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しま・しましま

Author:しま・しましま
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しま・しましまです。
2014年冬から短歌を始めました。
主にうたの日とツイッターで短歌をしてます。
コメントとかすごくよろこびます。

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五月中に詠んだ短歌のこと


毎日投稿してたうたの日をお休みしてて、
これは短歌から離れちゃうなー
って感じだったんですが、
意外に詠み続けてるな、って印象。

とりあえずメモ帳の中の作品ではなくて、
何かしら発表したものを数えてみると

結社への月詠が10首(これは投稿しただけの段階ですが)
ツイッターでお題を募集して詠んだのが15首
題詠ったーの題を利用して詠んだのが昨日までで34首

あと、【翻訳小説短歌】として詠んだものが
昨日までで13首で
まだこれは未発表扱いではありますが、
ネプリ用に詠んだものが10首
あと、なんかプラスアルファ

あれ?普段よりも逆に多い?

来月は、出来れば題詠ではないものを多めに
なんとか詠めたらなって思ってます。
そのためにはやっぱり
詠みたいもの
っていうものを溜めていかないとなぁ。

ネットプリント出してますという話


わたくし、しま・しましまと、雀來豆さんのネットプリント
「とらぬたぬきうどんでおなかをふくらます唯一の方法」
現在Vol.2がコンビニで出せるようになってます。
セブンイレブンでだと 94461962
その他のコンビニだと MAUTZRU4J2
を入力すると出せるようになってます。
5月7日まで、ですが。

Vol.2ということは、
Vol.1があったわけで、
それは「変」というテーマで、
二人で詠みあった作品です。
というか、
3月にあったR-2ぐらんぷり2017という、
二人一組で短歌を一首詠むという歌会のお題が「変」で、
それに雀來豆さんと、チコとトレースというコンビで出たんですが、
その時に二人で持ち寄った「変」の短歌を
10首ずつネットプリントに載せたわけです。
で、
今回は「二人称」。
きみ、とか、あなた、とかってアレです。

さて、「二人称」です。
二人称、おもしろそうですねーって気楽に言っちゃったんですが、
詠んでみるとなかなかむずかしい。
二人称っていうと、
やっぱりベタだけども恋のうたかなぁって
その方向で考えてたんですが、
よく考えたら、
わたし、
今までもあんまり恋のうたって詠んでないんですよ。
ずいぶん前に、
きゅん系のうたが詠みたい!
って、うたの日でそういううたを詠んでみて、
それを「よこしま」ってタイトルで
ネットプリントにまとめたことがあるんですが、
それ以来、多分ほとんどないんじゃないかな。
1首1首ではたまに詠んだりしてるとは思いますが。
ということで、
今回のネプリは10首全部恋のうた、
なかなかないので、
よかったらコンビニでプリントアウトしてやってください。

もちろん雀來豆さんの10首もすてきなんですよ。
わたしのうたは大体半径がとても狭いんですが、
雀來豆さんのうたは縦横無尽!って感じがします。
あと、クールなファンタジー感が、
うわー雀來豆さん味の「二人称」だなぁって気がしてます。
というわけで、
また書いちゃいますが、
よかったらコンビニでプリントアウトしてやってください。

「うたの日の投稿を文語旧仮名遣いでやってみる期間」も明日で終りなこと

明日、4月30日で、
うたの日の投稿を文語旧仮名遣いでやってみる期間
が終るわけですが、
とりあえず雑感などを
つらつらと書いておきたいと思います。

まず、このチャレンジは、
4月1日からじゃなくて、
唐突に4月6日の、
しかも「うんこ」というお題の時から始めました。
「うんこ」っていう
どう頑張っても俗なというよりも下卑た言葉なので
逆に文語で表現したら面白いかも
ぐらいの気持で。
乾涸びし犬のうんこに立ち止るさくらさくらの影を被りつ
これは、後に、
逆にしたらどうだろうって
さくらさくらの影を被りぬ乾涸びし犬のうんこに立ち止るとき
してみて、
あー、こっちの方がきれいに決ったかも
と思ったりしたことを付け加えておきます。
どちらも同じ情景を詠んでるわけですが、
終止形にある方がそのうたの主眼になるっぽいので
うんこよりもさくらの影のほうがいいなって、
まあそう思ったりしたわけです。
うんこですしね、うんこ。

以前から、時々文語にしてみたりしてたんですが、
どうしても文語でやろうって思うと、
調べだけじゃなくて内容まで固くなりがちかな
って思ってたとこもあるんで、
これをきっかけに、
ちょっとは文語は文語なりに
自分のリズムが作れたらいいな
ぐらいの軽い気持だったんですが、
途中で、
色々と考えることがあって、
どうせなら、
ある程度文語短歌を試した感が自分に欲しいなって
そう思うようになって、
よし、これを今月いっぱい続けてみよう
ってなったわけです。

文語はあまり得意じゃないので、
どうしてもゆる文語になっちゃって、
しかも
文語でやる
って言ってんのに口語でしか出来なかったときもあって、
徹底は出来なかったな
っていうのは反省点です。
文語むずかしい。
せめて旧仮名遣いだけでも徹底しようと思ったんですが、
それもどうやら失敗している模様。うーん。
だからって
なれないことはするもんじゃない
みたいな気持に落ちつくわけではないですよ。
わたしなんだかんだ言っても旧仮名遣い大好きですし、
文語の、
(わたしの使う文語は万葉調ではない、どちらかというと固いタイプのやつね)
切れ味のよさはやっぱり魅力です。
「韻文」ってことを重視した場合、
これは文語がやっぱりびしっと決まるんだろうなって思います。
なかなかそこまで辿り着けた気はしませんけども。
あと、
さっきのうんこのうた、もといさくらの影のうたみたいに
後から手を入れやすい
ってのも文語っぽい気がします。
これはわたしの口語短歌の詠み方のせいかもですが。

なんだかんだで、
まだ出来てもいない明日の分を合わせて25首。
思いがけなく薔薇を頂いたり、
得票はそうでもなかったけど、いいねをたくさんもらったうたもありました。
そういうのもとても励みになりました。

5月からは、
うたの日の参加の方を少し抑えて、
新しい遊び方を模索しようかなって思ってます。
まあ今まで同様、
あっさり戻ってちゃっかり連日参加、
なんてことになってるのかも知れませんが。

自由律俳句と定型俳句(まとまらないまんま)


昨日の深夜、ネットで
自由律俳句と定型俳句の人の話を読んで、
ふうーんとその後色々考えさせられました。
定型俳句の人、
あるいは俳句をしない人もそうかも知れないけど、
いわゆる自由律俳句、
575の定型と季語という、
少なくとも現在の俳句を定義する上で必要不可欠とされる
この二つの大原則を手放した自由律俳句、
これを「俳句」と言っていいのか、
ツイッター上の呟きとはどう違う?
詩として認めるとしても、
「俳句」というカテゴリーにこだわる意味は?
一行詩、でいいじゃない
みたいな、ね
そういう疑問を持つことと、
いや、自由律俳句も俳句の一つなんだ
っていう意見ね。
(と、思って元の話を読んだんですが、
微妙に違ってたらごめんなさい)

わたしは
俳句を俳句たらしめている要素って
もちろん定型と季語というお約束もありますが、
それ以上に「切れ」と「我」だと思ってます。
前者二つだけなら、
それって川柳とどう違うの?
って話に突入しちゃうと思うんですよ。
あとは、
何を自分が今詠んでるのかっていう意識ね。
自分が詠んでるのは「俳句」
自分が詠んでるのは「川柳」
自分が今ツイートしたのは「俳句」
自分が今ツイートしたのは「つぶやき」
そういう意識。
そんなかにも上手いとか下手はもちろんあるけど、
俳句とは認められないとか
そういう批判はおこがましいんじゃないかなって思ってます。

ところで、そもそも話になるんですが、
いわゆる「近代俳句」と
自由律俳句の芽だった「新傾向俳句」、
考えてみれば大した時間的な差はないんじゃないかなぁ
って思うんですがどうでしょう。
勿論連歌からの発句の独立、江戸俳諧とか
そういうものを含めちゃうと、
けっこう歴史の差はありますが、
正岡子規の始めた俳句革新からを近代俳句とすると、
うーん、日清戦争直前ぐらい?
明治26、27年ぐらいですかね。
で、
河東碧梧桐が「新傾向俳句」という
新しい俳句の方向性に走り始めたのが、
明治40年前後ってとこでしょうか。
ちなみに、
「伝統俳句協会」
って団体がありまして、
これは高浜虚子から連なる俳句結社「ホトトギス」と、
その子、孫結社などから作られてる、
とわたしは認識してるとこなんですが、
伝統ですよ。伝統。
でも
高浜虚子が本腰入れて「ホトトギス」で俳句を指導し始めたのって、
碧梧桐が新傾向俳句に入れ込んで、
(一時ではありますが)俳壇がすっかり新傾向俳句に傾いた後なんですよね。
まあ、まだその頃は
自由律とか無季を掲げてやってたわけではないんですけれども。
碧梧桐の門下だった荻原井泉水が、
無季をゲットしたのが大正の初めぐらい。
自由律の親とも言える新傾向俳句のあととも言えるんじゃね?
みたいな気持になったりします。
まーこれは
突っ込まれればボロが出て来る
適当な言いがかりみたいな話ではありますが、
自由律俳句は
はぐれものが歴史の途中で横道に逸れて、
それでも「俳句」っていう看板を使ってる
みたいな話ではないんじゃないか
ってことがいいたかったわけです。
新しい俳句を模索してた、
まだ俳諧が俳句となって日の浅い頃、
すでに、のちに自由律俳句へと続く道が分かれてた
だから、今更、それ俳句って言っていいのか
って言うのも何様だよって気がしないでもないです。

なんかまとまりのない文でしたが、
まとまりないついでに
もうちょびっと。
河東碧梧桐が始めた新傾向俳句についてですが、
これは(わたしの思うところではありますけども)
同じ頃文学界で興った自然主義の影響が多分にあって、
これって超客観の姿勢で物事を把握しよう
みたいな感じだったのが、
次第に矮小化してって、
最後には私小説になって終っちゃった、
みたいなやつですよね。
碧梧桐も、超客観で考えると、
定型に当てはめるとか、
一句の中にひとつの強いイメージを盛り込むっていうのは、
それは作為になっちゃう、
みたいな、
たしかそんなことを言っていたと思います。

あと100首ぐらいで2000首突破するらしいということ

ツイッターでもちらっとつぶやきましたが、
既発表作(ツイッター含)だけで、
あと100首ぐらいで2000首に到達するんだなって
なんとなくそれは感慨深いものがあるなぁって思いました。

わたしは俳句を結構長くやってて、
正直、俳句はたぶんこのまま頭打ち状態のまま終るんだろうな
って予感を持ってて、
なんか新しいことしたいなって思って、
そこから短歌の世界に飛び込んだわけです。
あ、もちろん俳句を捨てて、ではないですが。
最初は自分の軸は俳句にあって、
短歌は本気の遊び、って思ってたんですが、
うたの日っていう毎日開催のネット歌会に出会って、
それこそ毎日短歌を最低一首は詠むわけで、
そうなると、一ヶ月に十五句ぐらいしか詠まない俳句と比べても、
ほぼ倍なわけです。
うたの日は題詠なので、
題詠じゃないのも詠みたくなると、
それでまた俳句の三倍ぐらいにまでなっちゃう、と。
そうすると、主従逆転といいますか、
どっちがメインなんだろうなって思ったりするんですよね。
去年から短歌結社にも入って、
俳句結社と二足の草鞋状態ですし、
余計にね。

短歌の面白さって、
人それぞれ、短歌の捉え方の違いなんかもあるし、
ほんとに人それぞれなんだと思うけど、
わたしは自由に遊べるところが気に入ってます。
57577の定型って枠組みはありますが、
まあそのぐらいですよね。
文語で詠んでもいい、口語で詠んでもいい、
作中主体が自分自身でなくてもいい、
(これについては、わたし自身はわたしを詠むことが多いですが)
表記も、新かなでも旧かなでも、
アルファベットやその他の言語、記号を使ってもいい、
一首で成立させてもいいし、
複数首で完成させてもいいって
これはもうなんでもありやなぁって思うと、
嬉しくなっちゃいますね。
うたの日で今わたしは、
とりあえず4月いっぱいは文語旧仮名遣いでやってみよう
ってチャレンジをしてます。
口語短歌を見て、短歌を始めたので、
わたしがふつうに詠むときは完全に口語なんですが、
文語が出来ないから口語、
っていうのが嫌なんですよ。
文語と口語、どちらも詠んでみて、
今はやっぱりこっちがいいなって選んだ、
と自分で思える程度には文語もやっておきたい、
そんな感じです。
旧仮名なのは、これは文語は旧仮名でという
わたしのこだわりみたいなものですね。
今、わたしたちが普段使うのは新仮名なんだから、
新仮名の方がナチュラルじゃない?
っていう考え方もあるんだろうと思うんですが、
数はほんとに少ないはずではありますが、
「出る」の文語「いず」を「出ず」と表記していいのか?
みたいな気持もあって、
文語には旧仮名、というのはわたしのこだわり。
っていうか、
今更、言文一致とか?
みたいな気持もあります。
前述したみたいに、今短歌では何でも使えるのに、
あえて普段使いの新仮名しか使わないとか
別にそこまで自分で狭める必要あるのかなぁ
とか考えたりします。
ただね、一首、あるいは一連の短歌の中で、
旧仮名遣いと新仮名遣いが混じるのは、
これは基本なしって思います。
これはね、校正する人が困るからです。

と、だらだらと書いてきましたが、
わたしが書きたかったことは、
もうすぐ2000首!やっぱり短歌面白いなってことでした。

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