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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(6月29日)


うたの日

6月29日のお題は「院」「あきらめ」「竹」「OK」「コーヒー」でした。

わたくしが諦めたならこの缶のつぶつぶコーンはどうなるのだろう(しま・しましま)
現在のうたの日では、
成績の発表までの間、誰にいくつ評が入っているか、
だけがわかるようになってます。
で、昨夜わたしのうたに6つの評が付いているらしい
と知ったとき、
もしかして叱られてるんじゃないだろうか
って不安がありました。
というのは、
わたしが出詠したこのうたですが、
下敷きにしたものがある、
というか、
オマージュというか、
本歌取り的なものだったので、
わたし自身はそういうつもりだったのだけど、
これは悪質と取られてしかられているかも
みたいな不安がありました。
さて、誰のどんな短歌のオマージュかと言うと、
山崎方代の
私が死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう
です。
「あきらめ」という題に対して、
うかんできたイメージのひとつに
この山崎方代氏があって、
彼の温かい血の通った人間味のある諦観に
ずっと惹かれてるんですよね。
でも、それを短歌で表現するのは難しいなぁ
って思って、
結局こういう形になりました。
でも、難しいですよね。オマージュ。
太田青磁さんにいただいた評で、
初句と結句のギャップを褒めていただいたんですが、
おおぅ、なんということでしょう。
そここそ、山崎方代部分ではないですか。

ハートを入れたうた。
詩音さんの
油汚れのようにしつこい「あきらめ」はたぶん一生へばりついてる
なにか、やや固めのゲル状の汚れみたいな「あきらめ」ですね。
でも、言い得て妙な表現だなぁって気がします。
過去に大きな決断をした人ほど、
大きな「あきらめ」がへばりついてるんでしょうね。
大きな「あきらめ」や小さな「あきらめ」ででこぼこになって、
それが人生ってものなのかもなぁって
そんな気もします。
「あきらめ」が「しつこい」って面白いですね。
「あきらめ」自体に意志があるみたい。
そうやって時々自己主張して、
「あきらめ」を作った張本人である主体を苦しめたりするんでしょうね。
うんうん、あるよねーって
めっちゃ共感しちゃいますね。
あのときあきらめなかったとして、
それが叶ったかどうかは別として、
今とは違う自分でいたんじゃないかとか
考え出すともうたまらない。
だから普段は考えないようにしてるけど、
時々こうやって自己主張して来られると……。
「油汚れの」という初句の字余りも印象的でした。
いかにもべったりへばりついてる感があります。

音符を入れたうた。
宮嶋いつくさんの
ごみ箱に捨てては拾う夢破れとも言えないであきらめた夢
どこで切る感じで読むんだろう
って、ちょっと面白いうただなって思いました。
「ごみ箱に捨てては拾う夢」
「夢破れとも言えないであきらめた」
「あきらめた夢」
みたいに、ちょっとずつ重なって繋がっていくような、
不思議な繋がり感がありました。
本当は
「ゴミ箱に捨てては拾う(夢破れとも言えないであきらめた)夢」
なのかも知れませんが
まだ逡巡の途中のようなぐだぐだ感が
この切れ目のない感じと合ってる気がします。
「あきらめ」という題で、
「ゴミ箱に」という直截なイメージの言葉から入って、
「夢」というフレーズを二度も使う
ってところに、
主体の、何らかの夢をあきらめた……
というか、あきらめないといけないんだ
と思ってる感じが強く漂う気がします。
「夢」ですしね、
出来れば、出来れば諦めたくはない。
もういっそ、「夢」の方が破れてなくなってくれれば
はっきりと思い切れるのに……。
みたいな気持、うーん、分り過ぎて辛いです。
2600さんの
もういちど、さあもういちどと繰り返し子は諦めることを覚える
なにか、ぞわっと怖いうた、という気がしました。
「もういちど」
ワンモア、トライアゲイン、リトライ
次こそはうまく行く
みたいな未来への明るい展望がある言葉なのに、
「もういちど、さあもういちど」と繰り返されると怖いですね。
「さあ」にある押し付けがましさみたいなものが
そう思わせるんでしょうか。
簡単に諦めないでほしい気持からの声かけなのに、
最終的に、
こんなにやったけど駄目だった
駄目なものは駄目なんだ
って「子」に体感させる結果になってしまう。
ところで、この「子」ですが、
不特定多数の幼い者、いわゆる子供
とも読めますが、
我が子の「子」と読めて、
余計に怖い感じがしました。
まるで親である主体が、
最初から「諦めることを覚え」させることを目的として
声かけをしてきたみたい。
そこからひっくりかえして、
この「子」は主体自身とも取れるなぁとも思えて、
うーんやっぱり怖いうたって思いました。
千歳ちとさんの
夢なんて叶わないから作りかけの消しゴムはんこでゴシゴシと消す
このうたも宮嶋さんと同じように「夢」と
ストレートな言葉が登場しますが、
もう少し軽い感じの「夢」って気がします。
「夢」を「ゴシゴシと消す」というのではなくて、
「夢なんて叶わない」という気持になって、
なにかを「ゴシゴシと消」してるからでしょうね。
まだ自分の夢とまでは成長していないほのかな夢だったのかも。
何かがきっかけになって、
どうせ夢なんて叶わないもんだよって
自棄になっちゃうことってありますよね。
それにしても
「作りかけの消しゴムはんこ」にはとんだとばっちりでした。
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うたの日(6月28日)


うたの日

6月28日のお題は「吸」「肌」「幻」「仕事」「寺」でした。

まぼろしの風邪をまとえば缶詰のもものシロップかすかににがい(しま・しましま)
朝は本当に具合が悪い感じで、
学校を休んだのに、
お昼前から実はなんとなく体調がもどちゃって
でも風邪でお休みしたから、
夕方まで風邪で具合が悪いふりを続けてしまった
みたいなことないですか?
うちは共働き家庭だったんですが、
父親の職場が自宅だったこともあって、
ちょっと具合が悪いと家で休ませることを躊躇しない方針で、
こういう微妙に落ち着かないパターンもありました。

「幻」という題での選、
むずかしかったですね。
なにせ「幻」のうたが24首も並ぶわけです。
だんだんと、何が具象で何がイメージで何が比喩なのか
わからなくなってしまった
というのが正直なところでした。
「幻」酔いしてしまった、とでも言いましょうか。

ハートを入れたうた。
すみちゃんさんの
幻の部位が交互に現れてTwitterでも夏至のよろこび
はっきりと歌意は掴みきれないけど、
「夏至のよろこび」に、
なにか強く訴えるものがあるなぁって
ハートを入れました。
以下は(かなり強引に)わたしが連想したもので、
作者の意図とはかけ離れてるかも知れませんが、
こんな感じに受け取って、
そこが好きだなって思いましたというところを。
「幻の部位」ってフレーズから、
お肉の部位で希少な、美味しい部位が
わーっとうかんできました。
といっても、
美味しいお肉をよく食べるという訳ではないので、
SNSに人さまがアップされたお肉画像で。
これが「交互に現れて」で、
瞬間瞬間で興味が切り替わる
ネットとかSNSの取りとめのない感じ
とかとあいまって、
ちょいちょい挟まってくる「幻の部位」画像に
心をその度に軽く奪われる人
みたいなのをイメージしました。
っていうか完全にわたしのことでした。
ネットとかSNSと書きましたがぶっちゃけTwitterですね。
一首をぱっと見た時に、
一番最初に目に入ってくるのがこの
「Twitter」という言葉なので、
どうしてもそれを念頭に置いて他のフレーズを鑑賞しちゃいますし。
横書きは左端から、縦書きは上から読む
というのはお約束ではありますが、
最初に目にはいるフレーズが最初に読むべき場所にある
とは限りませんよね。
「幻の」「部位が」「交互に」「現れて」
のきびきびした語感もあって、
スピーディな感じがありました。
で、そこから
「Twitterでも夏至のよろこび」
ですこしゆったりしたリズムに切り替わるような
そんな感じがします。
「夏至のよろこび」
って、具体的にはなんでしょう。
色々あるかもですが、
やっぱり夏季に入ったよろこびかなぁって思います。
「夏至」→「夏だよ!」→「恋の季節だよ!」→「肉食だよね」
みたいな連想ゲームをしちゃいましたが、
別に恋に絡めなくても、
生命感みたいなものと肉食イメージから
「夏至のよろこび」って
内側からふつふつと湧いてくるもの、みたいな感じに受け取りました。
「夏至だから」と断り書きがしてあるわけではなくても、
夏至の日にTwitterに溢れるお肉画像を眺めて、
ここでもやっぱり生命感に溢れてるなって
そう感じた、
みたいな作品かなぁ、いいなぁ
て思ってハートをいれました。
「幻」というお題であって、
こんなに瞬発力の強い感じってステキとか思いました。

音符を入れたうた。
あかねさんの
ねえ、先生。ぼくは「努力が報われる」って話、まだ信じているよ。
「先生」に呼びかけながらの、やわらかい語り口調なんですが、
ほんのりと余韻に苦いものが感じられて、
そこが魅力的だなって思いました。
「まだ信じてる」
ということなので、
たぶん、もう信じてない場合でもおかしくはない
そんな立場にいる人なんじゃないかと思います。
「努力が報われる」とは限らない、
そんなものは努力させるための人参でしかなくって、
しかもそれは絵に描いた人参なんだろ
みたいな気持になっていてもおかしくない、
そんな「ぼく」なのかなって気がします。
「ねえ、先生。」
っていう呼びかけがいいなって思います。
この先生は特定の先生が念頭にあっての、「ねえ、先生。」
な、気がします。
この先生が、「努力は報われる」説を口にした人なのか、
「努力は報われる」なんて幻だよって説をつねづねしてた人なのか、
そのあたりはわかりませんが、
「(それでも)」って気持が、
「ねえ、先生。」って呟かせたのかなって思いました。
所さんの
幻のかけらのような猫の爪拾うあなたの指をみている
「猫の爪」って、時々部屋のすみとかに落ちてますが、
ちょっと白っぽくくすんだ透明な三日月形で、
「幻のかけら」と言われると、
あー、なんかわかる、たしかに!
みたいな感じがします。
この表現がとにかくステキで、
このうたに票を入れたのも、そこがポイントでした。
着地点が
「あなたの指をみている」なのが
ちょっと残念な感じがします。
あ、そっちなんだ
という肩透かしみたいなものを
感じてしまって。
でも
「猫の爪」が「幻のかけら」って
ホントすてきな比喩でした。

うたの日(6月27日)


うたの日

6月27日のお題は「塾」「蛇」「制服」「格好」「根性」でした。

蛇を見てこぼした息をそのままに日向ゆっくり日影にかわる(しま・しましま)
初句、もうちょっと何とかなったかも……
と思うんですが、同時に、
ここはこのぐらいの直截さでもいいかな
とか、
なんか詠みながら揺れてました。
あそこで蛇を見た
って思うと、その日一日「あそこ」の場所が
妙に気になってしまったりします。
爬虫類とか両生類とか嫌いじゃないけど、
蛇を実際に間近に見ると固まってしまう。
もしかしたらわたしはカエルだったのかも。

ハートを入れたうた。
森下裕隆さんの
青と赤、蛇口の栓が逆やねん。泣きたいときに笑てまうねん。
「泣きたいときに笑てまうねん」
いや、ずるいぐらいに関西弁が効いてるうたって思います。
何かの間違いで冷水と熱湯の栓が逆についてて
それをなぜか直してない
ってところありますね。
ひとりっきりで泣きたいんだ
って時に、
うわっ冷たっ
なんなん?
あっ逆……
ってなったら、
やっぱり思わず笑っちゃって
涙も一旦引っ込んじゃいますよね。
もー…もーなんやねん…
みたいな。
(自分由来のではないけど)トホホな感じと
関西弁のリズミカルなツッコミな感じが
ユーモラスで、
あとからじわっと切なさの余韻が漂うようで
すきなうただなぁって思いました。

音符を入れたうた。
キョースケさんの
庭先をアオダイショウが走り去り「うちも立派になったな」と父
ハートを迷ったうたでした。
あっさりとした詠みぶりのうただけど、
「うちも立派になったな」という
父親の言葉そのままに、
何か胸に迫る思いみたいなものが漂う幸せなうた
って思います。
比較的新しく設えられた庭なのかな。
新築のお家の庭って、
まだ生活の匂いも生き物の匂いもしませんよね。
それから一年たち、二年たち、
気がつくと、
この庭の(登記上の)主の知らないところで
新しい生態系が出来てる
って感じなのかなって思いました。
アオダイショウが家の守り神的存在、
みたいな説もありますよね。
スピリチュアルな意味ではなくて、
ねずみとかを捕食してくれる存在として
実際に家を守ってくれてる、みたいな意味で。
いろんな感慨が
「うちも立派になったな」
に、込められているようで、
なんだかじんとする重さのある言葉だなぁって思います。
西村曜さんの
く、と蛇口しめる音してああきみがさみしいことに気づいてしまう
「蛇口」をしめるかすかな音にすら、
「きみがさみしいこと」に気がついてしまう
っていうのは
ものすごくセンシティブな人なんだろうなって
そんな気がします。
主体が。
もしかしたら、
さみしいのは主体自身なのかなって思ったり。
「く、」という音ですが、
蛇口のコックをひねるときに、
手首を動かす感じの
あの「く」な感じかなあ、
だとしたら、
外から見てる人が聞ける音というよりも
自分自身が感じる音っぽくて、
蛇口をしめる「きみ」を見ている主体が、
その一瞬だけ、
「きみ」と同化してしまったような気がします。
だから、「きみがさみしいこと」にも
気がついた、
のかなとか思います。
吉川みほさんの
アコーディオン蛇腹の角度変えてみる少し不穏の混ざる風音
「少し不穏の混ざる風音」
ああー、なんかわかるなぁ
って感じがします。
アコーディオンとか、足踏みオルガンとか
どことなく哀調が感じられるのって
この
「少し不穏の混ざる風音」が
するからなのかなぁとか
思ったりしました。

うたの日(6月26日)


うたの日

6月26日のお題は「熱」「意識」「袋」「ガム」「濁音」でした。

たまごかけごはんの黄身があつあつのごはんに触れてひびきあう波(しま・しましま)
わたしは最後の晩餐が出来るとしても、
べつに卵かけご飯をチョイスしたいと思うほどの
卵かけご飯信者ではありませんが、
それでも、
熱々のご飯で卵かけご飯って
なんとなく内心盛り上がるものがあります。
ところで、
今月もあと今日を入れて4日になりました。
今回の感想を入れても5回。
5回ほどおつきあい下さい。

ハートを入れたうた。
萩野聡さんの
鉄棒の熱に触れれば逆上がりしてゐたころのわれに還れり
「鉄棒」って不思議な存在ですよね。
遊具というのか運動器具というのかわかりませんが、
学校やちょっとした公園の隅とかにあって、
よく見かけるものだけど、
たぶん中学生以上になると、
ほとんど利用することがない。
お喋りするときにもたれる、ぐらいがいいとこでしょうか。
でも、
それでいて、
多くの人が、いっぱい思い出を持ってるのも
「鉄棒」なんですよね。
今思うと、なんで小学校って、
あんなに鉄棒を、逆上がりを小学生にやらせるんでしょう。
するっと出来た人も、
苦労して出来るようになった人も、
結局出来なかった人も、
それぞれに逆上がりの思い出を持ってる
んじゃないかなって思います。
で、
このうたの主体は、
「鉄棒の熱」に触れることで
その頃の「われに還」ったといううた。
夏の強い太陽に熱された鉄棒の、
熱い手触りや鉄っぽい匂いとかが
瞬時に小学生のころの自分に戻らせてしまった。
このぐっと心が動くきっかけの
「鉄棒の熱」に説得力があって
共感性のたかいうたと思いました。
ちなみに、文語口語まじりのうたになってますが、
わたしはあんまり気になりませんでした。
統一するとしたら、
上の句の「触れれば」「ゐた」を文語にするか
「われに還れり」を口語化するかだと思うんですが、
どっちもこのままの方が簡潔でいいような気がするんですけど、
どうなんでしょうね。

音符を入れたうた。
すみちゃんさんの
熱海行きバスで連続射殺魔が夢見るみんなかわいい暮らし
「熱海行きバス」が
なんとなくいいなぁって思います。
「熱海行きバス」に乗ったこと、
いや、熱海に行ったことすらないんですが、
それでもなにか不思議な魅力のある地名です。
しかもそれが路線バスだと思うと、
よけいになんかいいなぁって気がします。
勝手なイメージだけど
昭和な楽園な感じ。
そこへ行こうとしてるのが
「連続射殺魔」なんですね。
物騒な人です。
これが「絞殺魔」とか「毒殺魔」とかだと
なんとなく淫靡な響きがあったり、
知能犯的な一種の賢さみたいなものがあるんですが、
「射殺魔」だと、
たまたま何かのきっかけで銃を手にした事で
うっかり欲望が暴走してしまった
頭の余りよくない人物、
みたいな感じがします。
で、
この人がバスに乗ってて、
しかも「夢」見てるわけです。
これは夢想してるのかも知れないけど、
わたしは実際にうとうとしてるんだって気がします。
「みんなかわいい暮らし」
の「みんなかわいい」という表現が
なんとなく胸にささりますね。
(射殺魔サイドからすると)悲劇的な結末しか想像できない
そんなバスの旅の、
おさない夢(あるいは夢想)って感じで。
ところで、
「連続○○」と「○○魔」って
合体させるとちょっとくどいような気がします。

うたの日(6月25日)


うたの日

6月25日のお題は「利」「主」「筋肉」「誰」「ざます」でした。

誰からも見えないものを身につけて くるり 時々翻したり(しま・しましま)
童話「裸の王様」では、
「誰からも見えない」とは知らないものを
王様は身につけて歩くんですが、
「誰からも見えない」って自分自身でわかってて、
それを身につけることって
あるよなぁって思って詠んだうたでした。
ただ、
「翻したり」という結び方は失敗だったかなぁ。
そう、完了の「たり」と思われる可能性あるなって
うすうす思ってはいたんですが、
結句字余りにして「翻したりする」とかするのも
うーん、どうかなぁって
ちょっと煮え切らない感じになっちゃって、
「ひるがえしたり(つまんでみたり、いろいろやってる感じ)」
をぶった切ってみてもいいか、
っていう気持だったんですが、
うん、やっぱり結びに「たり」があると
普通は完了だと思うよなぁと
しみじみと反省。

ハートを入れたうた。
萩野聡さんの
誰といふこともないこの逢ひたさをクリアファイルにいれて仕舞へり
ふっと人恋しくなることってありますよね。
誰だれに逢いたい、みたいな特定の人に逢いたい
というのではなくて、
とにかく誰かに逢いたい、
誰かと一緒にいたいって思う気持。
「誰といふこともないこの逢ひたさを」
の、うねうね感が、
この気持にすごく合ってるなって思います。
この気持って、
じゃあ、誰かに逢ったら消えるのか
っつったら、たぶん消えるわけじゃないんだと思います。
突然襲ってくる人恋しさって
そういうやっかいでうねうねした
そんな感じがします。
で、
そんな「逢ひたさ」を
「クリアファイルにいれて仕舞へり」
っていうところがすごくいいなって思いました。
「クリアファイル」。
書類とかを一時的に入れておく感じですよね。
きちんと片付けるとか取っておくためではなくて、
しばらく持ち歩くために入れておく感じ。
主体がこの「逢ひたさ」に襲われたのは、
仕事中とか勉強中とか、
手近にクリアファイルがある状態で、
だから、すっと「クリアファイル」に入れちゃった、
という感じを想像しました。
その気持を、捨てるんでも叶えるんでもない、
何も決着をつけないままなんだけど、
とりあえず、今はちょっとだけ大事にクリアファイルに挟んでおく。
当座の処理みたいな感覚に「クリアファイル」って
めっちゃ合うなって気がします。

音符を入れたうた。
あかねさんの
ぼくじゃない なにかがぼくのふりをして「先に行くよ」と靴をそろえる
面白い状況を詠んだうただなって思いました。
っていうか、
面白い状況がいろいろと想像させられるうたでした。
なにもかもが謎な感じで、
それがめっちゃ「誰」?な感じがしました。
ええと、
まずわたしがこのうたで想像した状況を書きますね。
「ぼく」が靴をそろえながら「先に行くよ」
といってる。
でも、「ぼく」はここに居て、
それを見てるんだから、
「先に行くよ」と言う「ぼく」は、
「ぼく」の振りをしたぼくではない誰か。
で、「ぼく」自身は、
「ぼくじゃない」!って言うんだけど、
たぶんこれは誰にも聞こえてない叫びなんだと思います。
自分の日常を自分以外のなにかに乗っ取られてしまう、
みたいな不条理系のお話のワンシーンのようにも見えますが、
「先に行くよ」で
「靴をそろえる」
ってところに違和感があります。
うーん、これは玄関で言うようなセリフですが、
もしかして玄関ではないのでは?
って気がします。
「先に行くよ」の「行く」って
「逝く」ってこと?
とか想像しちゃいますね。
としたら、
「先に行くよ」って誰に言ってるの?
本当の「ぼく」へ、というわけではなさそうだし、
その場に言ってる相手がいれば、
きっと必死に止めてると思うんで、
その場にいない人へ、
そう呟いてるってことなのかも。
いやいや、
「ぼく」じゃない誰かが「ぼくのふり」をして
自殺するとかどう言う事なの?
ていうか、
「ぼく」じゃない誰かが「ぼくのふり」をして死んだら
本当の「ぼく」はどうなっちゃうの?
正直なところ、
死にたいネタのうたって嫌いなんですが、
このうたは
少なくとも初句で「ぼくじゃない」っていうことは
今死にたいのが「ぼくじゃない」らしいってことなので、
ありかなぁって思いました。
この誰かが「ぼく」の深層心理、ってことはあるかも知れないけど、
でも実際「ぼく」は死にたくなくて大慌てっぽいですし。
って
深読みだけでここまで引っ張ってしまって、
本当はそういう状況ではない
という可能性も多分にあるんですけれども。
単純に(たんじゅん?)
玄関で、
「先に行くよ」って言いながら、
恋人の靴もそろえてあげてる、
みたいな、
本当の自分は蚊帳の外で、
恋人といちゃいちゃしてる誰かを見せられてる
みたいな状況かも知れないし、
それはそれで怖くて面白いなぁって思います。

題詠blog2015二周目(81~100)


081:付
どこまでもあの十二時が付いてきて(かわいそう)ねむれないシンデレラ
082:佳
<滋養豊富 風味絶佳>の空箱をぐしゃりとつぶしてしまう父だった
083:憎
にくいってひらがなで書く 思うほど憎いと思っていないみたいだ
084:錦
ふるさとに飾る錦もいろいろで祖父へと贈る最後の花輪
085:化石
今はもう毒だか何だかわからない化石のごとく古びた茸
086:珠
数珠玉と数珠玉の屑あふれ出る園で指定の通園バッグ
087:当
透明なプラスチックを剥がれ落ちるプッチンプリン 当って砕けろ
088:炭
炭酸水に鼻のあたまを濡らされてうふふとえへへは仲良しだった
089:マーク
うどん屋で選ぶ天ぷら@マークの後ろが名前のともだちといて
090:山
山墓のきつい勾配ばあちゃんを置いてきちゃったみたいでこわい
091:略
触れるだけでほつれてしまうたんぽぽの綿毛にたてる略奪計画
092:徴
栗の花に短い雨が降りはじめ、ああ、もう徴(しるし)は失われたのだ  
093:わざわざ
笛吹きがつれてきた子とねずみらのざわざわざわざわ笛吹きの家
094:腹
くまさんのお腹やわらかやわらかな頬を当てればねむれるように
095:申
昔から六月六日は雨ざあざあ降ってくるってうたっています
096:賢
あの公園、大きなポプラのその影に賢者の石を交換したね
097:騙
もう少し騙されたくて火をつける 真っ赤な真っ赤なバースディキャンドル
098:独
コンビニの前の大型せんぷうき羽虫もろとも吹かれる孤独
099:聴
馬鹿騒ぎの歌をさみしく聴ける日の桃から取り出す赤すぎる種
100:願
ご破算で願いましてはキシキシとめくれるいわし蒲焼の蓋

以上で
題詠blog2015二周目はおしまい。
「わざわざ」のうたは、
その後50音童話短歌という遊びをした時に、
「ふ」で再利用しちゃいました。
あらためて「わざわざ」で詠み直そうとか
思わないでもなかったんですが、
まあ、被りもあっていいかなぁとか思って、
そのままにしました。
7月からは
何か時間を掛けて取り組めるものが
見つかればいいなぁ。

うたの日(6月24日)

うたの日

6月24日のお題は「にんじん」「国」「省」「の」「破調」でした。

ボウルの中にみっしりとふえるわかめ わたしたち寄る辺ないから寄り添ってる(しま・しましま)
「破調」、
むずかしい題でしたねー。
「破調」の捉え方を問われたような気がします。
ちょっとした字余りとか句またがりって
破調っていうほど調子を乱すことがないって
そう思ってたんで、
どれだけ定型が崩せるか、
みたいなところが、ね。
ちなみに、
ふえるわかめは前から使いたかったアイテムでした。
もともと、らっこのプールにふえるわかめを投げ込む
と仮定してなんたらかんたら
っていうのをずっとあっためてたんですが、
今回、さっぱりとらっこを切り捨てて短歌デビューとなりました。

ハートを入れたうた。
小宮子々さんの
くじらの夢を見ていた もっともっと深くわたしは息ができる はず
「くじらの夢を見ていた」という
唐突な告白のような読み出し方がすてきです。
どんな夢だったんでしょうね。
その後の一マス空けが、
その夢の余韻のようでいいなぁ。
くじらが出て来る夢だったのかな
くじらになってる夢だったのかな
くじらが見る夢を見てたのかな。
深い深い海の中にいたんでしょうね。
「もっともっと深くわたしは息ができる はず」
は、
もしかしたら目覚めてからの
「わたし」についての「はず」なのかも知れませんが、
「くじら」として、
もっと深く息が出来たはず、
今度はもっとちゃんとしよう
みたいな反省のようで
面白いなって思いました。
破調なんだけど、ほんのり定型感があるところも好きでした。
「くじらの夢/を見ていた もっと/もっと深く/わたしは息が/できる はず」
みたいな感じかな。
読むときは
「くじらの夢を見ていた/ /もっと/もっと深く/わたしは息が/できる/ /はず」
と読みましたが、
声に出して読んでも、
なんとなく心地いいんですよね。

音符を入れたうた。
木村比呂さんの
二拍子を刻む洗濯機の前で字余りばかりの雨音を聴く
「破調」をテーマ詠みされたうたですよね。
「洗濯機」と「雨音」が生み出す破調。
わたしが、
あ、いいな
って思ったのは、
この「洗濯機」と「雨音」のコラボの破調を、
主体が立ったまま聞いてるんだな
ってところ。
わたしが出詠したものに「寄る辺ない」という言葉がありますが、
実に寄る辺ない感があるなぁって
そう思うと、
うわーなんだこれ切ない!
ってなっちゃいました。
水沼朔太郎さんの
気を抜いていたわけではない徒歩五分蚊に噛まれるなら半ズボンなんか履くな
どう表現したらいいのかわからないんですが、
不思議な魅力があるなって思いました。
真ん中に放り込まれたような「徒歩五分」に、
物語性があるような気がするのと、
定型感の砦みたいな、
要石みたいな安定感があるような
そんな感じがしました。
それと
「蚊に噛まれるなら半ズボンなんか履くな」
って、面白い命令文だなぁって思います。

うたの日(6月23日)


うたの日

6月23日のお題は「人名」「修学旅行」「太」「内容」「尻」でした。

レジ袋でしょうかいいえねこでした太ったねこのたましいでした(しま・しましま)
ツイッターでも去年ほぼずっとアイコンにしてて、
今でももう一つのブログの方のプロフィール画像として使ってるのは、
去年なくなったうちの猫のちゃー坊くん。(正式名は加藤茶太郎)
何かを猫に見間違えたときは、
彼を見たんだと思うことが時々あります。
さて、今回で花束(バラ)がちょうど50!
わーい。めっちゃうれしいです。
今月中に、あともう一つだけ欲しいなって
思ってたんですよ。
切りが良くてうれしいです。
ありがとうございました。

ハートを入れたうた。
藤かづえさんの
どこからか祭り太鼓の音がする梅雨の向こうの夏の足音
六月から七月前半というと、
わたしの地方では水にまつわる神様のお祭が
けっこう行われるような気がします。
だいたいちっちゃい規模のやつなんですけどね。
あれでしょうか、
田んぼの水の心配や、夏の水難事故、
台風による水害なんかがこれから心配される時期だから
この時期におまつりする、って感じなのかな。
それか、
夏本番になってからある、
割と大きなお祭のための練習の音が聞こえる
ってこともあるかなって思います。
これもわたしの住んでるところの話なんですが、
八月のはじめ(旧暦七月ね)に七夕祭りがあるんですが、
その練習はびっしり七月中に
それぞれの地区で行われてるんですよね。
なかなか当日一発勝負の地区はないみたい。
ただ七夕祭りって新暦でいって七月に行われることが
多い気がするんで、
この新暦バージョンの七夕祭りの練習だとしたら、
これも今の時期から始まるのかも。
小さな地区の水神さまのお祭か、
しばらく後である大きなお祭の練習なのか、
そのあたりはわかりませんが、
「どこからか」聞こえるっていうかすかな感じが、
今しきりにお祭を派手にやってる、
というのとは違う感じがしました。
そのかすかに聞こえる太鼓の音を
「夏の足音」しかも「梅雨の向こうの」と
捉えてあるところが印象的ですてきですよね。
梅雨があけたら夏の本番!
みたいな期待感がいいなって思いました。

音符を入れたうた。
木村比呂さんの
この夜に太い眠りの線を引く なにも忘れず なにも持たない
感覚的な、ちょっと言葉にするのが
難しいうたって気がします。
なんとかこのうたがいいなって
思った気持が表現できるといいんですが。
まず、静謐な雰囲気と、
なにかきっぱりした決意のような、
そうであってほしいという祈りのようなうた
って思いました。
「この夜に太い眠りの線を引く」
っていうのもそんな感じ。
普通は、起きてる状態と眠っている状態って、
じわぁっと移行していく感じで、
はい、ここから眠りねって「線を引く」には
なかなかならない。
布団に入ったら、すこんと眠りに落ちる
みたいなタイプの人もいると思うんですが、
このうたの場合は、そういうタイプの人ではない
って気がします。
「 なにも忘れず なにも持たない」
一字空けしてのこの言葉も印象的でした。
起きてるときの意識や記憶、と夢の中のそれを
混ぜたくない気持と、
どっちかがどっちかの逃避場所になるのも嫌だ
っていう気持なのかな
って気がします。
なんとなく、ですが。
根本博基さんの
宇宙大戦を招いた咎として太陽系を追放される
むーん
なんかめっちゃ壮大なスケールの事象ですよね。
「宇宙大戦」「咎」「太陽系」「追放」
どこを取ってもインパクトがあって、
日常生活の中ではなかなか登場しない感じ。
面白いなって思ったのは、
それをぜんぜんドラマ仕立や
ポエム仕立にしてないところ。
初句二句の句またがりはあるにしても、
57577の短歌の定型で詠まれてるのに、
全然短歌っぽくなくて、
Wikiとかで何かを説明してある文章を一部分切り取ったみたいな
偶然短歌っぽい感じがします。
あっ、そんなアンチポエムな
短歌へのアプローチがあったんだ!
みたいな感じで面白いなって思いました。
作者の意図が全然ちがうところにあったとしたら
ホントすいません。
そんな感じがして面白かったので。

うたの日(6月22日)


うたの日

6月22日のお題は「堀」「チーズケーキ」「髭」「波」「架空の人物」でした。

もう少しでザムザ氏を穿つところだったと窓辺のりんごがつぶやく月夜(しま・しましま)
「架空の人物」というお題から、
好きな小説の登場人物を、
ちょっと離れたところから見る感じで詠もう
と思い立って、
このうたが出来たんですが、
その後、
なんだか気持がわーっと盛り上がっちゃって、
結局その後8首、
合計9首を作って、
タイトルまで付けて遊んでしまいました。
いやしかし、
わたしの過去の経験からすると、
一首が連作ちっくに作れてしまう作品は
あまり評価が良くないぞ……
と、ふと頭をよぎったんですが、
出来てしまったものは仕方ない。
とか思ってたんですが、
結果が出てみると、
意外な高評価でホントうれしいです。

過去の、うたの日からの連作的なものを
編んでしまったというと、
「蟻の巣は八月の学校にある 五ミリの穴にもっと光を」
「バナナ八本」
「占い」
などがありますが、
実はその他にも
「宇宙」のお題からの「無題」
「逆」のお題からの「ほしぶどう」
それから、今回の「月とりんご」ですね。
たぶん、たぶんですが私の場合、
頭の中にストーリーを作りすぎちゃうのと、
次のうた、次のうたに何かをちょっとずつ託しすぎて、
一首そのものに独立性が薄くなっちゃう
ということがあると思われます。

ハートを入れたうた。
ものかさんの
水の音わたしが流す水のおとユウジくんと一緒に「ゴォー」と言う
うーん、これはどういう状況なんでしょう。
たぶん「ユウジくん」が「架空の人物」なんだと思うんですが、
その「ユウジくん」と水が流れる音やその流れを見てる
という状況。
しかも川とか流れてる水を見てるんじゃなくて、
「わたしが流す水」を見て、聞いてるわけですよね。
洗面所かお風呂かトイレってところでしょうか。
「水の音わたしが流す水のおと」
最初端的に、つぎに具体的な情報を入れてくりかえされる「水の音」。
具体的だけど、何の水を流してるのかは
さっぱりわからない
っていうところ、
カタコトっぽいというか、幼い感じがします。
「ゴォー」っていうのは、
水が流れる音であり、「Go!(行け!)」の「ゴォー」かな。
ホントはちょっと怖くていやなんだけど、
そう言うことで、少し元気が出るのかな
って思って、
これはお風呂かトイレでの場面なのかなぁって思いました。
子供のとき、
空想上の友達がいたりする事ありますよね。
いわゆるイマジナリーフレンド(いわゆるも何も同じことじゃんという)。
もしかしたら主体にとって「ユウジくん」は
そういう存在なのかなぁ。
そいで、
トイレとかのちょっと怖い時に、
一緒に「ゴォー」とか言って
楽しくしてくれる。
もしかしたら主体は既に子供ではないのかも知れないけど、
今でもちょっと淋しいときに、
「ユウジくん」を意識的に登場させて
気持の向上を図ってるのかな、とか。
とか、相変わらず勝手に深読みしてるかも知れませんが、
不思議な感触の作品で、
いろいろと想像が広がるうたでした。

音符を入れたうた。
温子さんの
しょうちゃんの恋愛トークは甘すぎてきっと脳内彼氏の話
おおぅ…なかなかキツイ判定を下される…
とか思って面白いうたでした。
いや実際、
ナニそれ?なにその甘さ?
少女マンガの世界に生きてるの?
それとも彼氏は小沢さんなの?
みたいなあまあま恋愛トークをかましてくる
そんな友達いますよね。
それを
「きっと脳内彼氏の話」
と心の中で思っちゃうという
主体のちょっと意地悪な視点が面白いなぁ。
主体は女性で、
このあまあま恋愛トークの主である「しょうちゃん」も
女性で、ふたりは友達なんだと思うんですよ。
「しょうちゃん」
って具体的な名前、
しかも、ちょっと子供っぽい呼び方なのが
なんかいいなって思います。
幼馴染のにおいがするというか。
昔からの友達だから、
そうやって揶揄しても、
やっかみ感とか腹黒感がない、ような気がします。
ここが「しょうちゃん」じゃなくて
「岡島の」とか「同僚の」
とか入れてみると、
妙にじめっとした感じになっちゃう気がしません?
(人のうたで遊んでごめんなさい)
かなめゆきさんの
友だちがやってきたときだけ笑う102号室の斉藤
お題が「架空の人物」なんですが、
このうたで「架空の人物」って
どこに当てはめて考えたらいいんだろう……
って思った時、
なんかぞわっとするものを感じてしまいました。
このお題を抜きにして
このうたを読むと、
普段は全然笑い声を聞かないし、
笑い顔も見たことがない102号室の斉藤氏。
でも、コイツ実は友達が部屋に来たときだけは
楽しそうに笑い声とか上げてるんだよね
みたいな感じの雰囲気になるんじゃないか
って思うんですが、
ここに「架空の人物」というキーワードがちらつくだけで
いっきょにうすらこわいうたになっちゃうような
そんな気がします。
だいたい、「架空の人物」なのは
「友だち」の方なんでしょうか「斉藤」の方なんでしょうか。
っていうか、結句の字足らずがまたぞわぞわします。
架空の人物がこの欠けた三音のなかに隠れてる……わけはないか。
(追記)
この記事をアップした後で。
「102号室」は「いちまるにごうしつ」と読むんじゃないかと
指摘があって、
はわわーってあわてて今追記を書いてます。
たしかに!たしかに!
「いちまるにごうしつ」だと句またがりできちんと音が足りてますね。
なんかもう、へんにからんだみたいになっちゃって
作者の方には申し訳ないです。
すいません。
冬桜さんの
あっこれはたまたま君と一字違いだけど架空の人物だから
一読、あーかわいいかわいい!
ってなったうたでした。
実際にそういう経験がある訳ではないですが、
そんな感じの言い訳を
あわててしなくちゃいけない羽目になる
そういう場面って片想いしてたら誰にでもありそう。
しかし、
何か書いたものを見られたシーンと思うんですが、
何書いてたんでしょうね。
一応句またがりの入った定型で詠まれてはいますが、
一気に早口で読み下したくなるうたでした。

うたの日(6月21日)


うたの日

6月21日のお題は「ただいま」「点」「境」「痩」「園」でした。

点、てんと夜のあつさを切り抜いてあまさとしての夜顔ひらく(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
坊斎さんの
ランタンは磨かないから煤だらけでも点そうか君の日だもの
「君の日だもの」がいいなぁ
って思います。
うん、昨夜もここがいいなって思ったんですが、
今日改めて見ても、「君の日だもの」が好きですね。
「君の日」、
誕生日とか何かのお祝いの日なのか、
もしかしたらなんでもない日だけど「君の日」なのかも知れないけど、
とにかく「君の日だもの」って
特別感があって、きゅんとしますね。
点してって言われたら、
「煤だらけ」といいつつ、
少しだけ磨いてくれそうで、
きっとそのあかりはあったかいんだろうなとか
心がふわっと明るくなるようなうたって思いました。

音符を入れたうた。
柚木ことはさんの
白妙のワンピースのうえ点描を描く木漏れ日昼長き日に
6月21日は夏至でしたね。
現実とばしっとリンクさせたうたを
リアルタイムに読めるところも
毎日やってる歌会ならではって感じがします。
「白妙のワンピースのうえ」「点描を描く木漏れ日」「昼長き日に」
って三つに分かれるうたかなって思います。
後半、言葉数が多いなぁって思ったんですが、
ふわっと映像が浮かび上がってくるようで、
このイメージ好きだなぁって思いました。
自分の視点そのままで描かれたシーンって感じ。
真っ白なワンピースを、
着たまま見下ろして、
そこに、街路樹なのかな、
ワンピースをキャンバスにして、
木漏れ日の光と影が
点描のように模様を描き出してる。
夏のうれしい感じ、
おろしたてのワンピースを着たうれしい感じがあるなぁって
思いました。
外川菊絵さんの
点滴の跡をさらしてもてあそぶオイルライター重いほど良い
「さらして」「もてあそぶ」
という言葉から、
なんとなく投げやりさとかはすっぱさがあるようでいて、
ヒリヒリした感覚がただようようなうたって思いました。
「オイルライター」の重みが、
主体にとって「点滴の跡」の重みであり、
生の重みなのかなって思います。
質感や重量を実感することと
生を実感することって
どっか似通ったものがあるなぁって
なんとなく思います。
「オイルライター」というチョイスが
いろんな想像を掻き立てますね。
ツナマヨさんの
思春期に出会ったPは決められた軌道を描き問いかけていた
「思春期に出会ったP」
題が「点」ですし、
グラフ上の点Pのことと思いますが、
同時に、
具体的に誰誰っていうわけじゃないけど、
人生の「決められた軌道」からずれることなく生きてく人
っていうイメージが重なります。
で、そういう人生について、
いいでも悪いでもなくて、
そのPに「問いかけ」られていた
っていうところが好きだなって思います。
思春期って、将来のこととか、
どう生きるべきかとか、
うっすらと考え始める頃ですよね。
同時に、独善的だったり潔癖になったりして、
そういう「決められた軌道」を
批判しがちなとこがあるように思うんですが、
そういうのが一切なくて、
ただ「問いかけていた」というところが
あ、なんかそういう方向好きだなって思いました。

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