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しま・しましま

Author:しま・しましま
こんにちは
しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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うたの日(2月25日「泳」)


2月25日のうたの日は「牛」「門」「天」「泳」でした。

「泳」
泳がないこに教室はやさしくてミルメークの粉こぼしてしまう(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
松岡拓司さんの
ぬるき夜を背泳ぎすれば星近くついに宇宙の一部となりぬ
うたの日に
暗い水面にすうっと浮かんでるような浮遊感が心地良いなって思いました。経験はないですが、遠近感がなくなって「宇宙の一部」になるような感じ、なんか分かるような気がします。
とコメントしましたが、
ホントこの、なるような感じが
すごく好きでした。
ふっと自我を失うような感覚、
あるなって思いました。
上の句の
「ぬるき夜を背泳ぎすれば星近く」
の○○すれば△△の、
行動からの結果が視覚的なところから、
「ついひ宇宙の一部となりぬ」の、
スムーズな飛躍の仕方も好きだなって思いました。

音符を入れたうた。
中牧正太さんの
この胸を撃つのだろうかこの男もう少しだけ泳がせてみる
うたの日にも書きましたが、
「この男もう少しだけ泳がせてみる」
という下の句がかっこいいなって思いました。
「この男」という
わざと突き放したような表現がいいですよね。
恋に落ちる予感がする、そんな相手なんでしょうか。
そうやってマークしてるところが
気がついてないけどすでに撃たれてるような
そんな気もしないでもないですが、
大人の女の余裕っぽくしつつ、
全然余裕なさそうなところが面白くてすてきって思いました。
このうた、
出詠メンバーを見ながら、
中牧さんっぽいなぁ
って思ってたんですが、
やっぱり中牧さんのうたでした。
女性視点のうたがめっちゃドラマチックなんですよね。
内容がというよりも、言葉の使い方がドラマチック。
そんな印象を実は中牧さんに持ってます。
男性視点詠だとまた違うところも面白いんですよね。

時子さんの
冬の日は泳いだあとの自販機の薄いココアが懐かしくなる
子供の頃とか、
そこまで古い記憶でなくても、
過去によく飲んでいたものが妙に懐かしくなる
そういうことってありますよね。
このうたは、
「冬の日」に「泳いだあとの」飲み物が懐かしくなる
ということは、
スイミングスクールに通っていた頃、という感じでしょうか。
「薄いココア」っていう、
今、わざわざ求めてまで欲しいようなものでもない
安っぽい味のココアが、
ふっと懐かしくなるっていう感じが
あるなぁって思って音符を入れました。
「薄いココア」っていうのがいいなって思います。
「冬の日は」「懐かしくなる」
の部分が現在で、
「泳いだあとの自販機の薄いココア」が
過去の部分なんですが、
過去部分が丁寧に描写されてるだけに、
現在部分の「冬の日は」が
ちょっとあっさりしすぎなような気も少しだけしました。

うたの日(2月24日「アリバイ」)


2月24日のうたの日は「柱」「50%」「アリバイ」「凛」でした。

「アリバイ」
アリバイと呼べるでしょうかその夜の月下美人の白さを言えば(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
椋鳥さんの
消え失せたハーゲンダッツ友人の多い次女にはアリバイがある
うわーなんか切ない!
って思ったうたでした。
明らかにされている登場人物は「次女」だけですが、
主体はこの「次女」ではなさそうなので、
主体と、それから「次女」との対比としての長女が存在しそうです。
わたしは主体=長女として読んで、
うわーなんか切ない!
って思ったんですけども
主体が長女でないとしても、
それはそれで長女の存在が切ないなって気がします。
家の冷凍庫からハーゲンダッツがなくなったことと、
「友人の多い」ことは
直接的には関係ないはずなのに、
それが「アリバイ」の理由になっちゃうって、
逆に言うと、
友人が少ない(と思われる)長女は
それが理由でいつも家にいるから
アリバイがないとみなされる
ってことですよね。
リア充な上にまっさきに家庭内犯罪から除外される次女と
語られないけども、
多分そうじゃない長女の対比が
めっちゃ切ないうたでした。

音符を入れたうた。
小林礼歩さんの
日中を読書三昧した夜はアリバイ的にシチューを作る
あるあるー
って思って思わずうふふなうたでした。
特に主婦と断定して読まなくてもいいんだろうと思いますが、
家のことをなーんにもしないで
読書三昧だった一日。
夜になって、
なんとなく気がとがめて「シチュー」なんて作ってみたりする。
この場合の「シチュー」は、
市販のシチュールーなんて使わないで、
じっくりことこと煮込んだ感じ、でしょうか。
あーなんかめっちゃ共感するな
ってうたでした。

もたろーさんの
唇の余韻も醒めぬままに置く東京バナナに妻は目をやる
物語性のあるうたって思いました。
東京出張にかこつけて不倫旅行
とか、
そういうのを想像します。
「東京バナナに妻は目をやる」の
「妻は目をやる」というところ。
このワンフレーズで、
冷え冷えとした視線、
わかってるんだろうなって想像されて
ひゃーって感じでした。

うたの日(2月23日「裸足」)


2月23日のうたの日は「古」「ジャンパー」「裸足」「やで」でした。

「裸足」
尿意まだ遥かなとこをさまよって裸足をつつむ毛布なめらか(しま・しましま)

ハートを入れたうた。
史乃さんの
土足でも裸足でもなく靴下でなら踏み込んでも良いのだろうか
うたの日でも書きましたが
「土足」で踏み込むっていうと、
例えば誰かのプライベートとかもっと踏み込んだら心とか
そういうものにずかずか無遠慮に入っていく
みたいな感じですよね。
「裸足」で踏み込むっていうのはなんだろう。
特に慣用句みたいなものがあるわけではなくても、
べたっとした感じがしそうで、
ちょっとやな感じがするかも。
まあでも、
「踏み込」まれるとしたら、
何だっていやな感じがしそうで、
多分「靴下」だったらOKってこともなさそうとか
そんなことを思いました。
「土足」「裸足」「靴下」という、
踏み込む足の状態を三段階に分けてあるところが
リズム的にも面白いなって思いました。

音符を入れたうた。
ミルトンさんの
お母さん新聞はどこ靴下を履いたら夏が終わってしまう
夏が終るってほかの季節の終りにはない、
何か大きな区切りって感じがします。
うーん、大人になると別に夏が終ったからって
変ることなんてそんなに無い気がしますが、
小中学生の時の夏休みの終り、のあの感じを
ついつい思い出してしまうからでしょうか。
「靴下」は確かに「夏」にはそぐわなくて、
履いてしまうと、
それが日常へ戻る合図、
夏休みが終わって学校へ通う日々が始まる、
みたいな感じしますね。
ところで、
このうたの面白いところって、
「お母さん新聞はどこ」
「靴下を履いたら夏が終わってしまう」
っていう二つの、
繋がらないフレーズが繋がってるところだと思ったりしました。
ただ二つのフレーズがぽんぽんって置いてあるんじゃなくて、
「靴下」が二つを繋ぐ言葉みたいにあるのが
面白いなって思いました。
「お母さん新聞はどこ靴下」
まで読んだところで、
慌ただしい朝に、お母さんの手を借りて
必要な物品を集めてるところ……
と思いきや、
「靴下」の方は、
「履いたら夏が~」って別のフレーズの頭の言葉だった
って、なんか「靴下」の前後で話がすり替わってるみたいで
なんか面白いなって思いました。
愉快な面白さというよりは、
なんとなく不安な感じがするところが
興味深いなぁって気がしました。

鮎さんの
湯の中でゆらり揺らしてみせたとて人魚になれないあたしの裸足
お風呂に入ってて、
お湯の中で人魚の尾ひれみたいに揺らしても
みたいに揺らしただけの足は足、
みたいなことと読みました。
「人魚」になりたい「あたし」なんですよね、多分。
でも、
人魚から人になるのは人魚姫(アリエル)やらポニョやら
前例(?)がありますが、
人から人魚ってのはあまり聞きません。
実際このうたの「あたし」も
なれないわけですし。
センチメンタルな感じと
「人魚」と「あたし」っていう組み合わせが
なんか好きな感じだなって思いました。
ただ
「とて」っていう格助詞の使い方が
ちょっとわたし的には気になるんですが、
どうなんでしょうね。
そこだけ浮いてるような気がします。

薄荷。さんの
窓際で膝を抱えて月を見る 裸足の指は冷たくなって
このうたも、
「窓際で膝を抱えて月を見る」っていう上の句
センチメンタルな感じなんですが、
時々そうやって何かを見上げたいような気持になること
確かにありますよね。
下の句の
「裸足の指は冷たくなって」
の体(からだ)感がいいなって思いました。
センチメンタルになりきれない、
頭の片隅で妙に客観的になってる感じがしました。

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