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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(2月22日「滴」)


2月22日のうたの日は「そっと」「未」「磨」「滴」でした。

「滴」
雨滴(うてき)また雨滴 窓辺で春をまつ硝子の中のひやしんすたちへ(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
きつねさんの
三滴のうちの二滴は頬に落ち目薬としての役目を終える
あーこれいいなって思いました。
なんですか、大袈裟に言うと、
「もののあはれ」
ってやつでしょうか。
頬に落ちるまでは確かに、確かにこの二滴も「目薬」だったのに、
目を逸れて頬に落ちてしまったので、
その瞬間に「目薬」としては終わってしまった。
ぎりぎりまでをちゃんと見てくれてる眼差しのやさしさが
ホントすてきって思いました。
それにしても、
三滴のうち二滴はずすって
それはなかなか不器用さんですね。

音符を入れたうた。
雪間さとこさんの
朝露と思ってそっとしておいてほしいときほど光ってしまう
なんだろうこの自分ではどうしようもなさ
って思って、
しかも「光ってしまう」
ってなんかすてきだなって思いました。

桔梗さんの
蛇口からしたたる水を見つめゐる猫のまなこがみづうみとなる
ぽたんぽたんと落ちる水を
じっと見ている猫
っていうそれだけでもすごく絵になるなぁって
思うんですが、
その猫の目を
「みづうみ」と表現されて
世界をすうーっと広げられていく感じがすてきでした。

静ジャックさんの
ひとしずくの涙はいつもたましいと同じ形に描かれている
「涙」と「たましい」
この二つを同列にするっていうのは、
もしかしたらこのうたが最初ではないのかも知れないけど、
あの「形」が、
まず「たましい」の形であるって定義付けられてるところが
あっと思わせられるところですてきでした。

ふたりさんの
さよならを言うためだけに会いに来てずるいよそんな綺麗な涙
たしかにそれはずるい。
さよならのためだけに会いに来てて、
そっちが泣いちゃうとか
うーん、それはずるい。
だけどそれを本気でなじったり、恨んだりできないぐらい、
それはそれは「綺麗な涙」だったんだろうな
って思います。
「綺麗な涙」という漢字表記が、
どんなに綺麗な涙なのかを思わせるようでした。

もたろーさんの
かつての日の幻だろう一滴の泥水にみるラグビーの汗
「一滴の泥水」
何かに飛び散った泥水のしぶきの一点でしょうか。
それは本当に何気ない、
例えば雨の日の撥ね、みたいなものだったかも知れませんが、
そこから「ラグビーの汗」を見てしまう。
それは遠い青春の日々に見た「泥水」と「汗」を
ふっと思い出させる「泥水」だったのかも知れません。
「かつての日の」という表現はややまどろっこしいような気がしますが、
下の句の一瞬だけの強い回想みたいな感じがいいなって思いました。
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うたの日(2月21日「群」)


2月21日のうたの日は「任」「胸」「群」「菌」でした。

「群」
みかんの皮にみかんじゃないゴミなどつつむ暴挙に群れのざわめき始む(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
ミルトンさんの
舌打ちにこころ弱まる群集のなかで進路をゆずりあうとき
あー……
って思うぐらい分かるっていうか
そう、そうやってすり減らしてしまうんだよね
って共感したうたでした。
「舌打ち」ってホント嫌ですよね。
中でもすれ違いざまに知らない人からされると
ほんとキツイ。
何だコイツって思えるような、
完全にやる気まんまんな状況ならまだいいんだけど、
「群集のなかで進路をゆずりあうとき」
っていう、
お互いに軽く相手を思いやって行動しようと思ってるときの
「舌打ち」。
これは、ゆずりあっている相手からなのかも知れないけど、
流れを阻害されたと思った「群集」から聞こえてきたと
そんな風に感じました。
なんだろうな、もう
ただしずかに「こころ弱まる」しかないですよね。
抑揚のあるリズムと端的な描写が
余計にそのつらさを感じさせるように思いました。

音符を入れたうた。
常盤このはさんの
クレパスの使わなかったぐんじょうを君と最後に見た海に塗る
「クレパス」、クレヨンでもパステルでもなくて、
サクラクレパスの「クレパス」というチョイス。
あの黄色のパッケージのなつかしいやつがぱっと浮かんで来ます。
なんか不思議なんですよね。
「クレパスの使わなかったぐんじょう」
っていうのは、多分、子供の頃に「使わなかった」
ってことなんだと考えるんですが、
「君と最後に見た海」
というのは、子供時代の話ではないんじゃないかな
そう考えると、
時間の軸がぐりっとずれてる感じがして、
そこが不思議な感じなんです。
「群」という題から、
「群青」というフレーズを連想して、
そこから、
ああ、そういえば子供のときにクレパスのあの濃い青は
ほとんど手付かずのままだったな
って思い出して、
今、あの「ぐんじょう」色のクレパスを使うとしたら、
「君と最後に見た海に塗る」のが一番ふさわしいな
って思った、
みたいな。
勝手に短歌制作の裏を想像してしまってごめんなさい。
でもそんなことを想像して、
わたしもなつかしいクレパスの色のことを思い出したりさせてもらいました。

桔梗さんの
ふかいふかい森にひつそり群れてゐるきのこであつた前世を思ふ
うーん、わたしもこういう前世だったらいいな
っていうか、来世がそうでもいいな
って思っちゃいますね。
すごーく雰囲気があるんだけど、
この短歌を整理しちゃうとほとんど何も言ってない
っていうところも、
短歌のすてきさっていうか面白さですよね。
ひらがな多めでひらがなの中に
ひっそりと「きのこ」が置かれてるようにも思えて
そこもいいなって思いました。

WPPさんの
海わたるモンシロチョウの群れを見た本の結末をいまだ知らず
渡りをする蝶はたしかにいますが、
モンシロチョウが海を渡るって……
ってびっくりしますが、
たしかに文献にはそういう例があるみたいですね。
何か生存に関する抜き差しならない事情があったのか、
あるいは群ごと風に持ってかれてしまったのか。
謎めいています。
さて、このうたでは、
「~群を見た」「本の結末を~」
となっていますが、
この「見た」は終止形の「見た」で、
見たのは主体本人なのか、
あるいは「見た本の」と繋がって、
見たのは本の中の登場人物なのか
その辺りがはっきりしなかったんですが、
後者かなって思って読みました。
群とはいえあのよわよわしいモンシロチョウが
海を渡って向こう側まで無事に着けるだろうか
そう考えたとき、
何か悲劇的な想像が先に立ってしまって、
その本の続きが読めなくなってしまった
みたいな感じなのかなって思いました。
たまたま、何かの事情で
読みかけのままで今に至ってしまったという
それだけなのかも知れません。
それでも、ふっと、
あの最後まで読めなかった本には、
そんなエピソードが載ってたなって思い出す
それだけでなにか、心にふわっと来るものがありました。

うたの日(2月20日「ゑ」)


2月20日のうたの日は「抱」「ゑ」「自」「大」でした。

「ゑ」
ぎこちなく振られてゑゑと鈴が鳴る願ひはどこで叶ふのでせう(しま・しましま)
「ゑ」一文字!
「え」って読む古いひらがななわけですが、
ひらがな一文字って難しくないですか!?
どう「ゑ」で詠んだらいいんだろうって
頭を抱えたお題でした。
「ゑ」でわたしがまず考えたのが、
いろはうたの
「あさきゆめみし ゑひもせす」
でした。
ずっと文字通り「えひもせす」あるいは「えひもせず」
だと思ってたのが、
あるとき、
「酔ひもせず」だって知って、
なんだかとてもびっくりしたことがあって、
酔うで「ゑ」使えるかなー
とか思ったわけです。
が、なかなかうまく使いこなせなかったんで没。
もう一つ、「ゑ」というと
これがあります。
強烈な「ゑ」
加藤治郎さんの
にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった
これには引きずられちゃいけないな
自分を強く持って!
って励ましたんですが、
うーん、やっぱり「ゑ」一文字は難しかったです。

ハートを入れたうた。
西村曜さんの
ゑをるって読んでいたころゑゑゑゑゑ(るるるるる)戦争なんて知らなかったよ
ところが!
こうやってあざやかに加藤治郎の本歌取りされてる方がいて
どびっくりでした。
しかも、「ゑゑゑゑゑ」を「るるるるる」と読ませるという!
オリジナリティ溢れる表現がすごく面白いなって思いました。
ちゃんと、「ゑゑゑゑゑ」が「るるるるる」である理由も
ナチュラルに分かるようになってるし。
「って読んでいたころ」「るるるるる」「なんて」「知らなかったよ」
と、軽くて明るい詠み方で、
後ろに重たい「戦争」が横たわってる感じもいいなって思いました。
その明るい詠み方が、幼さ(無知)から来るもので、
今は「戦争」について、まったく知らないわけじゃないって
そんな感じがします。

音符を入れたうた。
睡さんの
こゑといふ器に流しこむ為のこころが足りず黙つてしまふ
このうたは
旧かな遣いで「ゑ」の入る言葉をつかったうた。
初句にばーんとその「こゑ」を持って来てるところが
題を意識したうたって感じがしました。
で、「ゑ」に無理がないところがいいですよね。
「こゑ」が「器」である
っていう前提がまずすてきだなって思うし、
その器に入れるものが「こころ」である
っていうのもすてき。
そして、その「こころ」が足りないので何も「こゑ」に出来ない
ってうわー、いい!
って思いました。
「こゑ」「こころ」とさりげなく韻が整えてあって、
なめらかなところもいいなって思いました。

うたの日(2月19日「くじら」)


2月19日のうたの日は「くじら」「慣」「証」「改」

「くじら」
すこしさびた蝶番から洩れてくる鯨の声をもう一度きく(しま・しましま)
しょっちゅう書いてる気がするけど、
海獣大好きなんですよ。
「くじら」の題、これは出さなければ!
って感じでした。
この間の「自由詠」の時に、
マナティとくじらの祖先の話を書きましたが、
そういえば他の海獣の祖先は何なんだ
と思って、あの後調べてしまいました。
セイウチとか、あの辺は、
カバでも象でもなくて、
(いくつか説はあるみたいだけど)クマなんだとか。
お前はクマかー。
と思って、なんだか楽しかったことを、
特に書く事が無いので書いてしまいました。

ハートを入れたうた。
柊さんの
聞こえない筈の歌声響いてるクジラの骨の標本の下
このうた、まず「クジラの骨の標本の下」という
この場所がステキだなって思います。
「歌声響いてる」ってぐらいだから、
主体はそこにいるんだと思うんですが、
クジラの全身骨格の標本って、
まあ種類にもよるとは思いますが、
小さめとしても大きいですよね。
すでにけっこう広々とした空間が想像されて、
それだけでもう気持がいいなって思います。
モノの下とはいっても、
「骨の標本」なので、風通しもよさそう。
クジラの骨格標本の下に潜れたらステキだなぁとか
まずそんなことを思いました。
で、
そこに「歌声響いてる」わけです。
しかも「聞こえない筈の」
ということは、
クジラの歌うその「歌声」が、
その場に流れているわけではないけれど、
主体には感じられたってことと思います。
骨になったとはいえ、
リアルなクジラに物理的に近づくことで、
より強く生前のクジラへの思いが強まった
みたいな感じがいいなって思いました。

音符を入れたうた。
小川けいとさんの
くじらよりもっと大きな愛なのに君は欲しいと言ってくれない
「君は欲しいと言ってくれない」
っていう下の句が切ないうたでした。
「君」がどういう相手なのか
それはこのうたでははっきりしませんが、
少なくとも主体が「大きな愛」を受け取って欲しいと
そう思ってる相手ですよね。
切ないなぁって思うのは、
これが受け取ってくれない、みたいな
はっきりと拒絶されてるわけじゃない嘆きなところ。
モノならね、
欲しいと言ってくれなくても渡せちゃうところありますが、
「愛」しかも「大きな愛」ってなると、
欲しいと言ってくれないと渡せないとこあるなぁ
って思いました。
このうたでは「くじら」は、
比較対象として登場しますが、
くじらの体の大きさ、なのか、
くじらの愛(くじらへの愛?くじらからの愛?)なのか
その辺りがちょっと判別しづらいなって思ったところが
少し残念な気がしました。

こまちさんの
6歳のわれの憧れ乗せたまま大空をゆく真白きくじら
読んですぐに中川李枝子の童話「くじらぐも」を思い出しました。
小学校の教科書に載ってたりしたんですよね。
調べてみたら、一年生の教科書に載ってるみたい。
だから「6歳のわれ」なんですね。
このうたもね、
広がりがあって気持がいいんですよね。
視覚的な気持よさだけじゃなくて、
そこに自分の憧れが乗ってるところに、
自分自身が雲に乗って大空を行くような気持よさがあって
いいなって思いました。
「ろくさいのわれのあこがれのせたまま」
という上の句のア行の明るい調べが、
より心地良さを増してるなって思いました。
小学校で「くじらぐも」を読んで以来、
大きな白い雲を見るとすぐにくじらを連想し、
あの時のわくわくが甦ってくる
っていうか、そういう雲見る度に
あっくじらぐも!って思い続けてる感じもいいなって思います。

照屋沙流堂さんの
肺呼吸で海に棲む業の引き換えに死後鯨骨は宇宙となりぬ
「鯨骨は宇宙となりぬ」
がいいですよね。すてき。
他の方のうたにもありましたが、
死んだ鯨は、
まず海底で他の魚の餌となって
その後大きな骨が住処となるんですよね。
鯨骨のエリアに特殊な生態系が出来るぐらいなんだとか。
その生態系を「宇宙」と表現されてるのかな
とも思います。
が、
そこからまた長い時間を経て、
鯨骨が化石化するわけですが、
わたしはその長い長い時間込みで「宇宙」かなって思いました。
正直言うと、
わたしの好みでは、
このうたは言葉数が多すぎるなって気がしますが、
「鯨骨(げいこつ)」という固い言葉と
他の漢字大目の言葉群は雰囲気があってるなって思いました。

紅鉄さんの
夢に見る鯨はいつでも海の底それでも怖いと泣いた幼子
うたの日に
大きいものが無性に怖いってことありますよね。海の底はこの子のおうちからずっと遠くにあるんだけど、それでも怖い、っていうか暗い海の底に巨大なくじらがいるんだって想像するとそれだけで怖いって気持、分かるなぁって思いました。
ってコメントしましたが、
そういう感じ、ふんいきがあっていいなって思ったうたでした。
「夢に見る鯨はいつでも海の底」
というのは、主体の見る夢のことのようなんですが、
下の句では
「それでも怖いと泣いた幼子」
と、自分のことではないような書き方がされてるので、
あれ?夢もこの幼子の夢なのかなってちょっと違和感があります。
あと、「海の底」にいつもいるって、
それ自体が「怖い」もののようにも思えるので、
「それでも」という繋ぎ方はどうなんだろうって思ったんですが、
海の底はおうちから遠いんだよと諭される、
という途中経過があったのかも知れないなって思います。
このうたの醸す雰囲気はすごく好きで、
幼い子供が、何か大きなものを怖いって思ったら
とにかく怖いって泣くしかない
みたいな感じ、
ここがとにかく好きだなっていう音符でした。

うたの日(2月18日「鼻」)


2月18日のうたの日は「ダンス」「鼻」「偶然」「檻」でした。

「鼻」
とうとう雨が降りだしてきた帰り道 小鼻を伝ってゆく熱いみず(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
雨宮 司さんの
鼻につくゴムの焦げてるような臭いどこから風に吹かれてるのか
稀によく、「ゴムの焦げてるような臭い」が
ふっと漂ってくることありますね。
うん、ありますよね。
炬燵とか、ストーブの前とかだと、
どこからも何もそこからだろってなるんですが、
このうたは、
多分外にいて、漂ってきた匂いに気がついた
という状況と思います。
で、わたしがすごくイイな!って思ったのは、
「どこから風に吹かれてるのか」
っていう下の句。
どこからその匂いがするんだろう
っていう、匂いの元を考えるんじゃなくて、
それが風に運ばれてきた、
元のなにかが風に吹かれてきたんだ
って思うところ、いいなって思います。
しかもほんのりかっこいいし。
ボブ・ディランですよ。
そうだ、ボブ・ディランだ
って思うと、
この「鼻につくゴムの焦げてるような臭い」も、
単なる現象ではなくて、
やばい世界情勢を風に聞いてるようにも思えます。

音符を入れたうた。
高槻さんの
祖父と母わたし息子とだんご鼻さくやこのはな受け継がれゆく
連綿と受け継がれるものをあたたかく詠まれてて、
しかもそれが「だんご鼻」っていうところが
楽しいうたでした。
面白さに振りきってなくて、
美しい詩語がさらっと詠み込まれてるところも
ステキだなって思いました。
古今和歌集の
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
の「さくやこのはな」ですよね。
ちょうど今ぐらいの季節と、
この元のうたで詠まれてる梅の花がぴったりで、
待春の気持もなんとなく感じられるところが
あーなんかすてき
って思いました。
「だんご鼻」って、
正直言ってそこまで羨ましい遺伝ではないですよね。
でも、これがうちの母方の血筋
って言い切れちゃうところに愛情を感じます。
「祖父」「母」「わたし」「息子」と
受け継がれた「だんご鼻」。
ここに「さくやこのはな」の一語があって、
その先も受け継がれていけって願ってるような気がしました。

大橋春人さんの
鼻水のついたティッシュを燃やしますいつか誰かの雨になります
「鼻水のついたティッシュ」を「燃や」すこと。
水分を含んだティッシュを燃やすことで、
その水分が蒸発し、
いつか上空に雲として溜まっていって、
遠い将来雨として降って来るだろう
っていうことの、
理屈部分だけを削って、
風が吹けば桶屋が儲かる的な表現をされてるところが
面白いなって思いました。
しかもそのティッシュは「鼻水」がついてるという。
後で出て来る「誰かの雨になります」から、
なんとなく鼻炎の鼻水ではなくて、
泣いたついでの鼻水な気もします。
今の辛いとき、泣いた涙も鼻水も、
いつか昇華してって「誰かの雨」になる
って思う時、
「誰かの雨」が福音として、
めぐみの雨として詠まれてるのだとしたら
それはロマンティックでやさしいうただなって思います。

うたの日……のことじゃない話


2月17日のうたの日は……
「抜」で投稿したんですが、
この夜は句会で外出してたので、
選が出来ませんでした。
ちなみに
伝説の勇者でなければ抜けないと言われて火照る指先のとげ(しま・しましま)
でした。

後からいいなと思ったものをいくつか選んで
感想書こうかなとも思ったんですけども、
別の話題でもいいかなー
とか。
えーと、数日前にも、
連作の話をしましたが、
またその話。
ゾンビ短歌20首連作を作った、
という話なんですが、
これを三人の方に読んでもらいました。
「ゾンビ」っていうそのまんまな言葉を使いすぎ
とか
ゾンビイメージがよくある感じかな
とか
美醜のコントラストとか
うたの並べ方とか
あと、このうたについてはわからない
とか、
ご意見を頂いて、
ああー、なるほどそこは気がつかなかったけど、
たしかにそうだ
ってことばかりで、
ホントに色々アドバイスありがたかったです。
書いてもらったことを参考にして、
いくつかは部分的に手を入れて、
いくつかはさっくり別のうたに入れ替えたりして、
決定稿も送らせてもらいました。
多分こんかいのアドバイスは、
今後別の連作をつくるときも、
かなり有効なんではないかなーって思ってます。
一首一首のクオリティの問題は
とりあえずその時々で違うわけですが、
配置の仕方とか、
複数のうたを並べた時に、
このうたのこの部分がこっちのうたに干渉しちゃうとか
このあたりは何の連作でも同じですよね。
ちなみに今回の連作は、
前にも書きましたが、
ゾンビドラマ「ウォーキングデッド」が好き過ぎて作ったやつ
ってことですが、
20首連作で、
まったく新しい世界観のゾンビワールドを作り上げる自信がなかったのと
まったく新しいゾンビワールドだとしたら、
いくつか説明的なうたを用意しなくちゃいけないな
となると20首じゃ足りないなぁ
ってことで、
一応世界観としては、
みんながぼんやりと思い浮かべることが出来るゾンビワールド
を借りることにしました。
そこに一人の主人公を置いて……
という感じで詠み進めました。
ありものの世界観の上に、ではありますが、
フィクションの物語を構築していくのは
思った以上に楽しくて、
これはまた手を出してしまいそうな楽しさがあるなって
思ってます。
今回は三人の方に読んでもらいましたが、
次回(があるとしたら)、
もう少し人数が増えるといいなって思ってます。
よろしくお願いしますー。

うたの日(2月16日「空白」)


2月16日のうたの日は「告白」「白衣」「空白」「臼」でした。

「空白」
あらかじめ削られている文章の( )に意味を生み出しなさい(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
木蓮さんの
君がもし 二行の空白のあとのお幸せにを今でもなぞる
このうた、ぱっと見たときは、
ん?どういううただろうって思ったんですが、
ちゃんと読んでいくと、
あー、なるほど
って思わせられます。
初句の「君がもし 」
は、手紙か日記に記した言葉なんですね。
そして、その言葉はそこで途切れてて、
「二行の空白」を置いて、
「お幸せに」
って言葉がある、と。
結句に「今でもなぞる」ってあるので、
主体はこの自分の書いたもの、
出さなかった手紙、という線も考えられますが
これを時々出してみてる。
指で「お幸せに」の部分をなぞったりしながら。
そういううたと思います。
このうたの「君」と主体がどういう関係で、
どういうことが過去にあったのか
それはわからないんですが、
なにかほんのりと、しみじみと切なくて
しかもこの切なさは長く残るタイプのやつだ
って感じがしていいなって思いました。

音符を入れたうた。
鮎さんの
歯ブラシが一本減った空白にスターチスでも活けようかしら
「歯ブラシが一本減った」
それだけで状況が想像されるっていうところ、
日常につかう道具って雄弁なんだなぁって思いますね。
で、このうたは
「スターチス」という花のチョイスが絶妙だな
って思いました。
「歯ブラシが一本減った」その空間が、
なんとなく長く続きそうだ、
っていうような予感も少しします。
この花のチョイスがホントいいなって思って、
ハートも考えたんですが、
「空白」って、空間にも使うのかな
っていうところが少しひっかかってしまいました。

UrbanBluesさんの
クリームが入っていない空白もクリームパンと呼べばしあわせ
これも空間の「空白」のうたですね。
クリームパンって確かに、
あんぱん以上にパンと中身の間に空間が出来るような気がします。
ドーナツの穴
みたいな、ないことがある
みたいな存在の新しい表現で楽しいなって思いました。
で、
そこもクリームパンの一部だっていう
しかも、
そこも「クリームパンと呼べばしあわせ」
って、
とてもほんわかあかるい気持にさせられるうたって思いました。

心伝さんの
空白の三年間を語ろうかあの時俺は僕になってた
回想の始まりを切り取ったような感じで、
その後どう続く物語なんだろうって
興味がわくうたって思いました。
物語の始まりって、
ここから広がる予感みたいなものがあって
なんかロマンがあるっていうかステキですよね。
「俺」が「僕」になる、
この一人称の違いに大きな意味があるんでしょうね。
色々と想像が膨らむような、
それよりは語られるのを待つ方がいいような、
不思議な魅力のあるうたでした。

うたの日(2月15日「見」)


2月15日のうたの日は「北海道」「すっぴん」「忙」「見」でした。

「見」
見飽きない世界ですがと会釈して一斉に飛び立ってゆく鳩(しま・しましま)
あえて「白い鳩」といわない場合、
わたしはつい土鳩を思ってしまいますが、
一般的にはどっちを連想されることが多いんでしょうね。
「白い鳩」っていうと、
なにか問答無用でひとつふたつ意味づけがされてしまうような
なんかそういう気がします。

ハートを入れたうた。
東風めかりさんの
ひつそりと役目を終へた廃ビルの窓に宿りし月を見つける
作中主体……というよりこのうたでは作者と言いたいですが、
作者の立ち位置とか視線の移動が、
ナチュラルに分かるなぁ
っていうのがまずいいなって思いました。
まず「ビル」があるわけですよね。
作者にとって何か意味のあるビルなのか、
別にそういうわけではないのかは分かりませんが、
少なくとも見知らぬビルではなさそう。
で、そのビルはすでに「廃ビル」なんですね。
「ひつそりと役目を終へた」
というやや主観的な二句までのフレーズから、
知らないうちに廃ビルになってしまっていたことに
何かしら思うところが少しあるような気がします。
そこであらためてこの廃ビルの全容を眺めようとして
視線を上げたところで、
どこの窓だかに月が映ってるのが見えた。
うたではここまでだけど、
もしかしたらその後振り返って本物の月も眺めたのかも。
でも、そこまでは言わなくて、
見つけた時の「あっ」ぐらいの感じがいいなって思います。
「宿りし月」っていう表現もいいですよね。
「廃ビル」に「宿りし月」。
言おうと思えばもっと情感的に描けるところを
さらっと詠まれてるところがすきです。

西村曜さんの
この魚、文字化けでしか見たことない! きみがはしゃいで指差す鱸(すずき)
言われてみれば、
たしかに文字化けの中に「鱸」って出て来るかも!
って思うと、このうたの「きみ」じゃないけど、
何かちょっとテンションがあがってしまいました。
ところで、このうたの「鱸」という漢字、
どういう状況で「きみ」が発見することになったんでしょうね。
何かの看板か、
おすし屋さんの湯呑み的なものの中から発見したんでしょうか。
「きみ」の無邪気さも、
「鱸」=「文字化けの中」という意外性も
楽しいうたでした。

龍也さんの
タバコ吸う隣りの母を見下ろして丸まる背中歳を感じる
うたの日にもコメントしたんですが、
ホント、
子供にとって親の老いって
なんか不思議にギリギリまで気がつかなかったりしませんか?
なんとなくいつまでも、
50~60代ぐらいのイメージのままで止まってたんだな
って気がついて、現在の年とのギャップにショックをうけたり。
わたしの場合は母を救急車で送る時に、
軽くパジャマから着替えさせた時という
ほんとにギリギリ状態の時でした。
あっこの人老人なんだみたいな驚き。
このうたでは、
さすがにそこまでギリギリではないようですが、
「丸まる背中」を「見下ろす」ときに「年を感じ」た、と。
なんでしょうね、なんとも言えない立ち位置で
母親の年齢を感じたんだなぁって思います。
ところで、
初句の「タバコ吸う」ですが、
これは連体形の「吸う」で、二句目の「母」に掛かってると
そう読んだんですが、
もしかしたら終止形で、タバコを吸いながら見下ろしている
ということなのかも知れません。
どちらが吸ってるのかはっきり分からないここと
「丸まる背中歳を感じる」という言いたいことは伝わるけど……
っていうところがちょっと気になりますが、
歳を取っていく母親に対する息子の複雑な気持
みたいなのが感じられていいなって思いました。

うたの日(2月14日「つづきはWEBで」)


2月14日のうたの日は「キス」「前戯」「からの」「つづきはWEBで」でした。

「つづきはWEBで」
かくれんぼゆっくり百まで数えたらもう日が暮れるつづきはWEBで(しま・しましま)
かくれんぼは夕方やるとちょっと辛い結末になる
かも知れません。

ハートを入れたうた。
常盤このはさんの
青虫がサナギになって羽化を待つ つづきはWEBで見ないでおこう
えーっと、まず超深詠み、もしかしたら斜め下からの切り口だったら
ごめんなさいと先にあやまっておきます。
ごめんなさい。
「青虫がサナギになって羽化を待つ」
このサナギから羽化って、
案外待たされるんですよね。
手持ち無沙汰な感じです。
なんか他のことして待つわけですが、
さて、現代にはネットがあって、
色んな情報が待たずに手に入るわけです。
どのぐらい待たされるのか、
どんな風に羽化するのか
ってことももちろんネットにあるかと思います。
っていうか羽化の詳細なんかは
めちゃめちゃありますよね。
でも、それを「見ないでおこう」
という主体。
でもちょっと待って。
目の前にすでにサナギ状態のやつがいて、
このつづきをWEBで確認する人って
あんまり一般的ではないような気がします。
どちらかというと、
敢えてWEBで見る
という人もいるかも……
みたいな感じじゃないかなって。
ところがこのうたでは
「つづきはWEBで見ないでおこう」
という。
まるで、つづきをWEBで見るのが当り前のところだけど
みたいな言い方がしてあって、
そこが面白いなって思いました。
もしかしたらわたしが古いだけで、
今はもうすでにそういう時代なのかも知れないんだけど、
ちょっと時間短縮を美徳とする近未来の姿みたいにも思えて
それに対するアンチなうたなのかなって思いました。
目の前に生々しいサナギが息づいてて、
でもその「つづき」を「WEB」で見るという選択肢が
すでに当り前、
みたいな薄ら寒い世界とか考えて、
面白いなって思いました。

音符を入れたうた。
遠井海さんの
WEBの人にホントに会えた人間だった今日はありがとつづきもWEBで
すごく面白くてハートを迷ったうたでした。
全角大文字の「WEB」にちょっと違和感があったのが
残念な感じでしたが、
わたしの好きな感じの舌足らずの良さみたいなのが
すごく感じられる、
わたしの好みの雰囲気のうたでした。
「WEBの人にホントに会えた」「人間だった」
「今日はありがと」「つづきもWEBで」
って、四つのパートに分かれるうたなんだと思います。
「WEBの人」
これが微妙な言い回しで、はっきりとこうだろうって言い切れないんですが、
WEBページ上ではよく知ってる人ってことかな。ブログ主とか。
画面の向こうでちゃんとその記事を書いてる生身の人がいる
っていうことは分かってるんだけど、
でもそう考えてみてもいまひとつ現実味がなかった。
それが今日、その人に実際に会う事が出来て、
ああ、やっぱりちゃんと生身の人間だったんだ
って再認識した。
みたいなうたと思います。
このうたが面白いのは、そのあと
「つづきもWEBで」って
あっさり戻ってしまうところ。
あーやっぱりちゃんと人間だったよかったよかった
でそれ以上は行かなくていいっていうあっさりさが
面白いなって思いました。
このうたが、舌足らずっぽい言葉で詠まれてるのも、
そのあっさりしたスタンスと合ってるなって気がします。
前述の「WEBの人」というフレーズもそうですが、
「~会えた 人間だった」という箇条書ぽいところとか、
人間に対して「人間だった」っていう感想持っちゃう失礼さとか
全体的に無邪気な舌足らずさがあって、
なんか面白いうただなって思いました。

午後さんの
夢のある一言だった Webには三千世界があると信じた
このうたには「Web」というフレーズはありますが、
「つづきはWEBで」と「Web」単体は別ものだと思うので、
題の「つづきはWEBで」をテーマというか、
前提というか前書きのように使ったうた、
と理解しましたがどうでしょうか。
「夢のある一言だった」の「一言」が
「つづきはWEBで」ということなんだろうなって。
前後がない「つづきはWEBで」ってフレーズ、
たしかに考えてみれば、
ありとあらゆる可能性がWEB上にある
とも取れますよね。
それを
「Webには三千世界がある」と、
仏教用語を使って表現されてるところも
印象に残るうたって思いました。

ところで、
このうたの鑑賞とはあんまり関係ないんですが、
Webってウェブともウエブとも言うんだよなぁって
今回の題で改めて思いました。
ウェブなら二音、ウエブなら三音。
ウェッブと読むなら四音。
英語を日本語の定型詩で読むのって
なんか難しいなって思ったりした日でした。

うたの日(2月13日「違」)と連作の話


2月13日のうたの日は「甥/姪」「違」「操」「珍」でした。

「違」
間違えて止めてしまったタクシーで海まで行けばもうかえれない(しま・しましま)
そういう、行っちゃったら詰んじゃう、みたいな行動に
ふいに惹かれることがあるわけです。

ハートを入れたうた。
いっくんママさんの
保育園前で息子が泣き叫ぶ「間違ってるよ!」そうかもしれない
昨日は選んでみてから、
主体が幼い子供から「違」を突きつけられているうただな
って思ってちょっとびっくりしました。
こちらもとてもいいなって思って
どちらにハートをいれようか結構迷いました。
「保育園前」という一語で、
その情景がぱっと浮かぶところがいいですよね。
たぶん登園の時で、
「間違ってる」というのは、
自分が保育園に預けられなければいけないこと
に関することなんだろうなって思います。
「間違ってるよ!」
って大人びた言葉ですよね。
保育園前で泣き叫んでる子の口から出る言葉としては
ちょっと不似合いだけど、
そこが妙にリアルな感じもします。
幼い子供ってどこで覚えたのかわからない大人っぽい言葉を
ふいに使ってきたりしますよね。
「行きたくない」「いやだ」「おうちに帰る」
みたいな、自分の気持を言葉にするんじゃなくて、
「間違ってるよ!」
なんて言われたら、
親としては、何がとは言わず、いろいろと「そうかもしれない」
って思わざるを得ないかもって思いました。
つらい時間です。

音符を入れたうた。
睡さんの
首をふるばかりでなにも答えない子どもを抱きしめている水際
そう、これもハートを迷ったんですよね。
このうたは、
とにかく「水際」がいいなって思って、
ギリギリな感じやひやりとした空気、
ひたひたと何かが近くにある感じがあって、
子供と、その子を抱きしめてる主体、
どちらも心象的に水際にいるような感じが
緊迫感あるなって思いました。
「違う」という一言さえ口に出して言えないで
「首をふるばかり」の子と、
その子を「抱きしめ」るしかない親。
どういう状況下にあるのかはわかりませんが、
とにかく何かがギリギリなんだろうなって思うと、
胸がつまるようなうたでした。


えーっと、いつもはもうちょっと音符を沢山いれるので、
ここに感想もいっぱいかけるんですが、
今日は少し余っちゃいましたね。
何か物足りないので、
最近のわたしのことを少し書きます。
先月からせっせとHuluでゾンビドラマ
「ウォーキングデッド」を見続けているわたしですが、
余りに好き過ぎて、
ゾンビ短歌の連作なんかを作ってしまいました。
20首連作ですね。
ちょっと長いけど、
こちらがタイトルになります。
IMG_3143.jpg
ただ、
わーっと勢いで並べた20首なので、
連作としてどうなん?
みたいなところがあって、
ツイッターで、
「今すぐの話ではないですが、ゾンビ連作(多分20首)を読んで忌憚のない意見をグサグサしてくださる方を募集。読んで書いてやってもいいという方、リプでお願いします。」
と、声かけしてみたところ、
三人の方からリプをいただくことができました。
自作とはいえ、さすがにしばらく時間を置くと、
全体的な流れとか配置については
やや客観的に見ることが出来るような気がするんですが、
一首一首については
詠みたいところがちゃんと他人にも伝わるのか
っていうところが分からないんですよね。
作者なので自分の頭の中ではちゃんと見えてるので。
戴いたご意見を参考にして、
改めて手を入れた決定稿を
また三人の方には送らせてもらいます。
いや、ほんとに楽しくて、
うっかりうたの日にもゾンビ系で出しそうになるぐらい
今のところハマっております。

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