどこか不思議な雰囲気があって、
ぐいぐいアピールすることが躊躇われる、
でもとてもチャーミングな女の子、とか想像します。
「いつからか胸に流れる小川」
がいいですよね。
片想いのうただけど、清涼感や明るさが感じられます。
もともと主体の「胸に流れる小川」には、
サンショウウオが住んでたんだけど、
いつからか、「あの娘」もそこに住むようになってた、
胸の中では「あの娘」も「サンショウウオ」も、
お互い楽しそうにやってるようだ
みたいなところまで想像してしまいました。
堂那灼風さんの
鬱々と引きこもりがちな六月をサンショウウオの指輪と過ごす
「六月」。
梅雨時ということもありますが、心身ともにそういう気持になりそうな
そんな月って気がします。
それを「サンショウウオの指輪」と乗り越えるという主体。
銀細工の指輪って様々なものがありますが、
その中でも、蛇とかトカゲとか、
比較的手に入りやすいモチーフではなくて、
「サンショウウオ」を選んで、
これと過ごすっていうところが
水っぽい「六月」に似合ってるなって思いました。
「鬱々と引きこもりがちな」というフレーズは
最初、重くて説明的かなとも思ったんですが、
「サンショウウオの指輪」が
ちゃんと受けとめてくれそうって思いました。
気分上げてくれそうでもあるし、
そんな「六月」に肯定的に同化させてくれそうでもある、
そんな指輪かなって思いました。
桜望子さんの
山椒魚揺れる都会の街角で変わっているねと言われるために
サンショウウオモチーフのアクセサリーとか
ストラップ的なものとかを想像しました。
山椒魚自体、たしかに好き。
でも、それを身につけてアピールするのは、
ある種のプロテクトとしてなんだ
っていうようなイメージをもちました。
「変わっているね」を喜ぶ自分って
本当は認めたくないところだと思うんですが、
そこをすぱっと言い切ったところ、
シニカルでいいなって思いました。
跳ね返って、自分にも響いてきて、
ちょっとしんどいところもありましたが。てへ。
絹更ミハルさんの
ペンギンとサンショウウオの小屋なくし明るく寂しくなった公園
「ペンギンとサンショウウオの小屋」!
そんなものがある……いや、あった公園!
もう、
そう考えるだけで嬉しくなってくるうたでした。
それにしてもなんていう組み合わせなんだろう。
これが実際の景だとしても、
空想の景だとしても、
考えるだけで楽しくなってくるなぁ。
(どうやら、実際にそういう公園があったという話なんですが、
それを知ると余計に嬉しい気持になりますね)
やや大きい公園なんでしょうね。
わたしの知ってる何かを飼育している公園って
何故か「猿」と「鳥」の組み合わせが多いんですが、
こんな水っぽい生き物の小屋があるって
うん、
しつこいようですが、ホントすてき。
でも多分、老朽化したときに、
目も当てられないことになってそうでもあります。
だからこそ、撤去されたのかも。
主体も、特に頻繁にそこを訪れる人ではなかったのかも。
でも、その建物が撤去されて、
がらんと明るいスペースを見たとき、
何かこみ上げてくるものがあったんだろうなって思います。
荒井青さんの
真向かいの家で桜が咲いたらしいが僕の部屋には小海老もいない
言葉として「サンショウウオ」が登場しないうた。
描写としても「サンショウウオ」は登場しません。
それは多分、「僕」自身が山椒魚だったんじゃないか
って思います。
それも、井伏鱒二の「山椒魚」だったんじゃないかなって。
岩屋から出ることができないあの山椒魚。
部屋から出ることが出来ない「僕」を、
そこに重ねたうたと思いました。
で、
僕を慰めるものとして、
いや、慰められないものとして登場するのが
「小海老」。
蛙ではなくて、小海老ってところが
「僕」の感性なんだろうなって思います。
近所に咲いた桜さえ見にいけない「僕」と、
この物思いを共有してくれるの「小海老」だろうと
思われたのかなって思いました。
ところで、
このわたしの感想があさっての方向だったら
別にかまわないんですが、
井伏鱒二の「山椒魚」だったとしたら、
「小海老」表記はどうかなぁって、ちらっと思いました。
今、手元に本がないので、確認が出来ないんですが、
別の表記だったような気がします。

うたの日(5月23日)


うたの日

5月23日のお題は「コンビニ」「歯ブラシ」「菱」「壁」でした。

この日は「菱」に投票してみました。
いつもより一首分を多めに感想書いたので、
それを転載しつつ一言だけ。

ハートを入れたうた。
白黒つけたいカフェオーレさんの
あらためてナポレオンの辞書にない言葉:不可能、まきびし、向田邦子
うたの日で
ナポレオンの辞書に不可能がない話はもう散々さまざまなことで使われるネタになってますが、そこをまた逆手にとったような初句の「あらためて」がいいなってぐらっとしました。
「不可能、まきびし」とならんだところで、ぐらぐらっとして、最後の「向田邦子」で陥落してしまいます。何を持ってきてもまあまあ様になるかとも思いますが、多分、「向田邦子」だけは思いつかないだろうなって思います。
とコメントを入れました。
そう、
「向田邦子」。
参っちゃいますよね。
唐突に「向田邦子」が放り込まれちゃって。
おかげで頭の中が「向田邦子」でいっぱいになっちゃいました。
昭和中期の美しい日本で
頭の中がいっぱいになって、
おもわずハートを入れてしまいました。

音符を入れたうた。
矢波多恵さんの
いつか来るいつかはいつ来る 前を行く母の四つ菱紋を見つめる
うたの日で
母の紋付の背中を見つめる主体。そういう姿を見る機会というのはいくつか考えられますが、お葬式なのかなって思います。今回は母も自分も見送る側だったけれど、いつかは…という思いをもたれたんでしょうか。「いつか来るいつかはいつ来る」言葉遊びのようだけど、「いつかはいつ来る」にじんと胸を打たれました。覚悟はしとかなければいけないだろうけど、いつまでに覚悟を決めないといけないのか、考えるだけでも辛いですよね。
というコメントを入れました。
上の句の噛み締めるような心情がやっぱりいいなって思います。
この上の句を踏まえての、
「前を行く母の四つ菱紋」の情景が
鮮やかに浮かぶようでした。
藤 かづえさんの
独唱の山ほととぎす飛び去りて菱ヶ岳全山みどりなり
うたの日で
主体は、菱ヶ岳を臨むことが出来る別の山裾にいるんだろうと想像します。
一羽のホトトギスの鋭い鳴き声が響いたかとおもうと、鳥が飛び去るのが見えた。そして、目を転じると「菱ヶ岳」が開けているのが見えて、それが「全山みどり」だった、といううたかなと思います。
この「菱ヶ岳」という山をわたしは全く知らないんですが、初夏の山歩きの感じが臨場感があっていいなって思いました。下の句でリズムが乱れるのが残念な気がしました。
とコメントしました。
「飛び去りて」で、
明らかにそれきっかけで
主体の視点が移る様子がわかるみたいで、
わたしはいいなって思いました。
那須ジョンさんの
きらきらはひし形だよという君と時間をかけて図形をさがす
うたの日で
状景を想像するための言葉が少なくて、もしかしたら全体的に比喩なのかも知れないけど、なんとなく夜空の星を一生懸命繋いでる二人が想像されました。
「きらきらはひし形だよ」ってすてきなフレーズだなぁって思います。「君」は、恋人でもいいんだろうけども、とても仲のいい友達とか想像しました。
とコメントしました。
たくさんの図形に囲まれた二人、
というところから、
夜空を連想しました。
なんとなくイノセントな雰囲気があって
二人の少年とか想像してしまいましたが、
色々と想像の余地があるところも
このうたの魅力だなって思いました。
亜梨さんの
校章の菱形はペンの形だとペンを握らなくなってから知る
うたの日で
在校時に教えてくれれば……って、きっとそのころも校章の由来を誰かが何かの折に語ってたのかも知れないけど、その頃はきっと全然心に響かなかったのかもって勝手に想像を膨らませてます。
さらっと詠まれて味わいのあるうたって思いました。
とコメントしました。
しみじみといいうただなぁって思います。
うん。
今知ったから何なんだというと、
それはたしかに何でもないことだけど、
なにかこころに響くものがあった
っていう主体の心の機微が感じられます。

うたの日(5月22日)


うたの日

5月22日のお題は「席」「近所」「甘」「受」でした。
この日はわたしが参加した「近所」が十五首だったことから、
全首にコメントを入れてみたんですが、
うーん、やっぱり難しさを痛感しました。
ここでいつも書いてるように、
すきなうたには止め処もなく書けるし、
ここが惜しい、ここが気になる、ここが分らない
というのは書けるんですけども。

ご近所がえぐられていく真っ青なビニールシートは手早く張られ(しま・しましま)
別に殺傷事件の現場を覆うビニールシートではなかったんですが、
あの目に鮮やかなブルーシートってどういう場面でも
身近な町にあると異物感はんぱないですね。
大体それが撤去されても、以前と同じ場所とは思えなくなっちゃう、
そんな場合が多い気がします。

ハートを入れたうた。
たかだ牛道さんの
道に描いたライオンの絵を「上手ね」と言いながら消す向かいの小母さん
このうたと、もうひとつのうたでハートを迷いましたが、
「小母さん」という、
なんとなく昭和を思わせる漢字表記が好きだったので
こちらに入れました。
道に落書きをする子供、
というところからすでに、なにか昭和な雰囲気ありますね。
お向いのおばさんがそれを見て、
「上手ね」って「言いながら」消す。
うーん、やさしいんだかシビアなんだかっていう人だなぁ。
もう何回か、こういうことがあったのかなぁとか
想像が広がります。
初回なら、多分道にらくがきすることについての
教育的な指導が一言ぐらいあるんじゃないかなぁ。
「上手ね」っていってくれるぐらいの人ならば。
まただよって気持で、
それでも絵そのものについてのコメントを残してくれる
っていうのは、
それが「上手ね」を言い終わらないうちから消していく人でも
やっぱりやさしいおばさんなんじゃないかなぁ。
というのは、大人目線の感想ね。
ぐっと子供目線に入って読むと、
これはなかなかこわい状況って思います。
地面にしゃがんで一生懸命描いていた「ライオンの絵」
そこにふっと影がさして、
みあげたら、向かいのおばさんが立っている……。
ところで、
道に絵をかくのって、
やっぱりチョークとかでしょうか。
それを消すって、
外用の箒とかなんでしょうか。
これが水をかけて消すんだったら、
より怖い気がしますが、
箒であってほしい……とか思いました。

音符を入れたうた。
吉川みほさんの
せわしないメジロさみしいインコがいる 九官鳥による鳥事情
ハートを迷ったうたのもうひとつが一首でした。
うーん、これすごく好き。
もうね、
「せわしないメジロさみしいインコがいる」
という上の句がまず好きです。
庭に来る野鳥可愛さナンバーワン(とわたしが思っている)メジロに
「せわしない」、
おしゃべりで明るいイメージのインコに
「さみしい」
という形容詞がそれぞれ与えられてるところ、
なんてすてきなんだろうって思いました。
で、しかもそれらを見つけて、
主体に教えてくれるのが
「九官鳥」って。
うーん、いいなぁ。
九官鳥がぐぐっとクローズアップされた感じがしました。
毎日散歩に出る犬でもなく、
勝手に外をうろつく猫でもなくて、
多分、家の前の鳥かごの中でじっとしているだけの
九官鳥が、ご近所のことを教えてくれるっていいなぁ。
めっちゃ耳がいいんでしょうね。
再現も上手そう。
「鳥事情」で締められたユーモアもすてきでした。
萩野聡さんの
見下ろして近所の浅川にすこしづつ魚がもどつてきたことを知る
うちの近くの川も、
まあかなりの田舎ではあるんですが、
わたしが子供の頃は
夏休み前のプリントに、
あえて「遊泳禁止」と注意書きがされるぐらい
汚れた川だったんですが、
何時ごろからかきれいな川を取り戻す活動が始まって、
今は(場所によるけど)蛍が見られる川になりました。
このうたの川も、
そういう川なのかなって思います。
「見下ろして」の、
やや唐突な初句、いいなって思います。
川と主体の距離感が、ほんのりある感じがします。
川をきれいにする活動を、
知ってはいるけど、参加したことはない、
ぐらいの主体っぽい気がしました。
小さな魚影が見えたのか、
夕日の中にきらきらと小魚が跳ねる光が見えたのか、
とにかく何かしら「魚」が見えたんだろうな。
ただ、二句目の字余りがリズムを崩してるのあg
気になるんですよね。
「浅川」っていうのは、その川の名前なんでしょうか。
単なる浅い川という意味なんでしょうか。
あえてリズムを崩してまで「川」でなく「浅川」とした理由が
ちょっと分らないなぁって思いました。
塾カレーさんの
バス停のそばに立ちたる白樺が幸といふ字のごとく見ゆる日
一目見て、作者が誰かわかっちゃったうたでした。
うたの日ではなくて、
第17回のうたの人(お題「幸」)に塾カレーさんの
薄暗き病室(へや)から見ゆる白樺は幸と云ふ字のごとく立ちたり
といううたがあるので、
「白樺が幸という字に見える」というモチーフを
改めて詠まれたんだろうなって。
改作というよりも、
角度を変えてこのモチーフにもう一度トライされたのかなぁ
とか思いました。
で、
今回は白樺の方に「バス停のそば」という場所が与えられたことで、
ぐっと白樺のリアリティが出ていいなって思いました。
それを見る主体の立ち位置も自ずとリアリティが出る
……ような気がします。
「バス停のそば」の、見通しのよさそうな明るさがいいなぁ。
主体はそこから少しはなれた所で、白樺を見ている感じがします。
何かの模様がふっと別のものに見える、
それが「幸」に見えた、
っていうのは、
何かしら主体が「幸」についての思い入れがあって、
現在のところ幸せだとは思ってない人なのかもしれないんですが、
明るい場所を与えられて、
ふと心に「幸」へのあこがれみたいなものが差したのかな
とか、幾分明るいイメージがあって、いいなって思いました。
ただ、「近所」感はあまりないかも。
お題が「近所」だから、近所にあるバス停なのかなって思うけど、
ちょっとやっぱりお題からは遠いような気もしました。

うたの日(5月20日)


うたの日

5月20日のお題は「風呂」「楽器」「稲妻」「万」でした。

音のないとおい稲妻 書きだしのまま投げ出したゆうべの手紙(しま・しましま)

ハートをいれたうた。
井田直さんの
晴れた日に稲妻柄の傘を買う ストックしてるうたは燃やそう
まず、下の句の
「ストックしてるうたは燃やそう」
にガーンと打たれてしまいました。
ストックどころか、
結局形にならなかったフレーズや
あきらかな失敗作まで、
なんとなくメモ帳に残しているわたしですが、
この思い切りの良さは
とても羨ましい。
すてき。
かくありたい。
って、まあ、作中主体も、
まだそれを行動に移してはいないんですけれど、
そう思いつくところがいいなって思いました。
で、
その力をくれるのが、
「晴れた日」であり「稲妻柄の傘」であり
「買う」という行為なんだと思います。
今必要、ってわけじゃないものを買うのって
何か心が豊かになるような気がします。
それがしかも「稲妻柄の傘」。
鋭角的でポップな柄を想像します。
うん、力をくれそうな柄って気がします。
未練がましいことは捨てちゃって、
また一から新しく作ればいい、
そういう気持にさせてくれそうだなって思いました。

音符をいれたうた。
きつねさんの
新商品禁断の果実味を食べじゃがりこガールに走る稲妻
「禁断の果実味」
いいですね。
りんご、桃、ざくろ、いちじく。
具体的に想像すると、
何の果物にしてもどこか淫靡な感じがします。
しかし、わたし的にこれが一番禁断だろうと思われるのが、
果実味のじゃがりこ
である可能性が高いこと。
「じゃがりこガール」が口にするんだから、
これはやっぱりじゃがりこであって欲しい。
しかしフルーツ味のじゃがりこ……。
かつてわたしを
番宣CMで流れた一言だけでとりこにした
伝説の塩メロン味のポッキー(だと思われる)をも
凌駕する未知の味がしそうです。
「じゃがりこガール」に走るのは、
禁断の果実を口にした何かのめばえなのか、
おそるべきミスマッチへの驚きなのか。
上の句にあたる部分にスピード感があって、
それが「じゃがりこガール」に
稲妻が走るまでの時間の短さを感じさせるようで
いいなって思いました。
そして、さっきから、鍵カッコつけて
しつこく引用してますが
「じゃがりこガール」ってフレーズのポップさが
大好きです。
詩穂Pradoさんの
イナズマの激しい光浴びながら 海牛たちの祭りはじまる
ここだけの話、
もとのうたは初句が「イマズマ」になってたんですが、
実はご本人から書き間違えと言われるまで
全く気がつきませんでした。
下の句の「海牛」と対比させるなら、
漢字で稲妻でもいいんじゃないかなぁとか
そんなことを思ったぐらいで。
さて、
その「海牛」ですが、
これは普通に「うみうし」と読ませるのか、
「かいぎゅう」と読ませるのか、
そこがちょっと分らなかったんですが、
稲妻の光の下で祭りという情景は、
ジュゴンとかマナティのような大型のものよりも、
ウミウシの方が、
ぽいかなぁと。
海上の稲妻のマクロと
浅い海の中の海牛たちの祭りのミクロの
対比も印象的だし、
なによりイメージが妖しく美しいじゃないですか。
やだすてきすぎる。
たかはしみさおさんの
稲妻をぼんやりみてる濡れた髪ああフラれたとようやく気づく
うたの日の他の方の評をみて、
ああ、雨の中にいる、
という状況も確かにあるなぁ
って気がつきました。
わたしは、うたの日に
呆然と帰宅して、機械的にいつものようにお風呂に入って、
稲妻が落ちる窓の外を無感動に見ているうちに、
「ああフラれた」とやっと事態が飲み込めてきた、という感じかなって思います。
稲妻が雨を連れてくるように、このあとの主体の心境を考えると辛いです。
ってコメントしたんですが、
雨で濡れた髪って、
その時はもう全然思い至りませんでした。てへ。
もうね、
家でお風呂入って髪を洗った後だとばっかり。
「稲妻をぼんやりみてる」「濡れた髪」「ああフラれたとようやく気づく」
という切れ方をするうたと思うんですが、
「稲妻をぼんやりみてる」「ああフラれたとようやく気づく」
に、ぴょっと挿入された「濡れた髪」の存在が、
フラれたと気づく前に、主体に認知されないといけないような
そんな気がして……
と、ここまで打っておいてなんなんですが、
もしかしてこのうたは
「振られた」と「降られた」が掛けられてたのかな
って今の今気がつきました。
そうなのかな……。
高岡恵さんの
われらこそ白き稲妻騎馬戦の先頭役にて顔を擦りむく
面白くて音符を入れました。
運動会の騎馬戦で「白き稲妻」というネーミング、
しかも「われらこそ」という
めっちゃ力の入った中二っぽい詠み出しが面白いですよね。
しかも「先頭役にて顔を擦りむく」
というオチまであって。
「稲妻」並の速さで墜ちていったような感があって、
思わずふふっとなってしまいました。

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