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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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一つ前の記事について

前回書いた記事ですが、
ホント不勉強の上に自分の持ってる印象ばっかりで、
時間が経つに連れて、
めっちゃ恥ずかしくなってきました。
多分ほとんど読まれてないか
読まれた方もさほど気にされてないのが
逆に良かったという複雑な感じ。
多分、
またしばらくたって
今以上に客観的に見られるようになったら
穴だらけの文章なんだろうなぁ。
(それに気がついたら速攻消す予感がします)

でも、何か書きたくなっちゃうんだよね。
ツイッターで話題になってることとかあると、
つい自分でもそれについて考えちゃって、
考えちゃうと言葉にしたくなっちゃう。
こわいよねー
あたしにも言わせて病。
前回の記事みたいに、
論点がずれてたり、
自分なりの着地点もないのに、
それでも発病しちゃう。
またこれからもちょいちょい発病して、
でもツイッターで言うのは恥ずかしいなって時に
ここで書き散らしちゃうかも。
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なんか色々と誤解しているかもしれないワタクシと虚構


ツイッターで短歌の「私性」なるものについて、
色々な方が考えを表明されてて、
その総てを追えたわけじゃないし、
そもそも発端が分らないから
なんとも言いがたいものがあるなぁって思ってたんですが、
あれ?
ちょっと待って
「私性」って「わたし」性なの?
と、根本のところでこんがらがってしまいました。
わたしが「私性」で考えてたのは「わたくし」性ね。
一首の中に「わたくし」があるかどうか。
「わたくし」は「オレ」的な意味じゃなくて、
「公(おおやけ)」に対する「個人」の「わたくし」。
一首の中に自我があるかどうか、
みたいな感じかなって思ってます。
えーっと
視点が(少なくとも一首の中における)自分からのものであるか
ということと思ってました。
例えば、わたしが感じるところは、ですが
神の視点、小説でいえば地の文みたいなものとか
安易な擬人化とか、そういうのに違和感を感じたりします。
あと、
バラバラの一首一首でも、
通読すると一人の人物像がふわっと浮き上がってくるような
根っこのところで何か揺るがないものがある、とか。
実際に一首の中の自分が、
必ずしも作者自身でなければいけないとか
そうは思わないけど、
そのうたを詠んでる最中は作中主体と作者が同化してないと
あんまり面白くないかなあとか思います。
血の通ったひとりの人間の見聞きして感じたもの
っていう土台が欲しいというか。
わたしが俳句育ちで、
少なくともわたしが触れてきた俳句が
「我、今、ここ」を詠むものだった所為だと思いますが、
○○のつもりで
ぐらいの軽さで詠まれると、
あんまり響いてこないかなあとか思いがちなんですよね。

でも、
どうだろうなぁ。
今って読む側の共通見解みたいなものをベースにして
詠むのも読むのも楽しまれてる的なところがあるような気がします。
正岡子規以前のいわゆる月並俳句って言われた俳句。
(あれ?子規じゃなくて芭蕉かな?
と、思って今ちょっと調べたけど
1感情に訴えずに知識に訴えようとするもの。
2陳腐を好み、新奇を嫌うもの。
3言語のかいし(たるみ)を好み、緊密さを嫌う傾向。
4使い慣れた狭い範囲の用語になずむもの。
5俳句界の系統や流派に光栄ありと自信するもの。
というのが子規のいう月並らしい。
ってことは芭蕉以前ということかな
まあ、いいや)
一定のお約束(梅にうぐいす的な)を前提として座で楽しまれたように、
現在の読者が共感しやすいドラマとかマンガとかファンタジーとかSFとか
あるいは三丁目の夕日的なthe昭和とか
すでにがっちりした土台というか
そういう作者読者が分かち合える世界観の上に
詠まれる短歌というのもアリに戻って来た、みたいな。
わたしは短歌については不勉強なので、
座、短歌だと歌会の場とかでしょうか、
そういうところで過去にそういう梅にうぐいす的な世界観を楽しむ時代が
あったのかはわかりませんが。

私性と虚構って並べて語られること多いみたいですね。
探してみたら2015年2月号「角川短歌」で
特別企画として「私性論議ふたたび」ってのがあって、
そうか、これって何度も論議されてるテーマなんだなって
分ったわけなんですが、
ここでも結局虚構問題についてメインで考えられてるようなので、
短歌の私性ってつまりワタクシ性(わたしの思ってた)ではなくて
やっぱり作中主体=オレ的な私性ってことなのかな。
それはそうとして
虚構問題とかも、
よく私性とからめて語られることがあるみたいだけど、
その時に小説ではとかって一緒に絡めて言われたりしてるような
そんな気がしますが、
小説は長い文章なんだから、まるまる空想だったとしても、
言葉を重ねることでリアリティを演出できる。
でも短歌はたった31音(俳句なら17音)だから、
まるまる空想でリアリティや状況説明は出来ないんだし、
そうなると、作中主体は作者とほぼ同じであるって考えた方が、
いいんじゃない?
って思ってたんですが……。
実は今はその考え方もぐらついてます。
確かに俳句は17音ぽっきりでの勝負なことが多いですが、
短歌には連作がある。
(俳句にも連作はあるけど、なんか違う気がする)
5、10、20、30首と、
数が多くなればなるほど、
小説的手法で世界観を構築しやすくなるし、
そうすると虚構の物語でも不自然ではなくなるんじゃないかなって。

ここでわたしがいう虚構っていうのは、
ホントにそこであなたはそうだったの?
的なことではなくて、
作中主体やそれを取り巻く世界観そのものが虚構っていうものです。
前にもなんか書いたことがあるけど、
うちの俳句の師は、
「それが事実であるにせよこの配置はよい」
みたいな評をよく書かれてました。
そこに詠まれていることが事実かどうかは
そんなに関係ない
というか、
それは演出みたいなもので、
大切なのは一句の軸にある「我」がどう見て、どう感じて、
それをどう表現したか
ってことって意味と受け取ってます。
だから、本当はわたしそんなことしてないから
これは虚構、フィクション
とは言い切れないところがあるかなあと。

そんなことをつらつらと浮かんだままに書いてみましたが、
多分そうとうあさっての方向にトンチンカンなんだろうなと
自覚してます。ふひひ。

うたの日(8月11日~20日)出詠分まとめ


うたの日
しま・しましま出詠分

8月11日「自由詠」
好きがみんな免罪符になどなりはしないキウイ食べれば喉がかゆいよ

キウイもなんですが、
去年ぐらいからトマトを食べても
喉がかゆくなるようになってしまいました。
特にトマトは好きだっただけにとても残念でした。
というのはあんまり関係がない話だけど、
686という上の句全部余らせていくスタイルで
不快感が強調されればって思いました。

8月12日「アイス」
まだ海は見えないけれどコンビニでガリガリ君を買えば潮風

404notF0816さんから評をいただきました。
ガリガリ君といえばやっぱりソーダ味ですよね。シンプルに。

8月13日「Siri」
濡れた指じゃマジックカットもちぎれない Hey Siri 明日は晴れるだろうか

特にキッチンで作業してる時に一番いらっとくるのがコレ。
こんな短気なわたしで大丈夫だろうか。
あと、一作業ごとに手は拭け、という気持。

8月14日「怖い話」
赤いとりいくぐっていいえいいえ、はい 帰ってください いいえ、いいえ

全国的ではないかも知れないけど、
わたしの子供の頃にはやったコックリさんは、
紙の上部に赤ペンで鳥居を書くところから始まりました。
そこからスタートしてそこへ戻って終わり。
その頃は「コックリサン」が何かは知らなかったけど
狐狗狸さんなんですよね。
ということは赤い鳥居はお稲荷さん?

8月15日「平」
手で均すベッドシーツの平らかにわたしの影だけ正確に落つ

「平」という一文字から連想するのが、
ベッドにシーツをかける動作ぐらいしか
その時にうかばなかったんですよね。
というか、
ひとつイメージが浮かぶとそれに囚われちゃって
選択の余地が出来ないというか。

8月16日「卵」
欲しいのはこんなんじゃない卵の殻つまみ出す指つっこみながら

久しぶりのどんまい!つまりゼロ票でした。
「卵の殻つまみ出す指つっこみながら」って
めっちゃガタガタしてますね。
白身のかたまりに邪魔されながら、
ぬるぬるの中を小さい白い殻を指で探ってると、
ホント何やってんだって気持になります。

8月17日「はい」
新しいわたしをつくる「はい」だけで診断チャートをぐいぐい進め

正確判断とかの診断チャート、全部自分の反対を選んだら、
今の真逆になるのかと思うんですが、どうなんでしょうね。
ところでこのうたの結句というか締めの部分なんですが、
「進め」って微妙だったなぁと投票時間に入ってから気がつきました。
命令形のつもりだったんですが、
仮定形にも取れる表現ですよね。
こういう揺れは気をつけないといけないところですね。

8月18日「ルール」
水筒の麦茶ちゃぷちゃぷこどもらがルールの上を渡ってゆくよ

堂那灼風さんから評をいただきました。
そこで解説が欲しいってあったんで、
一応自解をコメント欄に入れておきました。
多重にイメージを重ねた感じに詠んでみたんですが、
チャレンジングな意欲がちょっと空回りしちゃったかなって気もうっすら。

8月19日「俳句」
まだ夏の暑さを曳きて橋を渡る高浜虚子へは連ならぬ吾

「俳句」って題、これは出さないと!
って意気込んだのはいいけど、
「俳句」をどう詠めばいいんだろうってちょっと悩みました。
で、俳句側から見た自分を詠むことにしました。
わたしは俳句では基本文語旧仮名を使うんで、
このうたもそれに準じる感じで。
って言っても旧仮名変換するポイントがたまたま無かったんですけども。
で、俳句に親しみがないと分らないことかも知れないけど、
「高浜虚子」って近代俳句の祖である正岡子規よりも
大きい存在だったりするんですよね。
単に正岡子規の弟子で「ホトトギス」という大結社の主宰だった
というだけには終らない、超ビッグネーム。
大概の有名俳人も、ずーっと師系を辿っていくと高浜虚子に辿り着くという。
ところがわたしは大須賀乙字師系を標榜している結社で育ってて、
虚子の系列ではないんです。
だから何かといえば別にそうだよっていうだけではあるんですけども。

8月20日「紐」
引けば秋のあかりとなりぬひんやりと薄暗がりにぶらさがる紐を

多分、昨日の「俳句」を少し引きずったところのあるうたかな
と自分でも思います。
「引けば秋のあかりとなりぬ」のところとか、
いかにもわたしがつくりそうな俳句の上五中七な感じ。
「り」が多くてちょっとうるさいですね。

うたの日(8月2日~10日)出詠分まとめ


うたの日
しま・しましま出詠分

8月2日「靴下」
靴下をぬぐ片膝を立てながら長い旅路も半ばの顔で

太田宣子さんから評をいただきました。
靴下ぬぐとき片膝立てると逆に脱ぎにくくない?みたいな話が
その後ツイッターであった気がします。
子供の頃からの癖なんだと思いますが、
履くときも脱ぐ時も座って膝立ててることが多いですね。

8月3日「痛」
夢のなかで撃たれた胸に手をあてるどんな痛みもこの世のものだ

シュンイチさんから評をいただきました。
よく言われることですが、夢だから痛くないってやつ、
実際思い返してみても夢の中で痛かったこと思い出せないんですよね。

8月4日「注」
新聞でつくった筒に注ぐ水、なかったことには出来ない涙

マジックで新聞に注いだ水が紙ふぶきになるやつ、
子供の頃ホント不思議でした。
水が紙ふぶきにかわるというよりも
水がどこかへ消えて、紙ふぶきが突如現れる
そんなイメージで。

8月5日「泥」
逡巡のためのパンさえ持ってなくあっさり泥に足をしずめる

8月4日がアンデルセンの命日だったそうで、
ツイッターのTLにアンデルセンがちょこちょこ登場してたので、
こういう「泥」イメージにつながりました。
「パンを踏んだ娘」から想起した一首。

8月6日「いつか」
びしょぬれのままのホースを巻きながらいつか晩夏へかたむく西日

「いつか」という言葉を、「いつの間にか」の意味で使いました。
世間ではまだお盆前で夏真っ盛りな感じなんですが、
今って実は「晩夏」なんだよなあと。
ちなみに今年は8月7日が立秋でした。

8月7日「ベランダ」
銀河決壊したときの為ベランダは何も置かずにあけておく

太田宣子さんと太田青磁さんから評をいただきました。
以前から77575で詠んでみたいって思ってたのを
やっと形に出来たかなっていう一首。
太田青磁さんの書かれているとおり「銀河決壊」をどうしても頭に置きたくて、
普段なら77577の字余りで行くんだけど、
がたがたの落ち着かない形にした方が
なんとなくいいかなあって思って77575に。

8月8日「八」
白雪姫を足して八人こびとの家は息苦しさに魔女を待ってる

必然性のある「八」ってどんな「八」だろうって考えて、
「こびとの家」にしてみました。
この日、おなじ「八」の部屋に出されてた
加賀田優子さんの作品が、
多分同じところを詠まれてると思うんですが、
うわー、めっちゃ優しいまなざしだ!って思って、
これはもう絶対ハート!って感じでした。

8月9日「蛾」
身を焦がす熱はいらない 純白の蛾はまたたきもせず月を待つ

「蛾」というと、
自分の俳句なんですが、
「肉焼いて火蛾を親しくしたりけり」
がお気に入りで、
どうしても「火蛾」
つまり火(灯)に来る蛾をイメージしてしまうので、
それをあえて遠くしてみようと思った一首です。

8月10日「花火」
シャンプーの一部始終に目をつむりどおんどおんととおくで花火

かざなぎりんさんから評をいただきました。
見なかった花火を詠んでみました。

うたの日参加を再開したのにブログの方は全然手をつけてなかったことについて


8月にうたの日参加を再開して、
うん
6月までやってたように、
出来れば毎日、票をいれた作品の感想を書こう
そう思ってはいました。
もともと、
すきな作品の感想を書く事自体が好きだし。
でも
うーん、
うたの日の作品については
実は取り扱い注意だったりしそうだなぁって
ツイッターで時々見られる評や感想についての発言などで
ふっと感じてしまって、
今までみたいに
作者がそれを読んでどう感じるかを無視して
好き放題には書きにくいなぁって思ったのと、
もしかして
あんまり感想は求められてない雰囲気かも
って思い始めたのが、
ブログ更新を躊躇いはじめた理由でした。
そう意識してうたの日を見ていると、
そもそもコメントを書かれるかたが
そんなに多くない。
ということは、
やっぱりうたの日に評や感想は求めてない人が
多いのかもって思います。
いいねって言われれば嬉しいし、
自作を引いてもらえれば嬉しいのは
みなさんそうだと思いますが、
それ以上踏み込まない方がいいのかなぁ
と、思ったりして。


さて、
昨日はうたの人の結果発表の日でした。
うたの人は
毎日開催のうたの日からの選抜式で
月一回行われる歌会です。
こちらは投票期間が長いということと
少なくとも出詠者は評必須ということで
コメント欄が非常に賑わってます。
みんなが書くから、
まあ作者の意図しない方向に読んでても
それはまあお互い様的なところもあって
のびのびと書けるところがあるのかなぁ
とか思ったりします。
ちなみに
「作者が意図しない方向に読む」ことを
わたしは誤読とは思ってません。
そりゃ「既出」を「がいしゅつ」と読んで
字余りですよって指摘したら誤読だろうと思いますが、
読んで感じたことが
みんな同じなわけがない
っていうか、
みんな同じにしか読めない作品って
面白いかなって気がします。
いや、紛糾する作品が名作だっていうわけじゃないんですが、
どんな名作でも
それを読んで心に浮かぶものって
人によって微妙にちがうだろうし、
同じ人でも時に違う感慨を抱くこともあるだろうし
ね。
それこそ、今思ってることが伝えられるように書けてるか
甚だ疑問ではありますが。

うたの日(8月1日)


うたの日

8月1日のお題は「後」「雫」「あるある」「ポケモン」「おっぱい」でした。
と、
当たり前のように書き始めましたが、
実に一ヶ月近くのブランクがあるんですよね。
まあ、
うたの日参加自体は、
この間書いたように、
ちょこちょこやってはいたんですけども。

というわけで、
また8月からは、
しま・しましま名義でやっていって、
毎回になるかは分りませんが、
感想をここに書いていきたいと思ってます。
さて
この日は「雫」で出しました。
閉じた傘のしずくで描くたくさんの星座がどれもうっすら歪(しま・しましま)
うちの玄関前はコンクリートのたたきになってて、
そこでがっつり傘の雫を切ってから
玄関に入ります。
「閉じた傘の」と、ここ、
字余り覚悟で言うほどの情報なのか、
説明的なフレーズなんじゃないかと
自分でもうっすらと思うんですが、
開閉でばしっばしっと水滴を飛ばしても
星座っぽく見えないこともないので、
ここは雫のたれる傘でひっかいた星座の感じを出したかったのと、
初句で字余りして、
結句「うっすら歪」のどことなく不安定な体言止めを
より不安定な雰囲気にさせられるかな
って気持から、
「閉じた傘の」で決定してみました。
多分「歪(いびつ)」よりも
「歪む(ゆがむ)」の方が安定感はあるかなぁと思いつつ、
あえて。

この日ハートを入れたのは、
木蓮さんの
霧けむる山の雫に魅せられた君が白馬と同化してゆく
うたの日に
白馬が白い馬なのか地名なのかがはっきり分りませんでしたが、後者かなって思って詠みました。結句の「同化してゆく」の余韻がいいなと思いました。高原の涼しさとかのびやかさとかリリカルさがあって、ステキでした。
と、コメントを入れましたが、
作者の木蓮さんのお話では、白い馬の方だったみたいです。
わたしは、
瑞々しい山に魅せられた人が、
だんだんとその山と呼吸を合わせていって
ついに同化していってしまうようだ
みたいな感じかなって思ったんですが、
ちょっと違ってましたね。
ところで、
このうたを拝見してぱっと、
西東三鬼の
白馬を少女瀆れて下りにけむ
という俳句を思い出しました。
あれも、白い馬か、白馬岳かという
二つの読みをされた俳句だったと思います。
この俳句のイメージもあって、
このうたには、三鬼の俳句とは逆に、
手の届かないぐらいの清らかさがあるなって気がしました。

音符を入れたうた。
都草さんの
夏草に朝の雫が並んでる一つ一つに丸い青空
一読して、光景がすぐに浮かんで来て、
夏の明るさ、早朝の爽やかさが感じられるうた
って思いました。
「草」の「雫」に「丸い青空」という景を、
丁寧に詠まれててそこがいいなって思いました。
うたの日で、
「並んでる」のい抜き言葉がやや幼く感じられて気になる
って書きましたが、
そうでもないのかな
って思って、
だとしたら申し訳なかったかなぁと反省してます。
もしかしたら、
これはわたしだけの感覚なのかも知れないので、
話半分以下で受け取ってほしいところですが、
ちょっとだけ続けさせてください。
日常の中のちょっとした発見って
子供の得意分野っていうか、
大人だと、当たり前の光景過ぎて気にならないところに、
ぱっとスポットライトを当てて感激しちゃうっていう、
こども心みたいなものがないと
詠めないところかなって気がします。
この大人だけどこども心、
みたいなギャップがステキなポイントかなって思うと、
表現に大人っぽさがあると、
よりステキになったかな
って思った次第です。
文月郁葉さんの
湯あがりの肌が弾きし水滴のひとつかわれも易く抱かれて
セクシーで、
且つ影があるところがステキなうたでした。
「湯あがりの肌」は、
主体自身の肌なんじゃないかと思ったんですが、
その自分の肌が弾いた「水滴」に、
自分自身を投影するっていうところが
なんだかハッとさせられました。
「易く」という言葉もどきっとさせられました。

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