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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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7月中のうたの日


7月中はうたの日を丸々お休みしよう
と、思ってたんですが、
なんだかんだとうたの日に出しちゃいました。
やっぱり全然出さないと
面白くないですね。
でも、
お休みしますって言っておいて、
あっというまに復活するのも
なんとなく恥ずかしくて、
「しま・しましま」名義で出したのは
10日の自由詠のみ。
あとは、真潮としん・しんしんという筆名で
出してます。
ちなみに、
真潮は
ましお→ましほ→まししま→しましま。
しん・しんしんは、
しんしん→芯・芯→芯が芯→芯が柱→芯がポール
→シンガポール→マーライオン→マー(マ)ライオン
→ママ獅子→まましし→しましま。

まず我慢できなくなったのが、
はやばやと7月6日
「小説の一節を入れた短歌」ってお題だったんですよね。
手を振れば手を振り返す海の人 わたしは小熊。名前はゾルバ(真潮名義)
「わたしは小熊。名前はゾルバ」の部分は、
町田康の「夫婦茶碗」から。

7月10日「自由詠」
ストローをすすむ豆乳きょう雨がふれば行かない理由ができる
これは、しま・しましま名義で出しました。

7月23日「犬」
その角を曲がればいつも夕風にふかれて犬の思い出がいる(真潮名義)
これで今月は終ろうと思ってたんですけどね。

7月24日「なぜ」
のどもとで仄かに光るしっかりと咀嚼しないで飲み込んだ「何故」(しん・しんしん名義)
7月26日「果」
夕立に帰り道さえ失って世界の果てで行き止まる蟻(しん・しんしん名義)
7月29日「うっかり」
うっかりとぼくはぼくらにまぎれこみぼくらみたいな顔ができない(しん・しんしん名義)
7月30日「番号」
ぼくも貰ったひみつの数字 ナンバリングされて始まる夏休み(しん・しんしん名義)

うたの日を卒業しようって気は
もともとなかったけど、
こんなにしばらく休むって宣言しても
戻ってきちゃいたくなるって
もう病気か
って感じですね。

うたの日って、
投稿すると、
確実に数人、あるいは十数人の人が
きちんと読んでくれる、
選評があるかどうかは
その時次第だけども、
少なくとも投票って形で
なにかしらの反応がいただける。
そういう場って他にあまりないですよね。
なので、
そういう楽しみを覚えちゃうと、
なかなか抜け出せない
みたいなところがあるかも。
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俳句結社入会時の話から短歌を始めた今の話


昨日ツイッターで、
俳句結社入会時のことを少しリプライしたせいで、
夢の中に今は亡き当時の師が出てきて
なんだかびっくりしてしまった。
会話したとかではなくて、
ただ出てきただけなんだけど。

そうして、
目が覚めてからもなんかつらつらと
当時の事を思い出してます。

うちの結社は大須賀乙字の師系に連なる、
ということで、
その師は二代目の主宰だったんだけど、
とてもそれを大事にされてる方だった。
「俳句は情のねばりを嫌う」とか
「季語は季感が伴わなければ」とか
大須賀乙字の言葉をよく引用されていた。
あと、
「俳句は事よりも、物、景を詠む」
「形容詞から腐る」
とかって言われて、
初心者のわたしはかなり混乱しました。
形容詞無しで描写するって
無理じゃん!
みたいに。
感動を水増ししないために
安易な形容詞を使わない
ってことなんだと
今は思ってます。

あと、
当時の師の選評で
今もよく覚えているのが、
「季語○○は、
事実であったにせよ秀逸な発見である」
という表現。
俳句ってよく客観写生とか写生とかって
「事実」であることが前提っぽく言われることがあるけど、
うちの師は
「事実であったにせよ」
っていうんだって。
実際に合った事としての事実と
詩的事実は違う、
みたいなことを
よくおっしゃってましたね。

ああ、
思い出すとどんどん懐かしくなってしまう。
個人的によく言われたのが
「焦らない」ということ。
どこの先生もそれは同じなんでしょうね。
結果を焦らず詠み続けること
とにかくそれを言われ続けてた気がします。
(つまりめちゃ焦ってた)

短歌を始めて二年目で、
結果を焦らない
というのは、多分一緒なんだろうなと思いつつ、
俳句を始めた当時と、
今のわたしは、
まず年齢が全然違うから、
やっぱりある程度の焦りはどうしてもあるよ
って気もしますが、
逆に
40代後半からのスタートじゃ
20代で俳句を始めた当時のような
野心は持ちようがない
っていうところは
さみしいけどホントのところで、
ぶっちゃけると、
俳句を始めて二年目で、
最初に入った結社の(今もいる)
新人賞を頂いて、
その後誘われて入った全国区の大手結社でも、
三年以内に新人賞をオレは取る!
とか思ってましたもん。
鼻持ちならないでしょw
そんで、総合俳句誌から原稿依頼を貰う
っていう目標をひそかに持ってましたw
今はね、
長く自分なりに楽しめればいい
っていうスタンスでいるんですけどね。
俳句も短歌も。
でも、出来れば
誰かから注目される作家になりたい
という気持はあったりして、
その辺がやっぱり焦らせますね。

うたの日(7月10日「自由詠」)


お久しぶりです。
毎月10日は自由詠の日、
ということで、
うたの日にも久しぶりに参加しました。
やっぱりうたの日は楽しいですね。

うたの日

7月10日のお題は自由詠
5つある部屋全部が自由詠ですが、
わたしは4つめのお部屋に参加しました。

ストローをすすむ豆乳きょう雨がふれば行かない理由ができる(しま・しましま)
出してしまった後で、
あ、「きょう」って参院選の投票日だな
って気がついて(忘れずに投票には行きましたが)
このうたの行きたくないのが選挙のことって取られちゃうかな
とも、思ったんですが、
あんまり選挙とは関係ない「きょう」のことでした。
直前までとても楽しみにしていたイベントでも
その前夜とか当日の朝とかに、
急におっくうになったり気持が沈んだりして
あー行きたくねぇ
って気になってしまうことありますよね。

ハートを入れたうた。
淡海わこさんの
口中で氷をゆっくり噛みしめてキュウと鳴る音だけ聞いている
「キュウ」という擬音、
見るだけで、
「氷をゆっくり噛みしめ」たときのあの感じが
蘇ってくるみたいでした。
ガリガリ噛むんじゃなくて、ゆっくり噛むと
「キュウ」って感じですよね。
少しずつ氷に歯が沈んでいくような、
弾力があるものを噛んでるような変な感じ。
もともとは
冷たいものを口にしたかったか、
氷の味自体を楽しみたかったか、
その歯ごたえを堪能したかったか、
とにかく、
「氷」を口にすることがメインだったはずなのに
いつのまにか
「キュウと鳴る音だけ聞いている」
というのが
なんだか主体の心象を想像させられるようで
いいなって思いました。
他に聞きたい音もなくて、
ただその音だけを聞いてる、みたいな。
初句の「口中の」は、
いらないような気がしなくもないですが、
あえて言葉にして表現されることで、
ぱっと読む側の意識が「口中」に行くようで、
やっぱりいらなくないなぁって
気がします(最後えらそうでごめんなさい)。

音符を入れたうた。
富井丈生さんの
書けど書けど醜き字なり六畳を紙墨の山にうめてしまへり
自分の書に、いま一つ納得がいかないことから、
書いても書いても、
いや、書けば書くほど
「醜き字なり」という気持に陥ってしまう。
その気持が、
やや大仰に「六畳を紙墨の山にうめてしまへり」
となってしまう感じ、
わかるなぁって気がします。
「書けど書けど醜き字なり」
という上の句に強いインパクトがありますね。
「醜」という字の強さと、初句の字余りが、
「なり」という詠嘆をより強めてるって気がします。
下の句の
「六畳を紙墨の山にうめてしまへり」
強い上の句と次の下の句のつなぎ目にある
「六畳を」のさらっと流した感じから、
「紙墨(しぼく)」という印象的で且つ、
これが書をしたためてるところだと分る熟語を置いて、
「山にうめてしまへり」
と、ややヤケクソ感のあるユーモアを漂わせて終わるところとか、
上手いなぁって思います。
端正な雰囲気とトホホ感が
なんともいえない味わいになってるなぁって思って、
すきな作品でした。
朝倉洋一さんの
草舟にこんぺいとうを積み込んでみんな泣いてた蟻の出港
「草舟にこんぺいとう」
うわー、もうそれだけでも叙情的ですてきな景だな
って思います。
「こんぺいとう」の甘さを「草舟」が少し抑えつつ
和テイストのメルヘンな映像が浮かんで来ます。
で、その舟は「蟻」のための舟なんですね。
「みんな泣いてた」っていうのは、
積み込みを手伝って見送る側でしょうか。
舟に乗り込んでいる側の蟻たちでしょうか。
船出というと、ふたつのイメージが浮かんで来ます。
端的にいうと出発と死、ですね。
もしかしたらどちらも同じものなのかも知れませんが。
死んだ蟻を、こんぺいとうと共に舟で流して弔いとする
という情景にも、
涙と共ににぎやかに舟に乗り込んで、
再び帰らない旅を見送る、
という情景にも思えます。
ほんのりと暗さを漂わせた童話のようで
ステキでした。
矢波多恵さんの
半分のパピコを渡す気軽さで出された好きが手の中にある
主体の「手の中にある」という「好き」は、
主体の気持ではなくて、
主体に伝えられた「好き」なんですね。
「好き」という気持が、
手の中に納まるサイズのモノとしてある、
というところが面白いなって思いました。
モノをぽんと渡すみたいにして渡された
「好き」という気持、
思わず受け取っちゃったけど、
さて、どうしよう
みたいな、
こんな軽くていいん?
みたいな、
そんな主体の困惑した感じが、
「手の中にある」という結句に漂うような気がしました。
ぢつと手を見る、みたいな。
「半分のパピコ」っていう気軽さの表現も
キャッチーですごくいいなって思いました。

コメントを入れたうた。
もりのさとさんの
冷水をガラスコップに注ぐとき遠くの海に沈む客船
とにかく「遠くの海に沈む客船」の
不穏だけど何か惹かれるイメージが
うーん、いいな…でも……
って感じでした。
これはわたしの抱いたイメージですが、
例えば、映像としての「沈む客船」。
音のない映像で、最初はゆっくり傾いていって、
あるところから急激に沈んでいく大型の船
って感じのものを想像しました。
それを、
ガラスコップの中にイメージするのって
いいな、好きな感じの連想だな
って思ったんですが、
「冷水をガラスコップに注ぐとき」
に、それを思うという感じは、
ちょっと自分の中で繋がらなくて、
迷ったあげくのコメントのみ、という感じでした。
桔梗さんの
さみしさへ向かふ電車の窓ガラスの張り裂けさうなゆふひの色だ
このうたも、
「張り裂けさうなゆふひの色」
っていうフレーズがとてもステキで、
それだけでご飯がすすむぐらいいいなって
そう思うんですが、
でも……となっちゃった作品でした。
「さみしさへ向かふ」が
なんとなく言いすぎてるかなって、
同時に情景がはっきりしないかなって思うのと、
「張り裂けさう」なのは、
「ゆふひの色」の方なのか、
「窓ガラス」の方なのかなって思ったら、
なんとなく鑑賞がぐらついて
分らなくなってしまったのでした。

うたの日(6月30日「骨」)


うたの日

6月30日に投票したもの、
最後に「骨」です。
もう4日も前のやつですよ。

ハートを入れたうた。
坊斎さんの
身離れの悪い魚だきっちりと食い込んでいる生きていた骨だ
「身離れ」、
人間が調理して食べる時に魚に与える評価の一つですね。
その「身離れ」が「悪い魚」というのは、
食べる者にとって都合の悪いことを、
その魚が生きていた頃の、
「生きていた骨」へ思いを寄せて考える
っていうところがステキだなって思いました。
実際のところ、このうたの説が正しいのかどうかわかりませんが、
確かに間違いではない「生きていた骨」。
とにかくハッとさせられるのは、
「身離れ」というフレーズで
離れていく方の「身(肉)」の方ではなくて、
残される方の「骨」に注目されてるところ。
「~だ」「~だ」という並列な並べ方をして、
「身離れの悪い魚だ」(死後・全体)
「きっちりと食い込んでいる生きていた骨だ」(生前・骨)
と提示されているところも
とても印象的なうたでした。

音符を入れたうた。
高松紗都子さんの
ひっそりと芝生に尾骨しずませて七月を呼ぶ風に吹かれる
きれいなイメージがうかぶ涼しげなうた
って感じがします。
尾骨がしずむってことは、
ある程度伸びた芝生でしょうか。
そうすると、
芝生に風が吹き渡る様子とかも
ありありとわかるんでしょうね。
天使きらりさんの
腰痛に悲鳴を上げる処置室に骨格模型ゆらゆら揺れる
腰ってやっぱり体の中の要の部分なんだなって
腰痛になると思いますね。
ここが痛いとほぼ動けなくなるので。
ちょっと動いただけでも思わず悲鳴を上げてしまうような
ひどい腰痛のために行った病院の処置室。
そこに置かれた骨格模型が「ゆらゆら揺れる」のを
動けない主体はどう見たんでしょうね。
骨格模型ですから、それこそ固定されてて動けないはずですが、
風か何かでちょっと揺れたのを見て、
今の自分よりも動ける、
自由な感じみたいなものを感じたのかなって思いました。
ほんのりとしたユーモアがあって
すきなうたでした。
姉野もねさんの
捨てられたチキンの骨がカタカタとぼくを迎える深夜のキッチン
ちょっと怖いような、
どこかファンタジックな感じがするのは、
「深夜のキッチン」で「ぼくを迎え」てくれてるからでしょうか。
うたの日でちらっと書いたんですが、
わたしはこのうたを一読して、
以前読んだ童話を思い出しました。
よく考えると、全然このうたとは違うんですが、
骨を拾ってきて、これでスープをつくろうって思う、
なかなか凄い発想の持主のおばあさんのはなしで、
「骨がカタカタ」「深夜のキッチン」辺りのフレーズで
それを思い出したのかも知れません。
それにしても、
このうたも不思議なファンタジックさがあって、
そこが魅力的です。
食べ終わった後の「チキンの骨」、
しかもすでに「捨てられたチキンの骨」は、
「ぼく」を何に誘うんでしょうか。
でも、何があってもおかしくないような
そんな気がするのは「深夜のキッチン」ならではかなぁ
とか思います。

ということで、長々と書いてきたうたの日6月30日分はおしまいです。
またうたの日に出詠したら、
ここで票を入れたうたについて感想を書きますが、
しばらくはお休みです。
またいつか。

うたの日(6月30日「アニメソング」)


うたの日

引き続き6月30日の感想書いてます。
今日は「アニメソング」

ハートを入れたうた。
たくあんさんの
父さんは今日もどこかでデビルマンしてきたらしく疲れた様子
「今日もどこかでデビルマン」。
この昭和懐かしいアニメソングと、
疲れた様子の「父さん」がめっちゃマッチしてます。
ちなみに、
「今日もどこかでデビルマン」は、
知らない方も想像がつくとは思いますが、
「デビルマン」のエンディング曲です。
「だーれもしらない 知られちゃいけーないー」
で始まるアレです。
うたの最後が「今日もどこかでデビルマン」
というフレーズなんですが、
この歌のタイトルも、
「今日もどこかでデビルマン」なんですよね。
ちなみに作詞は阿久悠。
と、寄り道してしまいましたが、
この「今日もどこかでデビルマンしてきたらし」いお父さん。
何をしてきたんだろう
色々想像が広がって楽しく、
そしてちょっと悲哀が感じられていいなって思いました。
この「今日もどこかでデビルマン」というフレーズの
入れ方が上手いんだなぁ。
しかしホントに何したんでしょうね。
そういえば、
「今日もどこかでデビルマン」の歌詞も、
ほとんど何にもデビルマンについて言ってないんですよね。
秘すれば花とかいう言葉もありますが、
わからないところがいいんでしょうね。
お父さんのこと労ってあげてほしい、
そんなうたでした。

音符を入れたうた。
フジタレイさんの
駅前で道を訊かれるパリまでの 道はとおいよペリーヌ、バロン
「ペリーヌ物語」の主題歌ですね。
エクトール・アンリ・マロの二大児童文学、
「家なき子」と「家なき少女(娘)」のうちの、
「家なき少女」を原作としたアニメで、
父を亡くした後、
母親と共に父のふるさとであるパリを目指す少女ペリーヌの物語です。
「道はとおいよペリーヌ」ってフレーズが、
このアニメの主題歌の中にあるんです。
それにしても
「駅前で道を訊かれる」のは、まああることかも知れませんが、
その目的地が「パリ」っていうすっとんきょうさが
めっちゃ楽しい歌です。
どこの「駅前」かはわかりませんが、
たぶんパリはめちゃめちゃ遠いでしょうね。
駅前で道を訊かれるという、日常的に起り得ることの中に、
するっと「パリ」という異物が入り込んで、
非日常になってしまったところに、
唐突なペリーヌ物語って面白すぎるなって思いました。
そして、最後に「バロン」の名前が、
ペリーヌの名前と共に呼ばれるところにぐっときます。
このバロンっていうのはアニメ「ペリーヌ物語」で、
ペリーヌと一緒に旅をする犬。
エンディング曲はこのバロンを歌ったもので、
おお、エンディングまで髣髴とさせちゃう?
と思って余計にうれしくなってしまいました。
木村比呂さんの
炎天下ン・パカ マーチで歩いてるときのわたしは わたしは 不在
まず、「ン・パカ マーチ」っていうチョイス
そこにおおってなりました。
福永令三の児童文学「クレヨン王国」シリーズをアニメ化した
「夢のクレヨン王国」の主題歌ですね。
アニメって大人が楽しむこと前提で作られたものが
最近は大多数な感じがしますが、
このアニメは、あきらかに子供が見るためのものって感じがします。
なので、
放映当時にこれを子供として楽しんでいた人か、
あるいは、子供と一緒に見ていた大人、
なのかな。
それぞれ立場が違うんで微妙に違うかもですが、
ほんのりとした郷愁みたいのが
漂う曲チョイスって気がします。
炎天下、ただひたすら歩かなきゃいけないときに、
頭の中で一つの曲が延々とループしてる
みたいなことって
けっこうあることだと思います。
だんだんと無我の境地(?)にさしかかってきて
自分の中の「わたし」が消えてしまって、
シルバー王女と一緒に歩くだけ装置みたいになっちゃう
みたいな感じが想像されました。
ところで、
読んでいて、
なんとなく二句目字余りっぽいなぁ、
って思ってたんですが、
「ン・パカ マーチ」の「・」に、
ついうっかり一音分使っちゃってるからだ
って気がつきました。
この字余りしてないのに字余り感って面白いなぁ。
所さんの
アニソンに迂回して5曲ほんとうに「キスしてほしい」こと届かない
「アニソン(アニメソング)」という題を詠み込んで、
メインが違う曲っていうところが面白いです。
五曲も迂回して、やっと心を決めて歌った、
願いをこめた曲、
だけど相手にはその真意が届かなかった
みたいな歌意なんだと思うんですが、
めっちゃ不器用な人なんだなって
微笑ましくなりますね。
ていうか、
そもそも「キスしてほしい」で
「キスしてほしい」ことが伝わるものなんでしょうか。
そういうところも含めて
回りくどくて不器用なところが
可愛らしいなって思いました。
字余り、句またがり、助詞ぬき
それらも不器用さの表われなのかも。
ちょっと盛り込みすぎたような気もしないでもないですが。

うたの日(6月30日「総」「同性愛」)


うたの日

昨日に引き続いて
6月30日に投票をしたもの。
今日は「総」「同性愛」の感想です。
「総」はともかく「同性愛」の方は
なかなか選ぶのが難しかったです。

ハートを入れたうた。
御泉水さんの
罪けがれ総て祓へと願ひつつ茅の輪ぐりて君健やかに
ええと、
まず、このうたは「茅の輪潜りて」の「潜」の一字が落ちてたそうです。
なので、正式には
罪けがれ総て祓へと願ひつつ茅の輪潜ぐりて君健やかに
なんですね。
っていうか全然気がつきませんでした!てへ。
6月30日は全国的にどこの神社でもそうなんでしょうか、
夏越の祓でしたね。
神社の境内とかに茅で編んだ大きな輪っかが置かれて、
そこをくぐることで
半年分の罪けがれを祓って無病息災を祈る、
ってな行事ですね。
「罪けがれ」を祓うと言うとなんだか大層な感じがしますが、
日常の中で積み重なってきたささやかなもの、
ちょっと嘘ついたとか、ちょっとわがまま言ったとか、
虫を殺しちゃったとか、
たぶんそのぐらいの規模のものと思われます。
で、このうたなんですが、
季節感と緑の茅の輪の爽やかさ、
敬虔な思い(親として子へ出来るだけという発露かなって思います)
などが窺われて、しみじみといいうただなって思います。
構成もステキですよね。
「罪けがれ総て祓へと願ひ」
の、潜る前、潜っているときの心情から入って、
「茅の輪潜ぐりて」
で、アクションがあって、
そこから
「君健やかに」
でふわーっと未来へ目を向けたひろがりが感じられます。
茅の輪自体結構開放的な作りなので
トンネルをくぐるような、そんな雰囲気ではないんですが、
それでも幼い子供と一緒に、
子供の足元に気をつけながら茅の輪をくぐると
たぶん目線は下にいく、ような気がするんです。
そこからの「君健やかに」の広がり方がステキだなって思いました。
さはらやさんの
君のいう恋とはつまり同性愛何度も何度もその詩を読んだ
はっきりとこのうたの表現してるところが
つかめたわけじゃないんですが、
なんかぐっと惹かれるところのあるうたでした。
「君のいう恋とはつまり同性愛」
「何度も何度もその詩を読んだ」
と二つに分かれる形式なんだと思いますが、
最初にこのうたを目にした時は、
左から順番に読んで意味を取っていって、
君にとっての恋は、一般的に言う同性愛にあたるものなんだね、
つまり君は同性愛者なんだね。
今はまだそれがどういう意味なのか
はっきりとわからないわたし(あるいは僕)は、
何度も「その詩」を読んで、
「君のいう恋」を理解したいと思った……
みたいな感じかなって思いました。
が、そうすると「その詩」の「その」が何を指してるのか
さっぱりわからないんですよね。
だから、かなり
(こういうことが言いたくてこう表現してあるんじゃないかなぁ)
って想像で補って読んだ感じです。
で、そのあと、
「君のいう恋とはつまり同性愛」
というのが「その詩」の一節なのかも、
とか思いました。
その詩を読もうと思った理由は、
実在(うたの中の、ね)の「君」がその詩の中の「君」同様に
同性愛者であるとわかって、
その気持の一端でも理解したいと思ったから、
そして、そのために「何度も何度も」読んだ、
みたいな感じかなぁと。
でも、やっぱりはっきりそうだなって確信は出来なかったんですが、
少なくとも
「君」を理解したいという気持で
「何度も何度もその詩を読んだ」
っていう真摯な主体に惹かれて、ハートをつけさせてもらいました。

音符を入れたうた。
温子さんの
泣くほどの悔しさなんてあれ以来あっただろうか夏の総体
このうたは
「泣くほどの悔しさなんてあれ以来あっただろうか」
と、初句から四句までたっぷり使って、
自分自身への問いかけになってます。
で結句にぽんと置かれたような「夏の総体」で、
一首のイメージを鮮やかに方向付けた、
そんな感じがします。
こういう形式のうたって、
たまに見かけます。
なんとなく結句が答え合わせみたいで
どうなんだろうなぁって思うこともあるんですが、
このうたの場合は上手く決まってる
って気がします。
「夏の総体」のイメージ喚起力のつよさでしょうか。
って、
実はわたし自身は中高と文化系の部活の
しかもほぼ幽霊部員で
高校時代に至っては
帰宅部が忙しくて他の事をするヒマがなかったぐらいで
「総体」どころか部活動そのものにも
あんまり思い出がないんですが、
うちの長女が小学生の頃から吹奏楽をやってたので
なんとなく「夏の総体」の熱い感じも
想像が出来ます。
「泣くほどの悔しさ」を感じたのも、
その頃の出来る限りの時間と体力を費やした結果だからこそ
って感じがしますね。
これは大人になると、
やりたくてもなかなか出来ないことで、
そういう悔し泣きを経験されたって
きっといい思い出ですよね。
綴紡さんの
10年間君の幸せだけ祈り新婦友情スピーチ終えた
友達として付き合ってきて、
ついに恋心を告白することが出来なかった、
THE純愛って感じがします。
「10年間君の幸せだけ祈り」の「10年間」が
これまでの10年間でもあり、これからの10年間でもあるのかな
って気がします。
「10年間君の幸せだけ祈り(ながら過ごした日々も)新婦友情スピーチ(も)終えた」
「10年間君の幸せだけ祈り(ながら過ごした日々を思い返しながら)」
とも想像できますが、
「(10年間君の幸せだけ祈り、今またこれからの)10年間(の)君の幸せだけ祈り(つつ)」
とも想像されて。
「新婦友情スピーチ」ってフレーズも
なかなか心情が想像されてぐっとくるなって思います。
もしかしたら普通に
そういう言葉があるのかもしれませんが、
(新婦側の)友人代表スピーチを
あえて「友情」という言葉を入れて、
秘めた愛情はこのまま自分の胸にしまっておく、
みたいな意志があるような気がしました。
多香子さんの
くちびるは私の方が紅いのね、セーラー服の似合う姉さま
大正昭和初期の吉屋信子的な世界観が、
あきらかにこれはフィクションとしてイメージを膨らませてます
って感じがして、
読む側のわたしもそこにイメージをのっけやすかった
という気がします。
びっくりするほど達筆の、
下級生からのラブレターとかが想像されますが、
「くちびるは私の方が紅いのね」の「紅いのね」という
いわゆるタメグチ的な言葉遣いに、
単なる憧れの上級生に対する下級生の恋心というより、
もうちょっと親密な雰囲気が漂ってて
ちょっとドキッとします。

うたの日(6月30日「カップラーメン」)


うたの日(6月30日)

この日のお題は「総」「同性愛」「カップラーメン」「アニメソング」「骨」でした。

この日は「カップラーメン」の方に出詠したんですが、
他の題の部屋にも全部顔を出して、
選とコメントを入れてきました。
今日はとりあえず「カップラーメン」ですが、
明日以降他の題の方の感想も続けてアップします。

ひとりでにひらく紙ふた三分のくらさにがまんできない海老だ(しま・しましま)
ひとりでにひらいてしまう紙のふた、というのが
最初に出てきて、
そこからこういう形に落ち着きました。
「紙ふた」って、本当は「紙ぶた」なんですよね。
でも、語感がいまいちなのと、
ぱっと見に「ぶた」が浮き出て見えるといやだなぁって思って、
あえて濁らせずに「紙ふた」としました。
「かみぶた」を「かみふた」ってすると、
本来は濁るべきところが濁らないので、
ちょっと変な感じがしますが、
そこがちょっと不安定で、それも面白いかなぁって。
それはともかく、
バラを頂いて、すごくうれしいです。
これでなんと三連続のバラ。
六月の最後をこういう形で締められるって
めっちゃうれしいです。
有終の美、みたいな。

ハートを入れたうた。
下弦さんの
十一時五十七分きっかりに湯注ぐ攻めのカップラーメン
シンプルに「十一時五十七分」と「攻めのカップラーメン」だけに
焦点があててあるうた。
「攻めのカップラーメン」て面白いです。
なにかアグレッシブなものが「十一時五十七分」にある、
ってことですよね。
最初、あえて深夜に食べるカップラーメン
とかも考えたんですが、
「五十七分」なんですよね。
ということは、
逆算して十二時丁度に蓋を開ける!
みたいな勢いがあるんで、
ここに「深夜」っていうタイプの攻め方も入れると
こっちの「五十七分」の攻撃性がぼやけてしまうかも
とか、
そんなことを考えて、
これは普通に昼食としてのカップラーメンだろうと思いなおしました。
とにかく逆算して三分、というところだけに特化した感じ、
こういうエッジの効かせ方もあるんだなぁって
うわーすごい!
って思わせられるうたでした。
うん、「五十七分」の発見もすごいなぁ。
カップラーメンといえば「三分」。
「さんぷん」
七五調で表現するときに、4音のフレーズは便利ですが、
助詞がつくこと前提の4音なので、
「三分」にそこまでパンチを効かせられないけど、
「五十七分」ってちょうど7音なんですよ。
助詞なしでポンとそこに置くのに
めっちゃ丁度いい音数じゃないですか。
いいな、こういうフレーズをゲットするのって
やっぱり才能なのかなぁって
羨ましいです。

音符を入れたうた。
堀口万理奈さんの
手軽さで選んでみてよ真夜中のカップラーメンでいいの私は
このうたと、もうひとつ
西村曜さんの
「で」じゃなくてカップラーメン「が」いいのです手軽な恋がしたいものです
が、なんか奇跡のコラボちっくで
面白くてどちらも頂いてしまいました。
堀口さんのは、
主体が、カップラーメンのような存在であってもいいから、
手軽だから選んで欲しいってうたで、
西村さんの方は、
カップラーメンのような存在こそ選びたいんだ、
手軽な恋がしたいんだから
っていううた。
もう、お前ら付き合っちゃえよ
みたいな感じですが、
これが実際に出会ったら、たぶん付き合わないんだろうなとか
そんな事を考えて、
なんだか一人でニヤニヤしてしまいました。
まあ、結果が出たら作者はどちらも女性でしたが。
「で」じゃなくて「が」がいいっていう選ぶ側と
「で」いいから選んでほしい側っていう
「で」まできっちりポイントになってるところとか
ホント面白いなぁ。
堀口さんのうたは、
手軽さをセールスポイントにしてるっぽいんですが
結びの「私は」に
なんとも言えないウェットさがあって、
これはもしかして手軽なようでいて、
あとで地雷化する案件か?
とか失礼すぎることまで考えてしまいました。
でも、あえてはすっぱな感じに言ってるけど
ホントは純情、みたいなのって
めっちゃかわいい女って気もします。
西村さんのうたは、
「○○でいい」「○○がいい」問題から、
手軽な恋へと結びつけたものですね。
夏になると我が家ではよく、
「そうめんでいい」とか家族に言われて、
そうめん「で」いいってなんだよ。
そうめんバカにすんな。
っていうかそうめんめんどくさいってしらないの?
ご飯なら炊飯器が炊いてくれるけど、
そうめんはコンロの前につきっきりなんだよ
っていう定番のひとくだりがありますが、
そういう「で」ではないようです。
そこでなんで「カップラーメン」「が」いいのかは、
個人の好みの問題もあると思いますが、
「○○でいい」って選ぶほうが言うのは
確かにやだなって思います。
ねむけさんの
もし僕がほんとはカップラーメンの精でも明日ピクニックする?
「ピクニック」
このステキな響き。
「明日ピクニックする?」のフレーズに魅了されての音符、
というような感じでした。
うん、「ピクニック」。
聞いた事はあるけど見たこともしたこともない
都市伝説のような行楽という存在でしたが、
あるんですねー。
しかも、その相手が
真偽のほどはわかりませんが、
「カップラーメンの精」である可能性があるとしたら
なんてファンタジックなデート(デート?)なんだろう。
しかし「カップラーメンの精」だとしたら、
どういう不都合があるから
キャンセルされるかもって思うんでしょうね。
そもそも人間じゃなかったなんて!
の、部分なのか
よりによって「カップラーメン」の精なのかよ
っていう部分なのか。
そうやって、いろいろと想像が膨らんでしまいますが、
「カップラーメン」という題で、
こんな意外な方向で楽しく詠めるってすてきだなぁ。

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