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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(2月12日「ハンバーガー」)


2月12日のうたの日は「サーカス」「ハンバーガー」「小指」「柄」でした。

「ハンバーガー」
ぺちゃんこでしめったハンバーガーだけどオレでよければ話を聞くよ(しま・しましま)
実は最初、「ハンバーグ」だと思い込んで考えていたんですが、
早めに気がついてよかった。
でも、ハンバーグの余韻が残ってしまったみたいで、
どうかんがえてもこの「オレ」は
ハンバーグ師匠。

ハートを入れたうた。
太田宣子さんの
バーガーを上手に食べて笑ひ合ふ僕らは野心の味を知らない
「僕ら」って言葉、
なかなか難しい言葉だなって思います。
主体と、あと誰のことを言ってるんだろうって
そこがひっかかってしまうことがあります。
このうたの「僕ら」は、
とりあえず
「笑ひ合ふ」「僕ら」なんだろうなって思います。
主体と、ハンバーガーを食べながら笑ってる人(あるいは人たち)。
話がそれますが、
わたし今40代の後半にいるんですが、
20歳ぐらいの頃、ロッテリアでアルバイトしたことがありました。
そこで、多分最初の日だったんじゃないかって思うんですが、
「ソースがこぼれやすいので、包みを開いて外さずにお食べ下さい」
って言ってね、
みたいな話があったのを覚えてます。
袋から出さずに食べてくださいっていうと、
そのまま袋ごとかじっちゃうお年寄りがいたから
みたいな話だったと思います。
さすがに田舎の島根でも、
当時すでにハンバーガーはめずらしい食べ物でもなんでもなかった
ので、わたしもびっくりしたんですが、
まあ、当時のお年寄りなら、
ハンバーガーは日常的な食べ物ではなかったのかも。
ハンバーガーは安価でお腹もふくれるけど、
お金のない若者の食べ物、みたいなイメージが、
それより若い年代の方たちかなって思います。
今の50~60代ぐらい?
バブル時代を経験してて、
周囲に成功例がうろうろしてて、
ハンバーガーでお腹を満たしてるのも今だけ
って信じられた世代。
ちなみに、当時のお年寄りと、この世代の中間の世代は、
パンはお菓子
って世代かなって気がします。
(うちの親とか見てると)
なんでこんな脱線話を長々としたかというと、
このうたの「僕ら」には、
そういう世代的な繋がりの「僕ら」のイメージもあるなって
そう思ったからでした。
前述したバブル経験世代と、このうたの「僕ら」は違うんだって
そういってるような気がします。
「ハンバーガーを上手に食べて笑ひ合ふ」
ってフレーズ、上手いなぁって思います。
やさしいゆるやかな連帯感が感じられて、
今の若者感あるなぁって思いました。

音符を入れたうた。
宮嶋いつくさんの
はじめての感動を思い出せないしもう近隣にドムドムがない
これは二物衝撃のうただなって思いました。
うーん、短歌用語として二物衝撃ってあるんでしたっけ?
二つの直接的な因果関係のない事柄をぶつける
みたいなことですが。
「はじめての感動」
これは、題が「ハンバーガー」ですし、
下の句に「ドムドム」ってハンバーガーチェーンの名前が登場するので、
ハンバーガーを初めて食べた感動
って思ってもいいんだろうけども、
なんの感動でもいいかなって気がします。
なんでも時間が過ぎれば、
どんな感動でも薄れてきてしまう。
軽い感動だったら、もう思い出せなくなっちゃっても仕方ない。
てことを、
子供の頃、あんなに通ったドムドムバーガーの店舗も、
もうめっきり見かけなくなってしまった。
って話に繋げて、
さらっと時が流れて行くさみしさを詠まれたうたって思いました。

WPPさんの
いつ見てもハンバーガーは明るくて わたし恋愛できないはずだ
たしかに明るいな!
って言われてみればホントそう!
って感じのうたでした。
バンズの丸さも、色あいも、
ライトな佇まいも、全部明るいな!って。
そこからの
「わたし恋愛できないはずだ」
がかなり飛躍してるんですけども、
こんなライトで軽くて明るいもので満足してるから、
ちゃんとしっかり「恋愛」できないんだ
って思っちゃう気持も、
なんとなーく分かるような……。
食べようとしたハンバーガーを前にして、
そんなことに気付いちゃってしょんぼりしてる女の子
そんな情景を想像して、
なんかかわいいなって思いました。

松木秀さんの
「ポパイ」観てハンバーガーにあこがれたハンバーガーばかり食う奴がいた
うたの日に書いたコメントをそのまま転載しますが、
「ポパイ」たしかにハンバーガーをおいしそうに食べるキャラクターがいましたね。
「ハンバーガーにあこがれた」で一旦切れて、(ポパイのキャラクターに)「ハンバーガーばかり~」ってなるのかなとも思ったんですが、「ハンバーガーにあこがれた」「ハンバーガーばかり食う」はどっちも「奴」に掛かってる言葉と思って読んだ方が好きかなって思って音符を入れます。言葉の並べ方が面白いなって思うので。
と、昨夜はそう思ったわけです。
「奴」が、「ポパイ」の登場人物、今調べたらウィンピーって人でしたが、
その人のことではない方が、
「主体」→「奴」→「ウィンピー」→「ポパイ」
って、広がる感じが面白いかなぁって思ったわけですが、
うーん、どうなんでしょうね。
ウィンピー氏の食べていたハンバーガーは、
お皿の上に乗ってるタイプのやつで、
たしかにそれはステキな食べ物っぽい感じがします。

荻森美帆さんの
まなうらに駱駝の昼は訪れてハンバーガーはみるみる丘に
不思議な雰囲気のうたで、
なんだかとてもうっとりとしてしまいます。
「まなうらに駱駝の昼」
ふわーっと明るい光とあつい砂が浮かんで来て、
思わず目を閉じてしまいそう。
ていうか、
「まなうらに」なので、もう主体は目を閉じているのでしょうか。
ふわふわーって眠くなって、
目をパチパチしても眠気が払えない、
みたいな感じを想像してしまいます。
「ハンバーガーはみるみる丘に」という下の句も、
眠すぎてだんだん遠近感がおかしくなる感じを
思わせるような気がします。
ところで
駱駝といえば砂漠
砂漠といえばピラミッド。
ピラミッドの近くにケンタッキーフライドチキン店がある
というのは有名な話だと思いますが、
別の観光地にはマクドナルドがあるらしいですね。
それはあまり関係はないのかも知れないけど、
ふっと思い出したので書いちゃいました。

永昌さんの
はみ出したミートソースを掬い取るフレンチフライ、芯まで熱い
モスバーガーの店内に写真と一緒に飾られててもおかしくないような、
スマートにモスの魅力を詠まれたうたって思いました。
リズムもよくて、四句目のあとの読点で一拍置く感じが
おしゃれに効いてるような気がします。
わたしはオニオン派なんですが、
モスのフレンチフライポテトは他よりも太めで、
「芯から熱い」感じ。

うたの日(2月11日「起」)


2月11日のうたの日は「起」「凪」「一万円」「お国自慢」でした。

「起」
ねえ起きて昼間みたいな雪明りきっくきっくとんとん遊びに行ける(しま・しましま)
折からの大雪で、
ホント夜中の窓の外が明るくてびっくりします。

ハートを入れたうた。
西村曜さんの
起きておきて、ホットケーキの日だよって朝の光がもう膨れてる
かわいくて、明るいところがとても魅力的なうたでした。
まずもう「ホットケーキの日」がいいですよね。うんすごく。
ホットケーキみたいな日なのかも知れないし、
ホットケーキを食べる日なのかも知れないけど、
とにかく「ホットケーキの日」、いいなって思います。
「起きておきて、」っていう初句の字余りですが、
文字数でいうと一字の余りなんですけども、
読点があるんで、キモチ七音みたいな感じに読めて、
リズムが悪くなってない
っていうか、逆に弾む感じになってていいなって思いました。
弾む感じっていえば、
「ホットケーキ」「だよって」の促音が並ぶところも
弾む感じでいいなぁ。
「起きておきて」「だよって」「膨れてる」
っていうやや幼い感じの言葉が、
無邪気で明るくてかわいいですよね。

音符を入れたうた。
多香子さんの
球根を掘り起こすとき手に匂う去年の冬の土の湿りよ
このうたの好きなところは、
なんといっても
「土の湿り」が匂うっていうところ。
しかもそれが「去年の冬の」っていうのが
なんかいいなって思いました。
これはわたしだけの感覚かも知れないんですが、
湿った土の匂いって、
なんとなくゴボウを思わせる清浄な匂い
って感じがするので、
冬のっていうのがすごく似合うなぁって。
それにしても何の球根なんでしょうね。
チューリップぐらいしか掘りあげた経験がないので、
ほかにどんな球根がいつごろ掘りあげるものなのか、
よく分かってないんですが。
で、
生意気にも
ただ「掘り起こすとき」なのに「手に匂う」というのは
少しだけ時間がずれているような気がしました。
なんてうたの日にコメントしちゃって、
おっとこれは大先輩のうただったか
ってちょっとおたついてるわけですが、
もうちょっと言うと、
「掘り起こすとき」って、作業してるその瞬間かなって気がするんですよ。
移植ごてを使ってるのか、
やさしく素手で土を掘ってるのか、
その辺りは分かりませんが、
手は自分の顔から離れてるんじゃないかと思うので、
その瞬間を切り取るとしたら手じゃなくて土が匂うかなって
思ったりしたわけです。
手からの匂いであれば、
「とき」ってその時間の幅を狭めない方が違和感ないかなぁとか思ったりして。

かんぬきたくみさんの
起き抜けのテレビ体操張り切って違えた筋とぶつけた小指
思わず笑っちゃううたでした。
でも、
「起き抜けのテレビ体操」
っていうのが、
早朝に起きてる、健康志向
って感じがして、
皮肉な笑いではない明るさがあっていいなって思いました。
「違えた筋」に「ぶつけた小指」っていう
複合的な痛さがまた面白いですよね。

真坂きみかさんの
真夜中に起きて去り行く一夜夫わたしの庭にアザミが咲いた
「一夜夫」、ひとよづま。
この古い言葉と、
下の句の現代的な言い回しのギャップから、
下の句の方は心象なんだって思わせるような気がしました。
「アザミ」がいいなぁって思います。
紫っていう色もあやしい雰囲気がありますし、
トゲトゲなのに花びらはとてもふんわり繊細なところとか
心の「庭に」咲く花って感じがします。
アザミは「浅む(あざむ)」って言葉から来た名前
とか聞いた事がありますが、
驚き呆れる、みたいな意味で、
花を摘もうとして痛みに浅むから
だとか。
同時に、さげすむ、あなどるって意味も「浅む」にはあるようで、
なんとなくとても複雑な花が咲いちゃったなって
そんな感じがしました。

塩麹さんの
真夜中に響く冷蔵庫の音があなたはここじゃない場所にいる
真夜中って冷蔵庫のコンプレッサーの音が
めちゃ気になりますよね。
題が「起」なので、
それで主体の目が覚めてしまったのか、
それとも音が「起きる」っていうことなのか、
どっちかなって思うんですが、
後者の方で読みました。
主体は眠ってなかったって感じで。
一人で家にいる時って、
いろんな音が大きく聞こえるような気がしますが、
中でも唐突に響く冷蔵庫の音って
孤独感を強く感じさせるような気がします。
本当は「あなた」もここにいて、
主体を淋しくさせてないはずなのに、
冷蔵庫の音が、淋しさをぶり返させるっていうか、
「あなた」が「ここじゃない場所にいる」ことを
改めて思わせてしまう
みたいな感じかなって思います。
「冷蔵庫の音が」
であれば
「と、改めて感じさせてしまう」
っていうような言葉が続くはずなんですが、
そこが全部省略されてるのかな。
って考えると、ちょっと省略しすぎちゃったかなって気がしました。

うたの日(2月10日「自由詠」)


2月10日のうたの日は「自由詠」。

全部のルームが「自由詠」ですが、
わたしは二番目のルームの「自由詠」に投稿しました。
ああまただまだ何も語られていない男が死んで始まる話(しま・しましま)
わーっと詠んで投稿したので、
後から見て、
うはーリズム悪すぎだなって反省。
もうちょっと整える必要のあるうたでした。

ハートを入れたうた。
藤 かづえさんの
僕にだけ聞こえる声でささやいて昨日しょうゆをこぼした話
やばい、妙にキュンとする!
っていううたでした。
うたの日に
「昨日しょうゆをこぼした話」一度聞けばいいかなって話のようにも思えるけど、好きな人の話す事なら内容なんてどうでもいいのかも。というか、もしかしたら途中でこらえきれずに自分で笑ってしまうとか、ちょっとした言葉の抑揚とか、囁き声でもう一度聞きたいところが内容以外にあるのかも。
ってコメントいれたんですが、
一晩置いてもやっぱりそんな感じがして
きゅんとしますね。
「僕にだけ聞こえる声でささやいて」
っていうお願いのしかたが、
逆にそうささやかれてるような気がする
というのもあるかも知れません。

音符を入れたうた。
倖さんの
あらこれは怒ってますねさっきからさけるチーズを裂かずに食べてる
怒ってる人を横目で見て……
みたいな感じがします。
「さけるチーズ」がいいですよね。
こう、ちまちまと(?)縦に裂いて食べる
手順がある楽しさみたいな。
普段は「さけるチーズ」をちゃんと細く裂いて食べる人が、
今は裂かずにかぶりついてる、
そんな姿を見て、
怒ってるなぁって思う主体。
「あらこれは怒ってますね」という、
実況風の言い方が面白いですよね。
例えば、二人は家族で、
しかも相手が怒ってる理由に心当たりがある。
っていうか、多分怒らせたのはさっきの自分の言動なんだろうな
ってわかってる人って感じに読みました。
いつも同じ事で喧嘩して怒らせてしまう
みたいな感じじゃなくて、
あーこんなことでこの人は怒っちゃうんだとか
へーこの人はこんな感じで怒りを表現するんだね
みたいな、
ちょっと距離を置いて眺めてる感じが面白いなって思いました。
ここでもっと怒りを強く表現するあいてだったら、
こんなに冷静に観察できないと思うんですが、
遠巻きに怒ってる様子を見て、ちょっと面白がってる感じが、
「あらこれは」だけじゃなくて、
さ音で頭韻を踏んだりする遊び心からも見えるような気がしました。

小川けいとさんの
煮込んでも味のしみない大根の半透明の確固たる意思
大根あるあるですよね。
煮込んでも煮込んでも、芯まで味がしみない大根。
ちゃんと半透明になってるから、火は通ってるのに。
この大根の芯に
「確固たる意思」を見たところがいいなって思いました。
俺は醤油なんかに染められないぜ
みたいな、うーん大根のくせに生意気な……
でも、そういう心意気は嫌いじゃないよ
うちのお鍋の中の大根じゃなかったらね
みたいな感じを想像して
ふふっとなっちゃいました。

砂の三郎さんの
マナティの悲しい目から受け取ったSOSに見覚えがある
マナティの目ってつぶらで愛らしいですよね。
マナティとかあと人魚として有名なジュゴンさんとか、
彼らは象と祖先を同じくするものなんだとか。
ちなみにクジラの祖先を辿ると、
こっちは象じゃなくてカバの祖先。
ほぼ同時期に海で生活する事を選んで、
片方は肉食に片方は草食のままって不思議ですよね……
って話が脱線しましたが、
象の目もつぶらで愛らしいけど、
どこか哀愁が漂っているような気がして、
そう思うと、
マナティの目も「悲しい目」と思える目なのかも。
悲しそうに見える目、
ではなくて、
例えば狭い水族館のプールの中にいることの悲しさとか、
絶滅を危惧されている種であることの悲しさとか、
マナティを悲しく見る主体の目が反映されているのかも知れません。
で、
このうたでいいなって思ったのは
結句の
「見覚えがある」
の部分。
なにか、ただ悲しいだけじゃない、
ハッとさせるものがあったんだなって思わせられました。
マナティの悲哀から、ぐっとここで主体にシフトする感じも
なんかいいなって思います。

遠井海さんの
少々の殺意はやむを得ないもの長く一緒に暮らしていれば
「少々の殺意はやむを得ないもの」
って言い切っちゃってるところに、
どきっとさせられます。
そうですかそうなんですか。
わたしも、18年一緒に暮らした家族と、
20数年暮した家族がいますが、
こいつ殺す死ねじゃなくて殺す
みたいな気持を抱かれた瞬間があったのかも知れません。
「殺意はやむを得ない」なんて
なかなか物騒な上の句に、
「長く一緒に暮らしていれば」
っていう条件が倒置法で置かれてますが、
倒置法になってるせいか、
どこか長閑な感じがして、
微妙なギャップがおもしろいなって思いました。
「少々の殺意」っていうのも、
よく考えるとへんな言葉で、
「強い殺意」とかたまに目にしますが、
「少々」って書かれると、
殺意の強弱ではなくて分量みたいにも思えて、
やっぱりなんか面白い。
面白いと思えちゃうというのは、
この家庭がそんなに殺伐としたものではないからなんだろうな
ってほっとしたりします。

うたの日(2月9日「あ」で始まる歌)


2月9日のうたの日は「ピクルス」「横」「心臓」「「あ」で始まる歌」でした。

「「あ」で始まる歌」
姉の手にひかれて行けばちり紙に包んだお菓子の手触りがする(しま・しましま)
数日前から、
昭和テイストに、ちり紙にくるまれたバラのお菓子のイメージが
なんとなく頭の中に浮かんでて、
まあなんか形に出来てすっきり、という感じです。
幼いときの年の離れたお姉さんって
そんなイメージがします。
年の離れた姉というか、姉自体いないんですけども、
なんとなくそういうイメージ。

ハートを入れたうた。
森下裕隆さんの
あかぎれの指を気にしてあと幾度ふゆの電車を乗り換えるだろう
「あかぎれの指」がうたの冒頭で、
どんっと登場することで
何かこのうたの主体にぐっと肉薄するような感じがして、
「あと幾度~だろう」
っていうその人の感慨にちゃんと体があるみたいな
うーん、うまく表現できないけど、
そんな感じがしていいなって思いました。
「あかぎれの指」は、
今実際に主体がそういう指をしてるってことと読んで、
(今こうやって)「あかぎれの指を気にして」(いるように)
「あと幾度」(こんなふうに)「ふゆの電車を乗り換えるだろう」
っていう、現在の立ち位置から、まだ見えてこない未来を思ってる
みたいな、そういううたなんだなって思いました。
なので、わたしの中のこのうたの主体は、
あかぎれの指を労りながら、乗り換えのホームに立ってる
そういう感じかなって。
電車の乗り換えって、別に通勤でしかしないって訳ではないと思いますが、
「あと幾度」というフレーズから、
現在のところはこうやって毎日通ってるんだけどって
そういうニュアンスがうかがえるかなぁと。
で、もし通勤の風景だとしたら、
「あかぎれ」も主体の仕事に関係して出来てしまうものなのかも。
仕事が変ることがあるのか、職場が変ることがあるのか、
まだ本人にも何も分からないけども、
ふとそんなことを考えた
みたいな感じかなぁって思って、
なんかいいなぁって思いました。
「ふゆの電車」の「ふゆ」というひらがな表記もいいなって思います。
これは、わたしがホームに立ってるところだって読んでいるから
なのかもしれませんが、
冷たくなった手に息を吹きかけてるような、そんな音にも思えました。

音符を入れたうた。
ひなこさんの
朝練の声の中から聞き取れるきみの「ドンマイ」われを励ます
「朝練」っていうのも、
なかなかのパワーワードだったんだなぁ……
って思わせられるうたでした。
「朝練」っていうだけで、
わーっといろんな風景が見えてくるみたい。
中高と運動部どころかまともに部活に勤しんだ経験のない
そんなわたしでも、
なんか色々と想像が膨らみます。
同じ部で一緒に練習してるのか、
違う部で少し離れたところから聞こえる声を聞いているのか、
もしかしたら、
その声が聞きたくて、朝練してるところを見に行ってるのかも。
どちらにしても、
きっとその「ドンマイ」は
主体に向けられた言葉ではないだろうけども、
ちゃんと「きみ」の「ドンマイ」を聞き分けて、
その「ドンマイ」に励まされる、
うーん、いいなって思います。青春な感じ。
特にわたしがいいなって思ったのは、
「われを励ます」という衒いのない結句。
読んでる側にもすっと入ってくる気持のいいうたって思いました。

梶原一人さんの
愛憎の愛がわずかに勝ち越して記憶の母はわれに微笑む
うたの日に
時には愛、時には憎の方が勝つこともあるでしょうか。子としての複雑な気持が感じられていいなって思いました。
と、コメントを入れました。
こういううたって、色々と分析したり気をまわしたりするのが
なんとなく躊躇われるような気がして、
なかなか個々がこうで、こうなんだろうな、こうかと思います、
みたいな事が言いづらいです。
でも、こういう親に対する複雑な思い、胸にずんと来るものがありました。
「愛憎」というフレーズの強さを最初に置いて、
それが浮かない下の句の強さがあるなぁって気がします。

冬桜さんの
新しい名前をつけてくれたこと湯船に君の声が浮かんで
「新しい名前をつけてくれた」
っていうのは、
あだなとか、新しい呼び名とか
そういうものをつけてくれたってことでしょうか。
その場では主体が「君」にどういう態度をとったのかわかりませんが、
家に帰って、一人お風呂の中で、
じわじわとそのことがうれしくなってる
みたいな感じのうたかなって思うと、
めちゃかわいいなって思います。
「湯船に君の声が浮かんで」の
「君の声」っていうところも、
なんか、あーそうなるよねって感じ。
「新しい名前」を言うときの「君の声」。
可愛くてフレッシュな感じで好きなうたでした。

うたの日(2月8日「少」)


2月8日のうたの日は「腰」「猟奇的」「メタファー」「少」でした。

「少」
裏庭で軍手を干している家を少し過ぎたらもう春でした(しま・しましま)
本当は「メタファー」で出そうかなって思って、
ギリギリまで考えてたんですが、
うーん「メタファー」って難しい。
にやにやと犬がこちらを見上げつつどうだわかるかなどと言い出す
ってのを考えたんですが、
よく考えたら、
去年、ツイッターの企画の#短詩の風で出した
犬だって言えばそんなの犬だからメタファーのべろあったかすぎる
という短歌を下敷きにしたやつだな
って思って、没にしちゃいました。
しかもなんか感じ悪いしね。
っていうわけで、「少」。
軍手ってなんかいいですよね。
日常的に軍手を使ってるお宅なのかな、
実際にいつ通っても複数の軍手が干してある家があります。
うちでは使い捨てなので、
なんか、見るたびに、ああってなったりしています。

ハートを入れたうた。
加治小雨さんの
名も知らぬ少年からの挨拶に「おかえり」なんて返せてしまう
あーこの感じアレかも!
って思ううたでした。
わたしが住んでる地域も、
小学校でがっつりあいさつ運動みたいなのをやってて、
小学生たちだけじゃなくて、
中学生、下手したら高校生も
すれ違う時に「ただいまー」
とか言ってくるんですよね。
初めのころは、これが全然馴れなくて。
「ただいまー」に対する返事はやっぱり「おかえりー」
なんだとは思うんですが、
帰宅途中らしいことは分かるけど知らない子だし
ていうか、道路上だし、
「おかえり」って変じゃない?
とか思ったりして。
このうたの主体も、もしかしたらそうだったのかな
って思います。
それが今は
『「おかえり」なんて返せてしまう』
わけです。すてき。
この「返せてしまう」に、
「おかえり」って言ってる自分への驚きみたいなものが感じられて
そこがいいなって思いました。
最初からナチュラルに、
見知らぬ少年と「ただいま」「おかえり」の挨拶を
交わせたわけじゃなくて、
「おかえり」が言えている今の自分と、
そうじゃなかった頃の時間の幅が
なんとなく感じられるなぁって気がしました。

音符を入れたうた。
永昌さんの
納得のいかないことのあれこれを少し甘めのコーヒーで呑む
自分としては納得のいかないことでも、
納得のいかないままにぐっと呑み込まないといけない、
そんな事ってありますよね。
「少し甘めのコーヒー」がいいなって思います。
お題が「少」だからってことも
まああるかとは思いますが、
あえて「少し甘めの」とコーヒーの甘さに言及してあるところに、
そうでもしないと呑み込めないんだ
って言ってるような気もします。

七緒さんの
菜の花がまっすぐ伸びる 僕たちはちょっぴり嘘をついて生きよう
「菜の花がまっすぐ伸びる」という二句目までのフレーズが
すごくステキだなって思いました。
菜の花の、すっと伸びた茎や葉っぱの緑色と、
花の黄色、それから、
「まっすぐ伸びる」というフレーズから
菜の花が向かっている青空とか、
そういうものがバーンって
初めに頭の中に浮かんできました。
で、
そこからの
「僕たちはちょっぴり嘘をついて生きよう」
です。
「嘘」ってあんまり良い事ではないはずなんですが、
その前に、爽やかな春の映像がおかれてるので、
「ちょっぴり嘘をついて生き」ることが、
とても自然なことのように感じられます。
まあ実際、それが自然なことだと思うんですが。
こういう、上の句と下の句を、
全然違うイメージがぶつかってると捉えて読むのは、
もしかしたら短歌の読み方ではないかも知れないけど、
そんな風に読んで、いいなって思いました。

西村湯呑さんの
電車から見下ろす街並みハットリくん跳びする少年が胸にいる
もうまず、
「ハットリくん跳び」
がパッと目に飛び込んできて、
うわー!!
ってなりました。
そういう用語があるのかはわからないんですが、
忍者ハットリくんの、あの屋並を跳びながら走る姿が
ぱっと頭の中に浮かんで来ます。
ハットリくん由来ではないかも知れないけど、
子供の頃に、そうやって自由に跳び回る夢とか見てました。
で、このうたの主体の胸には、
今でもそんな少年がいるんですね。
面白いなって思うのは、
「胸にいる」のに、
「電車から見下ろす街並み」で、
その少年が「ハットリくん跳び」してる
っていう内と外とがまざってるところ。
うたのリズムも、
初句こそ五音に納まってますが、
そこから二句が八音で字余り、
そして、
「ハットリくん跳びする少年が胸にいる」
に至っては
三句四句結句が切れ目なく跨っているという。
内と外が混ざってる感じが、
この構成にも表われてるのかなって気がします。
主体は今電車の中で外を見ている
というのは事実部分だから、
「電車から」とすんなりと安定スタートさせて、
そこから、内なる少年が、外へ飛び出してくる感じが、
怒涛の句跨りになったのかなって。
面白くてハートを迷ったうたでした。

瀬和璃羽さんの
少しなら遊びで済むよ囁いた貴方の影で尻尾が揺れる
妖しい感じがステキですよね。
「少しなら遊びで済むよ」
という誘い文句の、
もう既にどう考えてもあやしいところ。
悪い事しようって誘われてる感じですよね。
しかも、
このうたの主体には、そう言ってる人の「尻尾」が
ちゃんと見えてる。
どう考えても信用できないっていうか、
深みに誘ってる感じがするけど、
それも込みで、
主体は魅力的に思ってるのかも知れないなぁって
そんな気がするうたでした。
漢字表記も妖しさがあってステキでした。

うたの日(2月7日「その」)


2月7日のうたの日は「積」「解」「その」「両」でした。

「その」
その話またですかってゆですぎのブロッコリーを皿で転がす(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
雨宮 司さんの
その頃も旅をしていた 日常と折り合いつかぬ街を離れて
うたの日のコメントでも触れましたが、
「その頃も」の「も」にじわっと味わいがあるなぁって思いました。
「も」ってことは、今もそうだっていうことですよね。
ずっとそうなのか、旅をしていない時期があったのか、
後者の方なんでしょうね。
「日常と折り合いつかぬ街を離れて」ってあるので。
ちょっと不思議で面白いなって思ったのは、
この「日常と折り合いつかぬ街を離れて」というフレーズ。
さらっと読むとなんとなくそういうことかなって思うけど、
よく読むと、
「日常と折り合いつかぬ」のが
主体の暮す、日常をすごしているはずの「街」という。
じゃあ、この人の「日常」ってなんだろうな
って思うと不思議で、
でも、そういう日常にいて
日常と乖離しちゃうことってあるのかもなぁって
そんなことを思ったりしました。
まあ、
「日常と」で軽く切れがあって、
(自分自身と)「折り合いつかぬ街」、
そのどちらとも離れることで
自分自身と折り合いをつけるってことなのかも知れませんが。
この二句目の後の一字空けも、
旅をしていたことの理由を言いたいような、
いいたくないような、
そういう逡巡の時間を感じさせて、
なにかまだ吹っ切れないものが感じられるところが
すきだなって思いました。

音符を入れたうた。
いずみ 美帆さんの
父の言う「あれ…その…それ」で理解する私の母はエスパーマミー
これはねぇ、うーん。
もうとにかく「エスパーマミー」にやられました。
多分「エスパー魔美」のもじりなんだと思うんだけど、
ダジャレの上手い下手じゃなくて、
「エスパーマミー」の語呂のよさに惹かれますね。
父親のはっきりしない指示語だけで、
それが何か分かる母はすごい
っていうのは割とあるある系の情景ですが、
「エスパーマミー」のパワーワードがあって、
印象にばしっと残るうたになったって気がします。

仙冬可さんの
その時が来たら言おうと水垢のごとく重なる見えないなにか
このうた、わたしは二句のところで一度切れて、
三句目から結句までのフレーズのひと塊と並べてある
という構成のうたって読みましたがどうなんでしょうか。
「~言おうと」に掛かりそうな言葉を探してみたんですが、
そうすると「重なる」ぐらいしかないんですが、
そこを繋げてしまうと、
「見えないなにか」が言おうとしてるってことに
なるような気がして、
それは違うかなぁって思いまして。
主体という言葉を使うとちょっとまどろっこしいので、
作者は~っていいたいんですが、
なんとなく短歌で作者は~って言う場合
メタ部分の話になりそうでアレなんで、
うーん、どういえばいいのかなぁって
実はわりとよく困ったりしています。
今回はあえて、作者はって書かせてもらいますが、
この「言おうと」思っているのは作者なのではないかと思います。
言おうと(思ってはいるんだけどもまだ言えていない状態である)
っていうところがバッサリと切られた部分にあるんじゃないかなって。
まず、そういう読み方をしました
って話が随分長くなってしまってごめんなさい。
で、ですね。
いつか言おう、その時が来たら言おう
ぐらいに思ってることって、
案外ひとつひとつは些細なことだったりするんじゃないかな。
もちろん、めっちゃ重い打ち明け話の
タイミングを見計らうときにも、
そんな言葉を使ったりしますが。
些細なことで初めは形にならない、言うほどじゃないことが、
だんだんと積もってきて目に見えるようになってしまう
ってことありますよね。
もう、「その時」っていうタイミングも分からなくなった、
日常の不満とか鬱屈みたいなものを読まれてるのかなって。
「水垢」という例えから、それがドメスティックなことなのかなって
思って、うーん「水垢」っていうたとえがいいなって思いました。

森下裕隆さんの
年老いてナイフ投げ師もその妻も額の傷も皺に埋もれて
まずこのうたの調べのよさに惹かれました。
「年老いて」「皺に埋もれて」
って初句と結句で「~して」ってふわっと流すような感じに
歳月の果てみたいな余韻が残る気がします。
で、
「ナイフ投げ師も」「その妻も」「額の傷も」
って並ぶところもなめらかでいいですよね。
なめらかすぎて、一瞬見逃しそうになる
「額の傷も」が面白くて、
きっとあえてここにこっそり仕込んであるんだろうな
って思うと上手いなぁ。
多分「額の傷」は妻のものですよね。
夫が「ナイフ投げ師」なので、
その相方を務めていたのかも知れないし、
もしかしたら練習を引受けていたのかも知れない。
そのころについた「額の傷」。
もういいわあんたとはやっとれんわ
ってならずに、年老いて皺に埋もれるまで、
こうやって一緒にいて、
その傷が額についた時には、
恨み言もあったかもしれないけど、
それも時の彼方、皺の奥に隠れてしまう。
じわっと味わい深い情景がステキ。
その味わい深いところとうたの仕掛けが、
単なるいい話にさせてなくて、
そういうところが魅力的に思いました。

うたの日(2月6日「サナギ」)


2月6日のうたの日は「続」「サナギ」「密」「ドラゴンクエスト」でした。

「サナギ」
夢をひとつ見るたび蛹の内側で色が増えてく手触りがある(しま・しましま)
いただいた評にあった、字余り問題、
ホントにわたしの課題の一つだなぁって思います。
余らせない努力をもっとしなくちゃ。

ハートを入れたうた。
久哲さんの
「土偶ってサナギみたい」という君と同じ時間の春先にいる
いいですね。こういう雰囲気のうた、好きです。
「土偶ってサナギみたい」
っていう、唐突なセリフから入るところに、
まず目を引かれました。
「土偶」ですし。さらに唐突ですし。
で、その唐突さを、
さらっと「という君」と、
流すというか、受け入れて、
「同じ時間の春先にいる」とおだやかに着地してるところが
なんかもう、好きだなっておもいます。
なんで?どうしてそう思ったの?
って聞かないんですね。
全肯定というか、条件なしの受け入れというか、
ただただそんな「君」といるっていう。
「春先にいる」っていう結句がまたいいなぁって思います。
二人の、これからだんだん暖かくなってきて行動範囲が広がっていく
そんな未来も感じさせてくれるようなすてきなうたでした。

音符を入れたうた。
衣未(みみ)さんの
春を待つサナギのように冬を越し生まれるきみに靴下を編む
もちろん冬に活動する昆虫もいますが、
多くの昆虫は冬以外の季節に活動することが多い気がします。
そのためには、考えてみれば当然ですが、
越冬が必要なんですよね。
時期が来たら何もないところから湧くわけじゃないんだから。
そういうことを意識させられるうたでした。
春を待つ昆虫の越冬の形は、
卵だったり幼虫だったり、成虫だったりと
まあさまざまなわけですが、
このうたでは「サナギ」。
当り前に冬の間をサナギの形で過ごす虫もいるんだろうと思いますが、
まだ冬なのに羽化してしまうと大変だろうなって思います。
ゆっくりゆっくり春を待って、
時期が来るまでゆっくり待ってねって
それはお腹にいる赤ちゃんも同じですよね。
すぐにでも顔が見たいけど、
ちゃんとちょうどいいタイミングで出てきて欲しい。
そういう祈りを思いました。
「春を待つ」という言葉に希望の明るさがあって
「靴下を編む」っていう
結句がまたやさしくて、あたたかくていいですよね。
お腹の中の「きみ」も、越冬するサナギのように「春を待つ」わけだけど、
同時に、お母さんである主体も、
春を待ち遠しく思ってるって感じがします。

真坂きみかさんの
反抗期持て余し見た虫図鑑「サナギはそっとしておく」とあり
うたの日のサイトに
子供の反抗期を持て余してる親、
という方向で読んでコメントを書きましたが、
このうたを今一度読み返してみると、
もしかしたら子の方の気持でも読めそうだなぁと
思ったりしました。
うちの子の反抗期を親として持て余したこともありましたが、
自分が反抗期だったときも、
やっぱりその気持を持て余してましたし。
ふと目にした虫の図鑑に
「サナギはそっとしておく」ってあって、
そうだろ、なのにウチの親は分かってない
って思った、
みたいな、そんな読み方も出来るかなぁ。
でもやっぱり味わいとしては親サイドで読んだ方が
じわっと来るものがありますね。
なによりも、
反抗期を「サナギ」なんだと直感的に思ってるところが
ナイスだなって思います。
「反抗期持て余し見た虫図鑑」という上の句が、
助詞がはぶいてあって、ぎゅうぎゅうな感じがするのが
ちょっと調べが悪いかなって気もしました。

こわくないもりさんの
とりあえず僕は布団の塊であなたの羽化を祝いきれない
「僕」も「あなた」もサナギだった、
っていう風に読みました。
で、「あなた」は「僕」よりも先に羽化してしまった、と。
「あなたの羽化を祝いきれない」っていう下の句が、
うーん、好きな感じでしたね。
「祝えない」とか「祝いたくない」とかじゃなくて、
「祝いきれない」。
祝いたい気持がないわけじゃないけど、でも、
とか、そういう微妙な気持、
劣等感かも知れないし、捨てられる様に感じてなのかも知れないし、
もっと複雑な気持があるのかも知れない、
そんな「祝い」「きれない」がいいなぁ。
祝いたいんですよね。
ぼくも布団から出て続きたい、そんな気持もあるのかも。
でも、今は「僕は布団の塊」のままでいるし、
「祝いきれない」んだっていう。
あー、なんかもうとても好きな雰囲気で、
実はハートを迷ったうたでもありました。

小川けいとさんの
夏の夜に我の中から這い出したあれがクローゼットで蛹に
好きな感じのぞわぞわでした。
きもちわるいですよねっ。
上の句の
「夏の夜に我の中から這い出した」
ですよ。
蒸し暑い寝苦しい夜でしょうか、
夏なのにどことなくひんやりとした夜
っていうのも有りかな。
もうね、「這い出した」っていうのが
どう考えてもきもちわるい。
「我の中から」っていうんだから
やっぱりどよどよしたきもちわるい何かなんでしょうね。
で、ですね。
このうたの季節は秋の終りから冬の終りぐらいまでの、
とにかくあの夏の夜から時間がある程度たってて、
まだ春にはなってない頃じゃないかなって想像します。
寝室のクローゼットを開けて、
見つけてしまった「蛹」。
実際のところ、この蛹が何の蛹かは分かりませんが、
クローゼットの中になぜかがしっと張り付いている蛹を発見して、
これは自分の中から出たものだ
と、確信したんじゃないかなって思います。
だとしたら、あの夏の夜の、あのどよどよが這い出て、
今ごろここで蛹になってるんじゃないかって。
何かあの「夏の夜」にこころ当たりがあるのかも。
しかし、カブトムシの蛹ならカブトムシになるし、
蝶の蛹なら蝶になるけど、
この蛹は何になるんだろう……
って考えるとぞわぞわしますね。
しかも「蛹」ですからね。
いつ羽化してもおかしくはない。
でもきっと主体は、その蛹に触れたりしないで、
そっとクローゼットを閉じるんだろうなって想像します。
そんでちょいちょいクローゼットを気にしたりするんだろうなって。
うーん、やっぱりぞわぞわするうたで、
なんか好きですね。
「あれ」呼ばわりもいいですね。
気持悪さが増しますし、「我」と「あれ」が対っぽくて。



おまけ
前日の5日の「カバ」なんですが、
たしか前に「カバ」のお題が出たときも、
コビトカバで投稿したおぼえがあるなって
思ったんですが、
名をよんで食べるどうぶつビスケットHIPPOのHのところが欠けて
ってやつでした。
あれ?コビトカバは?って思ったら
「黒」の題で出してたんでした。
その黒い背中てらてら光らせてサヨナラほろびゆくコビトカバ
ってやつ。
カバ、特にコビトカバが大好きなんですよね。
コビトカバは大きなカバと違って、
そんなに水中にいなくて、
群も作らない生き物なんですって。
なんでカバはあんなに水中にいる事が多いのかって言うと、
体毛がないのでそれの保護のためなんだとか。
だとしたら同じように体毛のないコビトカバが、
基本が陸上生活なのはなんでかしら
って思うんですが、
一応たまに泥や水の中にもぐったりはしてるみたいですね。
絶滅寸前種に指定されてるけど、
もしかしたらすでに絶滅してしまっているのかもっていう
そういう話もあるみたい。
そういうコビトカバですが、
あの愛らしい顔立ち、てらてらの皮膚感とかが
大好きなんですっていうことが言いたかっただけでした。

うたの日(2月5日「カバ」)


2月5日のうたの日は「宇宙」「影」「カバ」「格」でした。

「カバ」
夢喰いの夢を見ているコビトカバ隣に獏が越してきてから(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
遠井海さんの
目と背とを池から少し覗かせるカバのバシャンは岩に似ている
このうたは、とにかく「カバのバシャン」がいいなって思いました。
「バシャン」、これはカバの個人名なんだろうなって考えて読みましたが、
日立市かみね動物園にいる長寿のカバなんだそうですね。
昭和38年に日本で生まれた、国内最高齢のカバなんだとか。
まあ、それはそうとして、
「目と背とを池から少し覗かせる」カバの姿は、
たしかに「岩に似ている」と思います。
それは「バシャン」でなくても、
「岩に似ている」んだと思います。
が、
「バシャンは岩に似ている」と思った作者の感覚が
わたしはとても好きです。
正直、カバの個体差ってあまり分からないけれど、
それでも作者は、
特にこの「バシャン」の事を特別に気にかけているんですよね。
「岩に似ている」というのも、
もしかしたら、
この長寿のカバがあまりに動かないから、
そのまま岩になってしまうのではないかって
そんな心配もあるのかもってちらっと思ったりして。

音符を入れたうた。
のびさんの
一人きり謝り方を考える動物園でカバを見ながら
一人で動物園にいるっていうのは、
ふらっとカジュアルに動物園に行けるところに住んでいる人なのか、
あるいは、誰かと来た動物園で、
一人になって頭を冷やしてるところなのかも知れません。
考えてみれば、何か考え事をするのに、
カバを見ながらっていうのはいいなって思います。
数が多いわけでもなくて、
動きもあまりなくて、
目の前でチラチラしなさそうなので
大事なことを考えながら
ただ眺めるのに丁度いいような気がします。

松岡拓司さんの
奇跡とは閉園まぎわにおとずれたカバの奥歯にともる夕の陽
「カバの奥歯にともる夕の陽」
うーん、想像するとそれはもう
「奇跡」的な光景なんだろうなって思います。
わたしの住んでる島根県に、
ローソク岩とかローソク島とか呼ばれる大きな岩があって、
この島に夕陽が重なるときの一瞬だけ、
巨大なろうそくに火がともったようになる
ってところがあるんですが、
このカバもそういう感じと取りました。
しかも
「奥歯」。
その時、丁度大きな欠伸をしていることが
条件の一つに入るわけですよね。
そんなことあるんだろうか、
あったらたしかに奇跡的だなぁって思って、
そんな光景を想像させてくれたってだけでも
すてきなうただなって思いました。

薄荷。さんの
日曜を無為に過してカバさんの歯磨きタイムの動画眺める
カバの歯磨き動画、うんこれは、
無為に過ごした休日の仕上げとして
丁度いい感じにゆるい動画だなぁって気がします。
うん、
ただそれだけですが、
そのただそれだけがいいなって思います。
あんまり深い意味とかなくて、
無為にすごして無為に終るっていうのも
のんびりしてていいですよね。
ちょっとだけ気になったのは、
「無為」という固めの(がちがちにかたい言葉ではないけど)と、
「カバさん」というさん付けや、
「歯磨きタイム」という表現の、
ちょっと幼い感じに落差があるかなぁ
ってところでした。

宮嶋いつくさんの
血の汗を流して走り込んでくるカバの姿を捉えたかっ……た……
思わずちょっと笑ってしまううたでした。
いや、このうたの状況としては
笑ってはいけないんでしょうけれど。
うたの日のコメントにも書きましたが、
PS3のゲームに「AFRICA」っていうのがあって、
それはアフリカの野生動物を写真撮影する、
っていう割と単純なゲームなんですが、
これがなかなかミッションクリアが難しい動物がいまして、
その中でもカバは、
ちょっとでも近づきすぎて
こちらの存在を知られてしまうと
あっというまにゲームオーバー。
実際にアフリカでの動物による死亡事故の
第一位がカバによるものだとか。
しかも陸上を走るスピードは最高32キロとか。
おっとりさんに見せかけてこれはヒドイ。
そのあたりを、身体を張って表現されてるところが
面白いなって思いました。
ただ「血の汗」はちょっと情報盛りすぎかなぁと
思わないでもないですが。

うたの日(2月4日「昔話」「教」)


2月4日のうたの日は「昔話」「魔」「教」「ドイツ」でした。

「教」の方に投稿したんですが、
「昔話」も面白くて、選とコメントを入れさせてもらいました。
そっちの方は、とりあえずうたの日のサイトで思ったことはかけたかな。
ハートを入れたうただけ、
もうちょっと感想をかかせてもらいます。

かんぬきたくみさんの
お爺さんは欲張り爺との面会でも昔話に花を咲かせる
まず、
うわっ欲張り爺さんなにかやっちゃったんだww
って思って面白かったですね。
「面会」っていうたった一文字ですが、
欲張り爺さんは現在どこかに収監されてるような。
あとで考えたら、入院してるとかホームに入ってるとか
そういうケースも考えられて、
それはそれでほのぼのと苦みがあって面白いですよね。
で、
「欲張り爺」といえば、
「花咲かじいさん」「おむすびころりん」
あと、これはよくばりと言っていいのかですが「こぶとりじいさん」とか
色々いますが、
やっぱり「花咲かじいさん」の欲張り爺が一番インパクトがあります。
この昔話自体が一番メジャーということももちろんありますが、
爺が一番悪辣なんですよね。やりたい放題か!ってぐらい。
なので、
「面会」という言葉から、
とうとうやりやがったか
みたいな印象があったのかも。
なのに、なのにですよ。
そんな欲張り爺と面会して昔話で盛り上がれるって、
(正直)爺さん、いい人すぎるでしょ。
いや、欲に目がくらまなければなかなか楽しい隣人だったのかも
とか、想像が膨らみました。
「面会でも」の「でも」って二文字に、
(正直)爺さんの人柄とか二人の関係性がほんのり見えるようでもありました。
あと、うまいなぁって思ったのは
「昔話に花を咲かせる」という四句結句。
一般的に使われる普通の言葉でもあるんですが、
ここにお題の「昔話」のフレーズの読み込みと、
「花咲かじいさん」を思わせるフレーズが入ってるっていう。
うーん、とても面白い、うまいなぁって思う一首でした。

「教」
教わった通りに曲がるスプーンにかすかにチキンカレーの匂い(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
のぅてんきさんの
長き尾を上下に振りて鶺鴒(せきれい)は異名を嫁教鳥(とつぎをしへどり)とふ
「教」っていう言葉から、セキレイが出るって
なんかその意外性にまず目を引かれたうたでした。
セキレイ、なんかめちゃ見かける鳥ですよね。
白黒で可愛らしくて、何故か道路とかをトテトテ歩いてる。
好きな鳥なので余計に登場にびっくりして、うれしかったです。
このうたでは、
そのセキレイが
「長き尾を上下に振り」ているとだけ描写して、
あとはセキレイの異名が書かれてるだけ。
シンプルだけど、この異名がいいですよね。
そこからぐっと日本の神話の世界まで広げてくれるという。
「長き尾を上下に振り」というのも、
実はイザナギとイザナミがその姿を見て、
子作りを学んだ
っていう説があるのを、
ふっと思い出されたんでしょうね。
「教」という題から単純に見ても、
差し棒を振る教師みたいにも思えて面白いなって思いました。

音符を入れたうた。
WPPさんの
したためた文字の乱れに教えられあかるい色の切手を選ぶ

主体は多分、
日常的に手紙を書くタイプの人かなって思います。
「あかるい色の切手を選ぶ」
という下の句からそんな雰囲気がします。
手元に選べるほどの切手のストックがある
っていうか、
手元になくてもいいんですが、
切手は選べる
っていうこと、
知ってる人からすると当り前のことと思いますが、
知らない人からすると考えたこともない事だと思うんですよね。
ちなみに少し前の自分がそうでした。
窓口で82円切手くださーいっていうと
だいたい例の梅の切手ですしね。
この手紙にはこの切手、この相手にはこんな切手、
そういう楽しみ方もあるって知って、
アナログな手紙の楽しさを再認識したような気がします。
ってちょっと脱線しました。
このうたでは、「あかるい色」をチョイスしたのが、
自分の「したためた文字の乱れ」から何かを教えられたから
っていう。
明るさ、やさしさ、なにかそういうモノがちょっと足りない、
そんな乱れ方だったのかもしれません。

きいさんの
教室の窓際だけが見える空 したいことなんてまだわからない
情景がすっと見えてきて、
あー、そういう感覚あったなぁってなったうたでした。
「したいことなんてまだわからない」
中学とか高校って、
なにかと進路希望調査票を書かされた気がします。
中学はまだ高校をどこにするかだけなので、
まだぼやっとしててもよかったんだけど、
高校ぐらいになると、
進学か就職か、
進学だったらどこへ行きたいか、
というかどこで何を学んで何になりたいのか
っていうことを考えろって
目の前に突きつけられてるような感じがします。
「したいことなんてまだわからない」
という下の句のフレーズには、
単純に、まだ考えられないよっていう気持だけじゃなくて、
それを考えさせられることに対する反抗心みたいなものが
うっすらと見えるような気がします。
それは、調査票を見ながらそう考えるんじゃなくて、
目をそらして窓から外を見てるらしいところからも
そんな感じがしました。
「教室の窓際だけが見える空」って
そういう意味なんですよね?
教室の窓際でだけ見える空があって、
それを主体だけが今見てる、
みたいな感じなんじゃないかなって思うんですが、
語順がちょっとおかしいかなって思います。
語順、ではないのかな
「窓際でだけ見える空」「窓際だけが見せる空」
とかでもいいのかな。

梶原一人さんの
Fコード押さえるたびに教わりし兄の俯く顔に陽が射す
the 郷愁!
みたいな情景にぐっときたうたでした。
「Fコード」ってもう反則的なワードだなぁ。
それだけで、ギターを習い始めた頃が浮かんで来るような気がします。
主体は兄にギターを教えてもらってたみたいですが、
この「兄」っていうのもなんかいいですよね。
どこの兄弟でもだいたいそうじゃないかと思うんですが、
幼い頃とか少年時代はとても仲が良くて、
その後も別に何かいさかいがあったわけじゃない
って場合でも、やっぱり成長していくと、
うっすらと遠い存在になっちゃう。
あの頃は……って感覚が兄と弟って似合う気がします。
このうたは、ちょっと言葉数が多いのかごちゃっとしてて
分かりにくいような気もするんですが、
「教わりし兄」、
あの頃ギターを教えてくれた兄、
「兄の俯く顔」
教えながら背を丸めてギターを弾いてる姿かな
って思います。
それが
「Fコード押さえるたびに」
今現在、一人でギターを弾くたび、
あの頃苦労したFコードを押さえるたびに、
その姿が思い出される。
みたいな。
西日の当たる子供部屋の窓際とか、
そういうところを想像します。
アコギかなぁ。
アコギと西日ってなんか昭和っぽくて似合いますよね。
実際の当時の兄の横顔にも、
思い出の中のイメージにも
西日が赤く射してるって感じがいいなって思いました。

うたの日(2月3日「は」)


2月3日のうたの日は「福」「は」「内」「都々逸」でした。

「は」
もう一度こんどはゆっくり言い直す「は?」でかたまる笑顔の人へ(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
西村湯呑さんの
よそはよそ、うちはうちってきみが笑いここがぼくらのうちになった日
お題が「は」って難しいですよね。
ひらがな一文字なので、それ自体に意味があるわけじゃないので、
テーマ詠は出来ない感じ。
「は」を印象的に使ってあるかどうか、
今回はそういうことを念頭に入れて選をしてみました。
「よそはよそ、うちはうち」って、
うちのルールはこうだから!
って押し通すときの定番のフレーズですよね。
お母さんがよく言いそうな。
だからかな、なんとなく郷愁を感じる言葉でもあるなって
そんな気もします。
このうたでその言葉を口にしたのは「きみ」。
その後続くフレーズから、
「きみ」は主体の新しい家族となった人だと想像されます。
ただ一緒に暮らしはじめた、籍を入れただけでは、
感じなかった「ぼくらのうち」感が、
「きみ」の「よそはよそ、うちはうち」って言葉で、
ぐっと実感することが出来た
っていうことだと思うんですが、
そういう感じ方、好きだなぁって思います。
「うちはうち」って言われることで、
ああそうだ、ここはきみとぼくのうちなんだ
って実感する、
うーん、いいなぁあったかいなぁって思いました。
ちなみにこの日は2月3日、節分の日でした。
「福は内、鬼は外」の「うち」にも通じるようで
そこも面白いなぁって思いました。

音符を入れたうた。
ハナゾウさんの
崎陽軒シウマイ弁当食べ終えてはははこれからどう逃げようか
「ははは」は笑い声のはははですよね。
はははって笑い声、明るい笑い声とも取れますが、
乾いた笑い声とも取れます。
このうたの場合は
それに続く言葉が「どう逃げようか」なので、
そんなに明るくはないんじゃないかと思って、
乾いた笑い声として想像させてもらいました。
っていうか、
駅弁食べて、さてこれからどう逃げようとか
なんというノープラン逃避行!
って感じですが、
「ははは」の乾いた空虚な笑い声が
いい感じにマッチしてると思いました。
「崎陽軒シウマイ弁当」って、
食べたことはないけどアレですよね、
横浜の名物駅弁。
さまざまなイメージが凝縮されてるようなこの固有名詞と、
下の句の空虚な感じの対比が面白いなって思いました。

小向大也さんの
どうだろう、近づく春の足音を今年は猫と出迎えるのは
「どうだろう」という提案の入り方が目を引くうたでした。
「どうだろう」
相手に無理強いしないやさしい提案の仕方ですよね。
で、その提案の内容もステキ。
「近づく春の足音を今年は猫と出迎える」
端的に言えば(だいなしだけど)
春になるまでに猫を飼おうよ
ってことですが、
なんてすてきにやわらかい言い方なんだろう。
お題の「は」ですが、
このうたには「春」「今年は」「出迎えるのは」と、
三回「は」の文字や音が登場しますが、
わたしは「出迎えるのは」の「は」がキモじゃないかと思います。
「どうだろう」「~は」という構成の提案です。
これは「は」が動かない、
そんな「は」だったと思います。
ただ、ただですね
これはもしかしたらわたしの勝手な感じ方なのかも知れませんが、
「今年は猫と出迎えるのは」と
「~は」が近くに並びすぎてて、
なんとなく調べが悪いかなぁ……と。
でもうたの内容的に「今年は」というフレーズは、
確かに必要だしなぁ
って考え込んでしまいました。

松岡拓司さんの
「わたしが」を「わたしは」と変え、外を見る たとえば保坂和志のように
何かの文章を書いていて、ふと助詞が気になって書き換えた。
そういうことってありますよね。
うたの日のコメントに
『何か文章を書いていて、ふっとここは「が」ではなくて「は」で強調すべきだろうと思われた、というところかなと思ったんですが、小説なのかも知れないですね。』
と書きましたが、
「が」と「は」どちらがより強調する助詞なのかは、
使い方によって違うかもしれません。そこらへんはわたしの感覚です。
それにしても、その後が実はあまり明確には分かりません。
「保坂和志」という個人名、
どうなんでしょうね。何か共通イメージのある作家なんでしょうか。
助詞の使い方に独自のこだわりのある人という感じなのか、
あるいは「外を見る」の部分に関わるところなのか。
わたしは書く事に細かいこだわりがある、みたいな部分がそれにあたるのかな
とか思いましたが、
同時に保坂和志が窓辺で外を見ている情景とか想起しました。
と、思ったらもしかしたらそれは村上春樹の姿だったかも知れないな
とか思ってなんだかいろいろ申し訳ないような感じになってしまいました。

ミルトンさんの
アゲハチョウ二匹もつれて飛ぶさまに独りの影が濃くなってゆく
今回「は」の使い方にこだわって選をした、
といいましたが、
このうたに関しては
どちらかというと
「は」が見つからなかった……
と言うとうそになりますが、
「は」感の薄いうただったなって思います。
もう一つ、
わたし的に気になったのは、
季節感のずれ。
もちろん短歌は俳句と違って季節を詠むものではないんですが、
せっかく歌会というリアルタイムで進行する場なら
当季のうたがいいなぁって……。
歌会とかほとんど経験がないので、
そういうことは誰も気にしないんですよ
って言われればそれまでですが。
それでも、
音符を入れたのは、
単純に詠まれてる景が好きで、
共感するものだったから。
「アゲハチョウ」ですし、舞台は夏かなって思います。
強い日差しの中を、
大きい蝶がもつれながら飛ぶ姿は、
なかなか印象的ですよね。
しばらくそれを主体は黙って眺めてて、
それからふっと我に返ったとき、
自分自身の影の濃さに気がついた。
で、それがまるで孤独の濃さのように感じた。
みたな、そういう歌意かなって思います。
光と影、番と孤という対比が印象的で、
うーんこれはやっぱり票を入れたい!
と思ったのでした。


いつにも増して勝手なことを書き散らしてしまって
ホントすいません。

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